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プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』

エヴゲーニイ・オネーギン

講談社

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昼前に丸善に出かけ、プーシキン・神西清訳『スペードの女王 ベールキン物語』(岩波文庫、1967)、金子幸彦訳『プーシキン詩集』(岩波文庫、1953)、木村彰一訳『エヴゲーニン・オネーギン』(講談社文藝文庫、1998)を購入。これで現在国内で新刊で手に入る文庫本は全部。「スペードの女王」を読み始めたが面白い。短編だからすぐ読めてしまいそうだ。上の階に行って霜降り牛味噌カツセットなるものを食べる。1200円とリーズナブルだったから食べてみたし美味しかったのだが、そういえばどこ産の牛だったのだろう。そんなことを考えながら食べなければならないと言うのも辛いことである。(1.22.)

『エヴゲーニイ・オネーギン』と『プーシキン 歴史を読み解く詩人』に取り掛かっている。さすがに名作・古典・巨匠という雰囲気ですでに数々の書評や分析が行われているんだなあということを実感。その中には参考になるものもあればそれほどでもないものもあるのだろうと思う。(1.25.) 夜は読みかけの『エヴゲーニイ・オネーギン』を読み続ける。ただいま第3章23節。こういう本は急いで読むものではないなと思う。急がない、という言葉は座右の銘にしなければと最近強く思う。(1.29.)

すぐ違う作品に横ずれしていってしまっていけないが、プーシキン『エフゲーニイ・オネーギン』は第3章を読了して第4章に入っている。『カルメン』とは全然違う女性像。当たり前だが。しかし『カルメン』の作者メリメはプーシキン『スペードの女王』のフランス語への翻訳者で、一時はプーシキンに仮託したメリメの作品だと思われていた、というくらいなので二人の個性や嗜好は近いものがある、ということは感じる。この線の作家はたぶん私は好きだなとだいぶ文芸上の自分の好みも自分なりに理解されてきた。

プーシキンを読み始めて以来、人間の生の実質というものはこういう文芸の中にこそあるのではないかと思い始めていて、というのはつまり歴史や政治、社会学的なものを読んでも生というものの実質や中身、というものに手が届かない、という感じがあったのが、こういうものを読んでいるとそれをダイレクトに鷲掴みしているような感覚や自信が起こってくるのである。自分はやはり言語によって世界を把握するタイプの人間なのだなと思うし、そういう意味で文芸というのは最大の協力者であり羅針盤なのだなと心強く思う。今まで文芸に対してこういう感触や興奮を覚えたことがなかったのが不思議なくらいだが、まあこの年まで生き延びてきたからこそ理解できる種類の感覚や感情や感慨のようなものは沢山あるし、文芸も若い人だけの特権というわけでもなく、読み始めたとき、面白いと思ったときが適齢期なのだと思う。

まあそんなことを感じ考えながらいわゆる文学、文芸を読み続けている。歴史や社会学の本、つまり学問的な本と違い、感じること、考えること、頭を駆け巡るさまざまなことがひとつではないところが文芸の面白いところであり大変なところだ。夢も頻繁に見るし、自分なりに受け止め、解釈し、消化するのに体中の力を必要とする感じである。学問というのはこういう雑多な力を方向付け、整理するためにはいいが、こうした混沌としたものの持つ得体の知れない莫大なエネルギーのようなものがない。こういう莫大なものを受け止める力が若さというものだと思うが、だからこそ文学というものが若者のものだと受け止められていたのだろうと思う。私も四六時中文学に耽っているわけにも行かないし、時間的な計画をきちんとして読まないとからだを壊しそうな感じがする。年をとってから年をとってからの読み方があるという感じである。(1.30.)

電車の中と家に帰ってからと、プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』を読み続ける。私はいつもそうなのだけど、「事件」が起こるまでの描写はどうもかったるくてなかなか読み進められないが、事件が起こるとその先は一気呵成に最後まで読んでしまう。連続テレビドラマ小説を見るようだが、エヴゲーニイとレンスキーの決闘を南砂町あたりで読んでいたのだが、真夜中過ぎには読了して涙を拭いていた。第8章は泣く。訳者の木村彰一氏は、この本一冊を読むだけでロシア語を学ぶ価値があるといったというが、その通りだなあと思う。もちろん私はプーシキンの、日本語に訳出できる話や描写の美しさに感動しているに過ぎなくて、プーシキンの言葉の美しさは分からないのだけど、これだけ美しい話がどんな美しい言葉で表現されているのかと考えると、それだけでロシア語をやり直したいと思う。

メリメの「カルメン」と「オネーギン」に描かれたタチヤーナは全く違う人間像ではあるけれど、カルメンが愛よりも「自由」を選択し、タチヤーナが愛よりも「決断」を選択するその「意志の美しさ」が読むものを感動させるというところはよく似ている。転落していくドン・ホセがカルメンの魔的な魅力の虜になる情熱の囚人であるのに対し、エヴゲーニイは一度「振った」女と再会し、見違えるように洗練されたその魅力に逃げられなくなる、というところが哀しい。若気の至りというか、そういうところが「痛い」のは私だけではないだろうと思う。

エヴゲーニイはロシア文学の「余計者」の系譜の中に位置づけられるというが、これは日本文学の高等遊民の存在とよく似ている。この当たり、自分がある意味似たようなポジションにいないともいえないので全然違和感なく読んでしまったのだが、このあたりの文学的テーマを探ってみるとまた面白い事が出てくるのだろうと思う。

それにしてもタチヤーナは大地の母というか、ロシアの平原、ロシアの雪原そのもののような豊かさだ。川端香男里先生は男に都合のいい女性像、のようなことも書いていらっしゃるが、なんの、意志の形に男も女もあるとは思えない。フェミニズムが解体しようとしているのは本当は解体してはいけないものもずいぶん含まれているとよく思う。そういえば先日上野千鶴子がアイデンティティという概念を解体しようと目論んだ本を出していたようだったが、なんていうか人類に有害なことをやっているとしか思えない。

話は脱線したけれど、オネーギン、よかった。(1.31.)

用事で松本に出かける。電車の中で「エブゲーニイ・オネーギン」を読み直す。一度目に読んだときより、この作の魅力がよくわかる。プーシキンを「愛の詩人」と形容した人があったが、全くその通りだなと思う。中で気がついたのが、というか最初のときから思っていたが、女の足への偏愛がある。フェティシズムにもいろいろあろうが、足というのは私自身も一番共感できる気がする。美しい足は、美しい頬や美しい胸より美しい、というようなことを言っている。(3.9.)

  

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