本探し.netTOP >本を読む生活TOP >著者名索引 >カテゴリ別索引 >読書案内(ブログ)

もりもと崇『大江戸綺人譚』『鳴渡雷神於新全伝 (第1集)』

大江戸綺人譚―のっぺら女房

小池書院

このアイテムの詳細を見る
鳴渡雷神於新全伝 (第1集)

小池書院

このアイテムの詳細を見る

ブックマートに行って新しいマンガを物色すると、もりもと崇の新作が小池書店というところから二冊も出ていて驚いた。速攻買う。しかし、自分の中で妙な忌避感があって変な感じだったのだが、今考えるとそのあたりが思念が現実から遊離し始めていた徴候だったように思う。

この二冊は両方とも読了した。いつかもりもと崇についてはまとめて論じたい気がする。江戸や大坂、明治の神戸などを舞台に市井や郭の話を書いていて、ある意味杉浦日向子と共通する感じがあるのだが、森本は性描写が多く非常に気合が入っていて、そうした場面はとてつもなくエロくてグロい。まあそれもまた人間の真実という感じで、ただ描いている姿勢は一歩引いて醒めたものを感じる部分もある。そのあたりのところはじつに微妙だ。絵はかなりメジャー向きだといっていいのに、メジャー誌ではほとんど描いていない。そのあたりのこだわりが何か関係しているのではないかと思う。ある意味強烈なマイナー志向というか、世の拗ね者として生きようとする部分が強く感じられる。

時代考証にかける気合は半端なものではないし、ものすごく細かいところまで本当によく知っているし調べている。小説家は学者よりも細かいことを知らないと正確な描写は出来ないと海音寺潮五郎だったかが言っていたが、マンガ家はさらに細かいことを知らないのと細部の描写が、つまり作品としてのリアリティが出せないことは考えてみればわかるのだが、それにしてもものすごい情熱のつぎ込みようである。作風は基本的に明るいのだが、その裏に秘められた暗い情熱のようなものが作品世界を突き動かしていて、非常に作家の業のようなものが感じられる。

政治的な主張のようなものが仄見えるところがあって、そのあたりは私などとは対立的な部分もあるが、表現という点から言えば作家に大事なのはそういうところではないし、そういう部分がモロミエになってくると表現としては堕落すると私は思う。願わくはそういうものを表に出さないようにしてもらいたいと思う。みなもと太郎などはずいぶんそういう面が鼻につくようになってきて残念だが、ある程度年を取ってくるとそういうことも書きたくなるのかなあという気はする。そういうことをやって成功しているのは小林よしのりくらいのものか。右派的なメンタリティの方がそういう試みはうまく行く気がする。左派的なメンタリティだと、最後はどうしても教条に逃げ込んでしまうところがあるからだろう。右派では最後に頼る教条が結局自分の内面的な信念や真実にならざるを得ず、そこに作家性の拠って来るものと同一様なものがあるように思う。

『はだしのゲン』なども作品としては面白いところがたくさんあるのだが、政治的な主張のつまらなさでだいぶ損をしている。もちろん売り上げ的にはそのつまらなさのゆえに成功した面も大きいのだけど。大衆化というのはある意味そういうことだし。

しかし、もりもとのメンタリティというのはそういう成功しそうな部分があまりない。時代物のエログロでしかも強い批評性を持った作品など、じつに大衆性から遠い。こういう言い方は何だが、ある意味幸せになれない、不幸な道を突き進んでいると思わざるをえない部分がある。もちろんそのはらはらさせる部分に私のような読者をひきつける部分があるのは確かなのだが。『鳴渡雷神於新全伝 (第1集)』のあとがきで、「本作は執筆中に何もかも投げ出して行方をくらませたくなるようなイヤな事が続き人と話すのさえ億劫になっていました。」と書かれていて、なんというかこの作者の茨の道をそのまま書いているように感じられた。

読者というものはある意味非情なものだから、そういう状況の中でもいい作品、面白い作品を生み出してくれることを貪欲に求めてしまう。その非情さがある意味読者という存在の業のようなものだろうと思う。いい作品を作り出すためなら、ある意味もっと大変な状況になるといい、とすら、もちろん言葉には出さないし意識にも上らせないけれども、たましいの広野のどこかで望んでいるようなところがないと誰に言えよう。全く女郎屋の主人と女郎のような、不幸でそれでいて切っても切れないような関係が作家と読者のあいだにはある。「中島みゆき」とそれを消費する「信者」の関係にもそれは似ているのだろう。中島みゆきはそれでメジャーになったから凄いのだけど。

作品論ではなく作家論になってしまったが、ある種の暗い情熱のようなものを希求してしまう部分が確かに私自身にもあって、自分がそこに落ち込んでしまわないためにそういう作家の作品を読んでいるというところもある。そういうものが自分には書けない、才能という点で、ということが確かにあるせいもあるのだが、しかしそういうことを考えたり読んだりせずにはいられない部分もまた、あるのだ。(日本語として変な文章になっていることは自覚しているが、どうにもうまく書けないものだ。)

まあどうこう言っても作品を作る事で自分を追い込んでいくタイプだという事だけは確かだな。まあその微妙なバランスというようなものが、結局私自身が一番見てしまいたい、ある種の恐いもの見たさとして、というもののような気もする。本当に「行って」しまったら、やはりあまり面白くない、私の場合は。そういうものがお好きな向きもあるだろうが。(11.27.)

  

トップへ