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丸山真男『日本の思想』
日本の思想岩波書店このアイテムの詳細を見る 丸山真男『日本の思想』を読み始める。最初にあとがきを読んでこの本が書かれた状況を知らないとこれらの文章が何を言おうとしているのか分からない。今のところ、その「あとがき」と表題論文「T 日本の思想」の「はじめに」を読んだだけなのだが、はっきり言って面白い。現代の凡百の論者の議論に比べて、丸山のシャープな自然や問題の指摘の仕方などは、読んでいて感心するところがある。後年の丸山の文章を新聞などで読んだことがあるけれども、その時には何が言いたいのか分からない退屈な文章だった気がする(自分が力不足だったという理由は大いにある)が、この文章は手ごわいけれども読みがいがある。それは、この論文が書かれた1957年という時期にも関係あるのだろう。この時期には、保守傾向の強い文壇・論壇と戦後民主主義論壇とが共通の土俵を持ち、議論することが可能だったのだと思う。現在では蛸壺的に(笑)それぞれの論壇誌に閉じこもり、聞くに堪えない悪口雑言をぶつけ合うばかりで全く生産的でないのだが、日本が「国際社会に復帰」してから「六〇年安保」を迎えるまでの短い間、鳩山・石橋・岸政権初期の時期は、硬直化しない自由な議論が可能だったのではないかなと思った。丸山が小林秀雄の文章に論及している内容について真剣に弁解しているところを読むと、そういう意味ではいい時代だったのだなと思わずにはいられない。
私は丸山にももちろん賛同は出来ないだろうと思うが、凡百の思想家とは違い、ぶつかりがいのある(と言っても著書を読むだけだが)存在だということは強く感じた。(7.27.)
丸山真男『日本の思想』を読む。この新書は「日本の思想」「近代日本の思想と文学」「思想のあり方について」「「である」ことと「する」こと」という四つの文章が収録されているが、うち「日本の思想」を読了し、「近代日本の思想と文学」を読んでいる。
昨日も書いたが、丸山という人は凡百の戦後民主主義論者と違い、非常に切れがいいし、論理の構築もすごいと思うところがある。議論は最終的に西欧文明の直輸入に由来する「理論信仰」と農村共同体の人間関係から立ち上がる「実感信仰」についての議論となり、政治、なかんずくマルクス主義の理論の強烈さと「実感信仰」の文学の対比という図式が出来てしまい、そこに議論が集中した、ということはあとがきを読んで知った。まあそれは可笑しいのだけど、そういうふうになることは理解できる。現在の文学でも「戦争の悲惨さ」をうたうような意味での「実感信仰」はなくなることはないし、日本の思想傾向はどこまでも「理論信仰」と「実感信仰」の二分論は有効でありつづけるのではないかという気が、少なくとも現状ではする。
これはたとえばサッカーでも一部に「戦術信仰」、3−4−3とかそういうフォーメーション、戦術のことばかりを問題にする人たちが(それも多数)いることなどを考えると、形を変えて現在でも強く存在するなと思う。彼らはトルシエを支持しジーコを排斥したわけだが、実に皮相だという印象を私などは免れ得なかった。かといってサッカーにおける実感というものはおそらくは子どものころからの貧しいストリートでのボールの奪い合いで育ったマルセイユのジダンやリオデジャネイロのブラジル選手たちなどでなければなかなか生まれないだろうし、そのあたりでの自然発生的な実感というのは日本では弱いのは実情だろう。だからこそ戦術至上主義に思考が傾くのも、ある意味わからないことはない。しかしそれも一つの極端主義だと思う。
結局丸山が何を言いたかったのか、というと、わたしは要するに日本には「規範意識」がない、ということに尽きるのではないかと思う。つまり、あらゆるものを判断するのに基準になる規範、クラッシック、というものである。議論が積み重ならず、ただ平面的、空間的に配置されるに過ぎないことなど、「規範」というものも歴史の中で少しずつ新しきを取り入れ古きを捨てるものであるが、少なくとも思想に関しては日本には規範というものが欠けている、ということはまあそうだろうと思う。その規範意識をどのようにつくっていくかという建設に関してはおそらく私と見解は一致しないと思うが、強靭な規範が育たず、「理論」と「実感」の二つの信仰の間を揺れ動いているのが日本の姿だ、という指摘は相当な度合いでその通りだと思う。
それは別の言葉で言えば最近評判になっている白洲次郎の言う「プリンシプル」だろう。原理原則、と言ってもいい。白洲には『プリンシプルのない日本』という著書があり、これは読んではいないのだが、いいたいことはそういうことではないかと思う。
ジーコは自分で考えるサッカーと言い、オシムは日本らしいサッカーと言う言い方をするが、つまりはそういう日本的なプリンシプルに基づいたサッカーと言うことだと思う。逆にいえば日本にプリンシプルがないのだとしたら、サッカーを通じてそれを作っていくということになるのではないかという気が私にはする。
実際これは根深い問題であって、現段階でも日本人はその分裂についてあまりに自覚していない。つまり、実感を取るか理論を取るか、の二分法が今でも使われていると言うことである。昔はマルクス主義理論に対してイエスかノーか、であったが、現代は市場主義に対してイエスかノーか、になっている。市場主義が必要なら日本的現実に合わせてそれをどう実施していくかということに「汗をかく」ことが必要なのだが、そういう努力はほぼ官僚に任せられていて、それじゃあ官僚が自分たちは日本運営の要諦を握っている権力神殿の司祭だと思い上がってしまうのも無理はない。だからと言って本当にそれがうまくいっているかというともちろん現状にはさまざまな問題が発生しているのだが。
つまり実感にもつきすぎず、理論にもつきすぎないためには現実主義と理念に基づいた規範、伝統と言うものが欠かせないのであり、そうした中庸を採ること、常識の重要性というものを丸山はいっているのだろうと思うし、そのあたりは全く同意できる。また常識という言葉の常識的な意味があまりよくなかったりして、そのあたりはなかなか表現に困るのだけど。
まあしかし分析は分析として、現実問題としては、現在の戦後の現状より戦前の方がまだ規範意識がしっかりしていたと思う。「規範」を完全に殺したのはやはり「戦後の混乱」だと思うし、占領軍に拭い去り難く押し付けられた「敗者意識」であったと思う。そのあたりのところを脱しなければ、日本が現状の混迷を本当に抜け出すことは難しいだろう。
しかしそれにしても丸山の著作はどのように受け取られているのだろうか。『「日本の思想」を読む』とかいう本もあるようだし、そういうのを見ると丸山自体が聖典化されて神棚に祀られているような気もしないではないが、少なくとも丸山が言っていることの射程は長いし、拳拳服膺してひれふすのではなく、問題提起として受け取らなければ意味がないと思う。
もう一つ読んでいて思ったのは、天皇制に言及している個所は私なりに考えたり勉強したりして一定の考えをもっているので内的な会話が成り立つのだが、農村共同体に言及しているところではちょっと途方に暮れてしまうところがあった。自分の体験を寄せ集めただけでは農村共同体のイメージというものを再構成することは出来ないし、そういう意味では勉強が足りないなと思わざるを得なかった。つまり反駁したいような気も賛同したいような気もどちらもあるのだが、「あまり知らない」ことによってそれ以上内的会話が成り立たなくなってしまうのである。文章になっているもので知識を得ることは出来ても、どういうものだったかという実感を得るのは難しいだろうなあと思う。そのあたり、私の中の「実感信仰」の部分が刺激されているなと思うのだが。
ただ、社会階層の頂点(天皇制とそれを取り巻く部分)と基底(農村共同体)が実感信仰で、その間の広い範囲が理論信仰が幅を利かせているというのはまあおおむね当たっていると思うし、そうなると頂点と基底の部分を理解することが日本社会を理解するキーになることはいうまでもない。
まあ、いろいろ考えさせてくれる本であることは確かだ。(7.28.)
丸山真男『日本の思想』(岩波新書、1961)は読了。結論から言うととても面白かった詩読みがいがあった。福田歓一『近代の政治思想』は6枚ノートを取ったが『日本の思想』は15枚もノートをとってしまった。
戦後民主主義の偶像という感じでずっと敬遠していたのだが、丸山は「進歩的文化人」であるとはいえなくはないが単純な左翼では全くない。おそらくむしろ保守的なところがあるといっていいのではないかと思う。その彼が進歩的文化人の代表のように語られ、また確かにそういっていい部分を持っているのは、彼の「戦争体験」の感じ方なのだろう。彼の「軍国主義批判」は原則論的で、「軍国主義批判」からその思想構築・論理構築が始まっているために「軍国主義」といわれるものの何が不当に貶められているかといった、客観的な遠くから見た評価が出来ないというところがあると思う。しかしそれは時代の制約から仕方のないことだと思うし、現在は彼の日本社会の構造分析を評価しつつ、彼の時代観・軍国主義観は批判的に乗り越えていくべき時期だと考えるべきなのではないかと私などは思う。
つまり日本社会に変わらない、「規範意識の希薄さ」というものはわれわれ自身が大いに受け止め、それをどう評価し「日本的な規範」をどう構築していくかが一つの重要な問題であると思うと同時に、その当時の時代的なバイアスにどうしても流されてしまっている部分を批判し思想史に位置づけていくことが要請されているのだと思う。
「近代日本の思想と文学」の稿で三木清の「知性の弾力は仮説的に動き得るところにある。この点で知性は空想に似ている」という言葉が引用されているが、全くその通りと膝を打つ思いだった。知性の弾力性のなさという点が戦後民主主義の最大の欠点であったと私などは思っていたのだが、それはむしろ戦後民主主義というよりその衣鉢を継いだいわゆる左翼の人々の問題点と考えるべきなのだろう。
「思想のあり方について」の稿では有名な「タコツボ型」と「ササラ型」の話が出ているが、それが近代日本の西欧の学術の摂取の仕方に由来しているという主張をきちんと認識したのは初めてだったと思う。そしてこういう問題を乗り越えるのはマスコミの力では無理だ、それは「本来マス・コミは孤立した個人、受動的な姿勢を取った個人に働きかけるもの」で、「組織体と組織体との間の言語不通という現象を打開する力には乏しい」からだ、という主張もとても納得がいく。その結果、どのジャンルにおいても自分たちが持つイメージと食い違ったイメージはみな誤りだと認識されるようになり、それを打開するためには啓蒙しかない、という発想になるためによけい言語が通じなくなるという現象を生むという話は全くその通りだと思った。これはほとんどネットで展開されている議論の食い違いを説明しきっているといっていいわけで、つまりこの当時から日本は「オレ様社会」だったのだなと妙に感心した。
「「である」ことと「する」こと」の稿は最初は前近代社会が「である」社会、近代社会が「する」社会であるといった話で退屈な印象だったが、後半に至って俄然面白くなった。丸山という人が一筋縄で行かないのは、分析をして二つの対立する概念を提出したとき、凡百の論者だと一方が正しく一方が間違っていると二項対立を「正義による邪悪に対する糾弾」に直結させるのに対し、両者の存在意義を必ず浮かび上がらせ、中庸の議論にもって行くところであると思った。
そしてそれが「解釈に過ぎない」とか「実践性がない」とか批判される元になっているのだが、つまりそれはそうした論者が社会構造の解釈は常に善悪二元論でなされるべきであると考え、そうした概念が政治的・思想的敵対者の攻撃に使えないことをもって「実践的でない」と考えていることを暴露しているわけで、現代のよくテレビに出ている凡庸な政治家やコメンテーターの精神的先祖がそこにいるなと思っておかしかった。彼らは小泉首相の「ワンフレーズ・ポリティクス」を批判できないし勝つことも出来ない。なぜならば、結局彼らは方法論において小泉首相と同じ穴の狢であって、小泉首相の方がより洗練された技法を用いているに過ぎないからである。
そうした連中と丸山は全然違う次元にいる。最近丸山真男の再評価が進んでいるようで、昨日もそういうムックを立ち読みしたのだが、埴谷雄高との対談だったか、「私は第二バイオリンを弾けない」(つまりおしゃべりのでしゃばりだ)といっているのを読んで、ああなるほどそういう人だったんだなと思った。だいたいそういう性格を「第二バイオリンを弾けない」と表現するところなどもう今では失われてしまったように思われる抜群のセンスではないか。そういうのを読んでもまだまだ結局は「保守」や「右翼」との対抗のために原点である丸山真男に帰れ、というような感じがするだけで、御本尊様をもう一度あがめたところで何も変わらないだろうなという気しかしない。
むしろいま必要なのは、いわゆる保守の側が丸山を再評価することだと思う。彼の議論のうち、時代に制約されている部分は、もはや十分乗り越えることが可能である一方で、不易流行の不易の部分は日本思想史の善き部分として必ず摂取すべきものがあると思う。
彼の議論を読んでいると、戦後民主主義とは健全なる常識、日本人に欠けていた、そして今でも欠けていると思われる健全な「規範意識」の再構築こそがそのもっとも核心の部分であったと思われてくる。そしてそういう意味ならば、時代の制約性を批判した上で、必ず評価しなければならない思想であると思う。
どこで読んだのか忘れたが、中曽根元首相が白洲次郎に「ディシプリンdiscipline(規律)が重要なのか」と聞いたら「いや、プリンシプルprinciple(原理)が重要なのだ」と答えたというような話があるが、規範意識というのはそのプリンシプルということになるだろう。プリンシプルを持てば常に臨機応変に対応できるが、ディシプリンしかなければ想定外の出来事には全く対応できず、硬直化があらわになる。日本人のディシプリンは農村共同体的な人情意識に基づくものと(愛の鞭とか涙の折檻とか)官僚的な杓子定規な規律に基づくものとに走りがちなのだが、その両者を乗り越える国民的な規範意識のようなものが十分に形成されていないというのが国政運営上も外交上も非常に大きな桎梏になっているように思う。
この問題点は、いまだに克服されていないどころか、問題としてまだ十分意識されていないように思う。丸山を再評価するなら、そういうところからしなければならないと思う。(7.30.)