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カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

わたしを離さないで

早川書房

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昨日は昼前にちょっと回転の悪い頭を動かすために銀座に出かける。銀座で降りて歩行者天国を歩いて教文館で本を物色。結局気になっていたカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(早川書房、2006)を購入。やはりリアルタイムの文芸書も読まなければだめだという気がちょっと強くなってきたからなのだが、だからといってミステリーとかはまだ読む気になれない。読んでみると、まあイシグロは全部そうだといえばそれまでだが、過去の記憶の話。しかし特に「学生(?)」時代の記憶がたくさん語られていて、なんだかいま自分がやっていることとシンクロしていて奇妙な感じだ。しかし、イシグロの作中人物は自分との距離がとても測りやすい感じがするが、この話はかなり自分に近いところにある話だという気がする。まだ読み始めたばかりだが。(2006.5.15.)

イシグロ『わたしを離さないで』。ちょっと渋滞気味。現在第6章、80ページのところ。子どものころの友人とのやり取り。その詳細な感情の揺れの記述は今まであまり読んだことがないかもしれない。子供のころの回想にありがちな「甘さ」がなく、子どもの世界は子どもの世界なりに「キビシイ」、ということがよく描かれている。こういうものをこのように描けると言うことは凄いことだと思う。(2006.5.17.)

『わたしを離さないで』。あまり進んでいなかったのだが、寝る前にちょっと読もうと思ったらはまってしまい、1時過ぎまで読んでしまった。今第16章、228ページ。残りは120ページ弱だが、話がどう展開するのか見当がつかない。最新作だからネタばれになるようなことは書かないが、表紙がカセットテープの絵であることに昨日初めて気がついた。作中あるカセットが重要な役割を果たすのだが、それもまだ読んでいる最中だからそれが最終的にどんな意味を持つのかまだわからない。こういうわくわく感がイシグロの作品にはある。翻訳がかなり丁寧な日本語なのでそれに違和感を持つ意見もどこかで読んだが、その上品な感じが実は結構辛い話であるこのストーリーに明るさをあたえているのだと思う。

そう、読んでる最中に思ったのは、辛い話だよな、ということだった。考えてみたら、イシグロの書く話は『日の名残り』も『わたしたちが孤児だったころ』もとても辛い話なのだ。しかし語り口が明るいので、とても明るい印象が残る。しかしみんな辛い話だ。辛いことってなんだろう、と思う。そしてその辛いことに向き合うためにはどうしたらいいのか。もちろん解決策が明示されるわけではないが、読み終えると何か暖かい感じが残るのがある種の解決になる、という感じの作家だという気がする。中身は書かないが、主人公の女の子がポルノ雑誌を一生懸命に見ていて、それを見ていた友人の男の子とあることについての話をする、そのあたりのややコミカルだがしばらくするとある辛さが読んでいるものに形成されるエピソードなど、性に関わる問題が出てくるのも前に読んだ二作にはないことだ。現代人にとって性というのはある種の深刻な問題なんだなと改めて思わされる。生物の発生のときから続いていることであるのにね。(2006.5.18.)

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を一気に読了。物語世界に入ってしまうとあとは速い、というのがイシグロの作品を読むときの私の傾向なのだが、『日の名残り』や『私たちが孤児だったころ』に比べてなかなかエンジンがかからなかったのは、それだけ物語世界のフィクション性が高く、自分の読み手としての視線のようなものがなかなか定まらなかった、ということにあるのだろう。子どものころの集団生活、というのは私自身も経験しているが、イギリス人の子供たちのやり取りというのはまたわたしの経験とは微妙に違って「感じ」がわかりにくいところが多い。主人公が成長していくにつれてだんだんその「感じ」が分りやすくなってきた、ということなのではないかと思う。

この物語の示唆するところは実に溢れんばかりのものがある。フィクションとしての完成度が高いからだろうか、あれもこれもそれもどれもこの物語には含まれている、という感じがしてくる。

しかしその中で私自身が一番感じたのは、とこういう書き方をするのはおそらく人によってこの物語から受け取るものはきっと驚くほど違うだろうという気がするからなのだが、「この人たち」、といっても作中の登場人物だけでなく読み手である西欧文明の人たちすべてを含めての「この人たち」なのだが、「愛し合う」ということについて「私たち」よりずっと真剣に考えている、ということだった。「私たち」といっても私が思うだけで、日本人でも私などに比べれば遥かに「愛し合う」ということについて真剣に考えている人たちがたくさんいると思う。が少なくとも私が意識する日本文明の住人よりは、ということである。

「彼ら」(これは主人公たちという意味だが)は物語の設定上、子孫を残す事が出来ない。しかしセックスをする事は認められていて、性衝動なども物語の進行上非常に大きな意味を持っている。好きでもない人とセックスをしてしまう衝動とか、愛し合う人とセックスをしても妊娠・出産という果実を結ばないこととかもかなり重要で、題名にすら関係してくる。そして彼らはそう長生きできないことも理解している。その中で人と人が愛し合うということはいったいどういうことか。

彼らは、「愛し合う」ということをある種の課せられた義務、ある宗教的な、あるいは崇高な行為として、また違う角度から見れば峻厳な刑罰として科せられているように見える。それは、登場人物たちだけでなく、西欧文明の人たち一般にそういう「愛に対する強迫観念」があるように思われる、ということである。この世で愛が一番大切だ、という人の言葉には、何かそういうある種うつろなものを感じる事が多かった(私が最初に感じたのはビートルズの「愛こそはすべて」だった気がする。まだ子どものころだが)。

少女性愛(いわゆるロリコン)やSM行為などに対しても、彼らはわれわれよりも考えられないくらい真剣で、そこに愛があるはずだというある種の絶望的な宝捜しをしているように思われる。そのあたりにはわれわれには感知することの出来ない深淵があるのではないかという気がする。

私が思うのは、やはり神を信じる事が出来なくなった彼らが、その代償に求めたのが「愛」だったのではないかということだ。「愛」は人間同士の間に成立するものだから、「神」に比べれば存在・非存在を感知するのはより容易である。しかし人間同士の間に成立するものであるからこそ、不条理なものでもある。

私などが思うのは、やはりそれは人間が「自然」から切り離された病理現象のひとつなのではないかということだ。ただこのあたりのところはそんなに単純に整理してしまっても面白くないので、もっといろいろな事を考えたい。われわれ日本人がもっと近代人であるためには、「愛」についてもっと考えた方がベターであると思う。近代人でなくてもいいという気ももちろんするのだが。

その他のことをもう少しだけ書くと、ひとつ大きいのは差別の問題だろう。この話のテーマは言い換えれば一つの新たなる被差別カーストがつくられる危険性への警鐘といえなくもない。であるからこそ、逆に現在もなお残る差別や、特に根源的であるがゆえに深刻なインドのカーストの問題も照射する。またロボットやアンドロイドと人間は共存しうるかというSF的なテーマにも近く、『仮面ライダー』や「新造人間キャシャーン」で扱われているものが集団的に発生したらどうなるか、というアイデアの展開でもある。そういうことで言えばひさうちみちおの題名は忘れたが「ロボットと人間の結婚」とか「カバの人」の出てくる漫画などを思い起こさせた。

そういう差別された階級を「救済」するためにはどうしたら言いか、という深刻な問題もまた描かれ、イギリスにおける理想主義的人道主義の後退、すなわちサッチャリズムに対する批判にもなっている。しかし、その「理想主義的人道主義」に対するかなり強い批判も作中には含まれている。

このように、かなり幅広く深刻な問題がこの作では提起されているわけで、ものすごい作品である事は事実である。こんな物語を書く人がいるんだということだけでも相当驚くが、なんというか単純に「傑作」だとは言いきれない気がして仕方がない。また数年後、数十年後に読んだらもっと落ち着いた評価もできるのだろうが、今のところは「生もの」である。しかし、おそらく読まれるべき作品であることは確かだろうと思う。(2006.5.19.)

帰ってきてFMでミュージックプラザを聞く。現代音楽だ。19世紀初頭はモーツァルトやベートーベンが現代音楽だったわけだが、彼らは演奏家でありまた作曲家でもあり、現代のロックアーチストのようにそれは不可分だっただろう。今のように現代音楽と古典音楽がわかれ、演奏家が古典音楽を演奏するという分離が生じるのは歴史が深まったということなのだろうか。芝居でもそうだ。現代作家の戯曲をその劇団が演じるのとシェイクスピアの戯曲をどこかの劇団が演じるのとでは、意味が違う。

文学はどうだろうか。文学は、現代文学であれ、古典文学であれ、作家が書き、読者が読む、ということに変わりはない。間に演奏家や俳優はいない。産地直送である。中間業者はいない。外国文学であったら間に翻訳というある種の演出が加わるが、それはとりあえず考えなければ、文学というのはダイレクトな関係だということが言える。

しかしたとえば、朗読と言うものを考えれば、作家と読み手(聞き手)の間に一人の人間、朗読者が介在することになる。これはどのくらいの官能を伴うものだろうか。以前はラジオで、朗読の時間と言うのがよくあり、早めにラジオ体操をつけたりつけっぱなしにしていたりするとよく朗読に引っかかったのだが、最近はあまりそういうのを聞かない。またプーシキンを読んでいるとよくサロンで自分の作品や古典作品を読んでいる話などが出てくる。あれは単に発表ではなく、もちろん聞き手の心の慰めにもなったに違いない。考えてみれば子どもが寝る前にお母さんに本を読んでもらうのが、人生最初の朗読を聞く体験である。朗読体験が深まれば深まるほど、文学に対する理解も深まるというのも感覚的に理解できることだ。

イシグロの「わたしを離さないで」の中で、愛し合う二人の関係の中でいろいろな話をしたりセックスをしたりするのと同列に、お互いの作品や他の作家の作品を披露しあったり朗読しあったりするところが出てくるのだが、これはひどく新鮮な感じがした。日本の恋人たちの間で、何かを朗読しあうと言う楽しみを持っている人はいったいどれだけいるのだろう。相手の声を楽しみ、相手の表現力を楽しみ、相手の理解力を楽しむ。これは考えてみればかなり高度な楽しみ方だ。カラオケと言うのも似たところはあるが、ナルシズムが先行しすぎているだろう。それに比べると朗読ははるかに知的な行為であって、その楽しみ方も高度だ。

自分のことを考えてみると、芝居をやっていたころは練習のつもりで台詞を読んだり冗談に使ったりして会話が成り立ったということもよくあった。しかし演技と言うのは朗読とはまた違う。詩を交換し合ったこともあるが、あれはイシグロに描かれているのに比べるとずいぶんシャイなものだった気がする。ただイシグロが描いているのも朗読といってもたとえばベッドで二人で座って一人が紙に書いたものを読む、というようなものなのかもしれない。それなら多分無意識のうちに面白い本の話をしていたら「どんな話?」と聞かれてその一説を読んで聞かせる、というような形でやっていたことはよくあったなと思う。そういうくらいのことなら日本でも結構みんな経験していることだろう。

ただ、なんだか、朗読と言うのが官能的な行為であるような気がだんだんしてきたので、ちょっとまたいいなあと思ってきたのかもしれない。演奏にしろ朗読にしろ、不特定多数に向かってやるなら芸術表現になるが、特定少数に向かってやるなら親愛の表現になるし、ただ一人に対してやるならとても官能的なものだ、ということなのではないかと思った。(2006.5.31.)

『文学界』2006年7月号にイシグロの『わたしを離さないで』の書評が出ていて「人間という種というアイデンティティーを扱っている」、ということを言っているのだが、うーん、まあ、そうはいえるよなと思いながら自分の読んでいるところと微妙にずれている気もする。なんかそういってしまうとどうしても浅薄な感じになる。しかしこの書評は「扱っている主題の巨大さとそれにみごとに渡り合う構想力と筆力。それでいて読者のそれぞれに考える余地を与えてくれる作品。『わたしを離さないで』は、二十一世紀文学を代表する作品として遠い未来まで語り継がれていくに違いない。」と結ばれており、結局絶賛である。もうちょっと魅力的な誉め方をしてほしい、というのが私の感じた不満なのだが、まあこういう書き方のほうが客観的で冷静だ、と評価されるんだろうなとも思う。まあいいけど。(2006.6.9.)

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