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アルヴォン『無神論』

無神論

白水社

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無神論の起源は敗戦にあるのだと思う。敗戦とそれに伴う混乱は、多くの日本人に「神も仏もあるものか」という感想を持たせた。昭和天皇の人間宣言もそれに拍車をかけた。言葉をかえて言えばこの時代の日本的無神論は「アプレゲール的無神論」といってよいと思う。

それが様相が変わってきたのがわれわれの世代、すなわち1960年前後に生まれたいわゆる「新人類」と呼ばれる世代以降であると思う。アプレゲール的な無神論は、神、ないし天皇の神性が失われたところをどことなく引きずっているところがある。そこにルサンチマンがあるのだが、新人類的な無神論はもっと根本的というか、ドライなもので、三無主義(無気力・無責任・無関心)とか四無主義(+無感動)とかいう言葉に代表される、虚無主義的な無神論である。おそらくはアプレゲール的な無神論のいさぎよくないところに対する反発心がそのような形で神的なものの全否定につながっているのだと思う。われわれの世代がニューアカデミズムの隆盛と重なるのは理由のないことではないと思う。

そういうわれわれの世代が40代、いわば社会の責任世代に入ってきたということで、実質的な無神論の蔓延はかなり本格的な段階に入っているといえる。われわれの世代の無神論はアプレゲール的なルサンチマンとは無縁である一方、科学主義的なアメリカ的無神論とは近く、村上ファンド的資本主義とつながりが深い一方で、オウム的な洗脳宗教とも親近性がある。それは共産主義(つまり「科学的無神論」)崩壊後のロシアでオウムが流行したこととも関連性があるだろう。社会のさまざまなところで無神論的な秩序崩壊が起こっている根本にはそういう虚無性があることと無縁ではなかろう。

もちろん無神論自体は敗戦以前にも個々のケースとして存在してはいたが、無神論が公然と表に出て主張できるようになったのは戦後ではないかと思う。旧制高校的な教養主義には超越者への憧れのようなものがあるし、ある傾向の無神論として存在し得たのはマルクス主義者だと思うが、鍋山貞親が「転向」後にかなり強力な天皇主義者になったように、マルクス主義者の無神論にはそういう神感覚への抑圧のようなものが感じられる。

しかし敗戦後、あるいは現代に無神論が蔓延する影には日本の歴史的な背景と言うものもある。多くの国家で『政教分離』が宗教の政治への影響力を排除する、という意味があるのに対し、日本では国家による宗教への関与を排除する、というふうに考えられがちなのは、日本においては政治の宗教に対する優位の歴史が長いということの反映である。

具体的にいえば、16世紀に織田信長が比叡山焼き討ちや一向一揆の撲滅などを行い仏教勢力を政治的に無力化し、豊臣秀吉や徳川政権がキリシタンの撲滅を行って彼岸的な宗教勢力が政治に関与することの徹底排除に成功した。秀吉も家康も自らの権力の荘厳化は神道(神祇と言うべきか)によって行った。豊国大明神や東照大権現などがそれだが、いずれも現世的権力の来世への敷衍とも言うべき祭祀である。

明治維新の思想的原動力はいうまでもなく国学だが、これは儒学的な意味での「学」であって宗教ではない。もちろん宗教的側面はないわけではないが、政治の宗教への侵食という形で成立した宗教自体の超越性が確保された信仰ではないことはいうまでもない。いずれにしても、日本の近世以降の宗教の超越性の弱さと穏健性とはそれが日本社会の強みでもあり弱みでもあったのだと思う。

そうした背景があったからこそ戦後公式的な皇室崇拝の現実的な基盤が崩れるとぽろぽろと崩れていくように無神論を唱える人たちが増えていったのもそうふしぎなこととはいえない。

しかし、もともと日本には超越的な信仰よりもむしろ多神論的・アニミズム的な「神」観のほうが強かったのだと思うし(この当たりいかにも勉強不足の記述だが)、近世初頭の宗教勢力の崩壊により政治の宗教に対する優位の基盤の上にそうした「神」観が蘇り、現世優位の価値観の中で現世利益的な民間信仰が繁栄したといえるのではないか。

そういう鳥瞰を得て考えると、現在の無神論の広がりもその方が現世的な利益がある(と当人たちは思っている)からだと考えればそうふしぎなものというわけでもないことになる。

無神論の広がりはもちろん現代の世界的な現象(特に白人プロテスタント社会と東アジアに顕著だ)であると思うが、歴史的・文化的基盤はそれぞれに異なると考えるべきだろう。事例研究も集めなければと思うし、この問題には取り組んでいかなければいけないと思う。

そんなことを考えながら三省堂に行く。検索の機械で「無神論」で検索してみても、日本的無神論を分析したものはない。キリスト教社会における無神論の問題ばかりで、要するに日本社会においては無神論が問題化されたことはほとんどないということなのだろうと思う。しかしまあ研究の基礎にはなるだろうからと思いアンリ・アルヴォン『無神論』(白水社クセジュ文庫、1970)を購入。(8.28.)

『無神論』を少し読む。クセジュ文庫は今まで読んで収穫があったと感じることが少なかったのだが、この本は当たりであると思う。訳者の前書きの「わが国では、無神論が思想上の深刻な課題として受け止められたことはなかったといってもいいかもしれない。」という言葉に頷く。本章に入り、「完全な無神論はその頂点においては、完全な信仰にいたる直前の段階にある」というドストエフスキーの言葉に頷く。無神論が西欧世界においていかに深刻な問題を引き起こしているかということを改めて思う。 宗教は(というかキリスト教は)『コンスタンティヌス的極』(宗教の国家制度化)と『黙示録的極』(千年至福説の約束)の間を動揺し、社会的解放の枷になることもあれば解放の支えになることもある。フランスのリベルタン(的無神論)は「堕落して飼いならされた貴族と発展の盛りにあるブルジョアジーとを同時に含んでいる」。無神論と社会的解放は必ずしも重なり合うとは限らない。マルクス主義的無神論にしても、結局はそうだろう。

歴史的無神論は自然科学の発展によりブルジョアジーの一元的イデオロギーによる封建的ヨーロッパの二元的イデオロギー(霊肉二元論ということだろう)の攻撃により始まったと分析されていて、こういう話の展開の仕方は私にはとてもわかりやすいし受け入れやすい。

ただ、「たましい」の問題に踏み込んでいないように見受けられるのはどうだろう。これはこれでまた別の問題と考えるべきか。すぐに理解しきれるものでもないし、もう少し考えなければと思う。

しかしいろいろ考えたり友人とキリスト教について論じるというより語り合ったりして思ったのだけど、私自身の感じ方考え方というのは別に特異なものではなくて、要するにいわゆる東洋的な諸思想やいわゆる東洋医学系の心身論の上に位置付けられているのだと言うことを今更ながら自覚した。そういう意味でいうと仏教はいわば無神論的な側面を持つし、たましいと同義といっていいかどうかはわからないが、事物は仏性を持つかという仏教教学上の大問題とも問題は重なってくる。「山川草木悉有仏性」というのが感覚的には真実だと私は思うが、その辺のところも理論化ではないにしても自分の言葉で語れるくらいには消化しておくべきだと思った。

結局のところ何をどう考えたっていいのだが、相手の語りの視線や流れにあまりとらわれすぎることなく、自分の感じた真実を言葉にしていかなければ生きている甲斐がないわけで、ただそのためには自分がどこにいるのかが見えていなければならない。そのあたりのところを少し見失っていたのかなという気がした。(9.6.)

昨日はアルヴォン『無神論』(クセジュ文庫、1970)を読み進められた。ヨーロッパにおける無神論の系譜はデモクリトスに始まり、エピクロスに受け継がれるという基本的なことを知って感動。こういう方面にいかに疎いかということがよくわかる。リベルタン、フランス自由思想家の流れもこのエピクロス主義の復活という意識があったようだ。「無神論は迷信より好ましい」という主張は現代でも受け入れる人が多いかもしれない。「迷信」が人種的偏見に結びつく場合の害というものを想像したりすればそれは理解できるが、だからと言って無神論が肯定されるべきかということとは別の問題のように思う。

この中で懐疑主義の話が出てきて、あとでヒュームにも触れられている。懐疑主義というのを今までよく理解できなかったのだが、つまりは「神は存在するか、しないか」というどちらにも断定できないことは判断停止(エポケー)すべきであるという主張なのだと理解。そういうことは私などは現実面ではしょっちゅうやっているが、それが哲学的に説明できるとは知らなかった。というか、そういうことならそういうことと簡便な辞典等でも説明しておけばいいのにと思う。

またネットでエポケーを検索してみると、行動の方法論として、考えても理解できないことはまず実行してみようという態度への応用をエポケーとしているのを見つけた。未開人(PC的な言い方がわからん)がなぜこういう行動をするのか理解できないときに、とにかく同じようにやってみることによって理解できることもある、という方法論と理解していいのだろうか。どちらにしろこのあたり、ずいぶん広がりのある話なのだと知った。懐疑論と不可知論の関係もまたよく読まないとわからないが、こういう考え方は私には親しみやすい。自分の「神」に対する態度にもこういうものに近いものがある。神は存在する、という方向に少し踏み込んでみることによって理解できるものがある、という態度。

いずれにしろこのあたりを理解することで西欧哲学の構図が以前に比べてよく見えるようになったと思うし、興味も湧いてきた。もう少しこのあたりの本を読めばこれらの問題について多少はましなことが書けるかもしれない。勉強に「遅すぎる」ことはない、ということで。(9.8.)

帰りの電車の中では休み休みアルヴォン『無神論』を読んだ。ヨーロッパ思想史における無神論と有神論?の論争の真摯さというものがよくわかる。唯物論的無神論と、人間主義的無神論、という分類にもなるほどと思うところがある。当たり前のことなのだが、ヨーロッパの無神論はヨーロッパの思想的論争の歴史の中から生まれてきたものだから、無神論はキリスト教の生み出した産物の何を認め、何を排除すべきかという問題が起こってくる。無神論にも教義論争が起こるわけだ。今まで読んだ中ではそれに対しもっともラジカルなキリスト教に対する否定をしているのはニーチェだと思う。キリスト教の神を「死んだ」というだけでなく、キリスト教が生み出した道徳すべてを「らくだ」の道徳として否定し、それを否定する「獅子」の思想、それにまったく囚われることのない「幼児」の思想を持たなければならないという展開は、いつものことながらダイナミックな魅力を感じる。

一方マルクスは宗教を否定するがそれ以前に人々が宗教を必要とする理由、社会的不正義や不公正をなくせばおのずから宗教はなくなるという理由で、つまり宗教は病であるがその根本原因を除去すれば健康になる、という路線を取るわけで、まあなるほどと思わなくもないが、マルクス主義国家が崩壊の一途をたどっているところを見るとその人間観そのものにどこか誤りがあったということにならざるを得ないだろう、そんなこと敢えて言うほどのことでもないが。

アメリカン・リベラル的な無神論がどのような系譜を持ちどのような思想展開がなされてきているのかについてはまだ自分としてもよくわからない。アメリカのエヴァンジェリストの流れも最近ようやくおぼろげながら少しは見えてきたというくらいだし、無神論の潮流ということになるとまだどのような研究がなされているのかさえよくわからない。どちらにしても、無神論もまた、ひとつのアンチ宗教という名の宗教、という感じがしなくはない。マルクス主義が宗教的な雰囲気を湛えているのと同様。同じ宗教なら、カルトのような有害なものではなく、健全なものであるべきだとおもうが、そこもラディカルになりすぎると危険だ。ニーチェのような魅力的な展開をできる思想家はそう多くはないように思う。

***

ただ、この本を読みながら、自分自身のことについてもいろいろなことが考えられたのは思わぬ収穫ではあった。エピクロス主義はたましいの平安、アタラクシアということを言うが、つまりこれは「恐ろしい神の不存在」を知ることによる人間の安心、という意味になる。「神の存在」が「不安」をもたらす、ということである。それは神は人間に義務を課すからであり、その義務を果たしえない人間存在は常に不安に陥らざるを得ない、ということになる。まあこういう意味では今の日本人の非常に多くがそういう意味での「不安」を感じず、何でもありの心境にいることがさまざまな社会の混乱や犯罪の状況にも現れていると思われるし、そういう意味でのエピクロス的無神論は日本では相当な勝利を収めているだろう。そのなかのどれくらいの人がエピクロスを知っているかは疑問だが。

ある意味たましいに不安がない、というのはなんだか不自然なことのような気もするが、「ある種のアメリカ人」とか「勝ち組といわれるひと」にはこの種の不安が存在しない気がする。それはつまりある種の確信を持っているということで、ある意味凄い。決定論的に世の中を見ることが出来るということである。私にはそういうのはデリカシーなのかインテリジェンスなのかは分からないが何かが欠如しているようにしか思えし、どうもある種の魔(ラプラスの魔に類したものか)を感じる。ただまあそういう「信念」を持っているほうが「成功」しやすい世の中であることは確かなようだ。

この本を読んでいて次第にはっきりしてきたのは、「不満」と「不安」とは違う、ということだ。そんなことは当たり前だといわれるかもしれないが、私にはどうもあまりその違いがよくわからなくて、今でも下手をすると混同しそうだ。そして、なにかテーゼにするならば、「満足している人間は不安を感じ、確信を持つ人間は不満を感じる」、ということになろうか。

20年前の自分を考えると、おそらくは不満だらけであり不安に満ち満ちていたと思う。自分が何者かも分からず、何をしていいかも分からず、何がしたいのかさえはっきりしない、それでいて強い不満だけは感じている、というような。感じ方の違いはあれ、誰もが似たような不満や不安の嵐にあっているのがいわゆる青年期というものだろうと思う。

しかし不満と不安というのは根本的に違うわけで、不満は欲望の発露であるが、不安は確信の不足だと言えるだろう。自分にとって、不満ということは多分そんなに大きな問題ではなかった。だから、そんなに不満に悩まされるということはなかったような気がする。しかし、不安にはもう一貫して逃げられないものを感じていて、それはやはり確信できることの少なさに由来するものだったのだと思う。

しかし世の中、というものは不満は感じるが不安は感じない、というタイプが成功するものだから、つまり確信と欲望、別の言葉で言えばヴァイタリティを併せ持つ人間が成功するものだ。そういうタイプでないとしたら自分を世の中にどう位置づけるべきかということになるし、そういうことはなかなか難しい。ある社会状況でうまく言っていても変化していくとその居場所の状況も変化していくわけだし。

まあそういうことを考えるとその居場所として、宗教というものの存在の大きさということに改めて目がいく。宗教を信じることによって安心立命を得るということだけでなく、宗教の内部でその問題と向き合い、それを乗り越えていく場所があるということは宗教の持つ大きなメリットであると思う。

私も靖国神社についても基本的にはそういう文脈で語られるべきだと思う。宗教と政治の問題についてはどうしても政治の側からの発言ばかりになってしまうのだけど、宗教の側からのもっと素朴な視点からの問題提起があっていいのだろうとおもう。

まあそれは置いておいても、一元的な競争原理に走れば走るほど、人間の多様性はそれへの不適応を起こす部分の拡大に必ずつながると思う。そういう意味ではますます宗教の重要性は高まっていくだろう。無神論という宗教に頼る人も増えていくことは考えられるが。

いずれにしても欲望に突き動かされる競争原理のみが正しく、それにおいて「自由で公正」であることがすべてだという理屈が本当の意味で公正であるとはとても思えない。人間にはやはり「たましいの問題」があるのであって、それを考慮しそこでの議論や話し合いや助け合いが行われることは、人間社会において絶対的に必要なことだ。そういう問題を軽視する人間はやはり軽薄なのだと思う。(9.10.)

アルヴォン『無神論』読了。ニーチェのあとでカミュとサルトルを取り上げているが、カミュの方がなんとなく好感をもてるのに対し、サルトルはちょっとどうも。「この世界の中のあるものは意味をもっている。そして、人間こそ意味を持つことを要求される唯一のものであるから、それは人間である。この世界は少なくとも人間という真理をもつ。それは人間以外の根拠をもたないし、もし生についていだく考えを救おうとするならば、救い出さなければならないのは人間である。」という言葉は、人間の絶対的な弱さにおいて人間を救い出そうとしているように思われる。この考えと神という考えのあいだには無限の距離があるようで、実はそう遠くないようにも思われる。

この本はだいぶ考えさせられたが、教養の世界の無限の広がりのようなものを感じさせられた。勉強しなければならないことは多く、人生は短い。(9.11.)

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