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小林秀雄『本居宣長』

本居宣長〈上〉

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本居宣長〈下〉

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[読み始めるまで]

『本居宣長』で言っている心本来の全的な認識力=もののあはれを知ること、という問題になると、そういう考え方は私の心の琴線には触れるが、現代人のうちどのくらいの人に支持を受けるのか、ちょっと私にはわからない。文学方面の人は私などが思うより支持するのだろうか。(7.7.)

この時代の人たちの国学の思想性というものをよく理解するのはかなり大変だと思った。まずは小林秀雄の『本居宣長』をきちんと読むところからもう一度やった方がいいのではないかとすら思う。国学というのは近世における日本人のある種の宗教的・倫理的世界だなと思うのだが、こうしたものの中で現代にまでなんとなく受け継がれてきているものと現代から見ると非常に奇異になってしまっているものとが雑然と混在しているような気がする。これを先学の時代の考え方に即して再構成して理解しなおすというのはかなり難儀なことだろう。しかし日本人の考え方の独自性や価値観といったものを国学抜きで理解しようとすることはやはり何かの欠落を抱えることになるだろうと思う。やれやれ、江戸時代というのは大変な時代である。まさに日本のアンシャン・レジームというにふさわしい。(10.31.)

『日本思想史入門』を読み終わってからしばらくまとまったものを読んでいなかったが、読みかけになっていた小林秀雄『本居宣長』(新潮文庫)をまた読み始めることにした。読み止しになっていたのは中江藤樹のことを書いているあたりで、ある意味江戸時代の思想史的な感がある。こうしたものを評論的に表現できるようによく勉強したいと思う。(11.14.)

[読み始めてから]

小林秀雄『本居宣長』上、数年前に読み止しにしたところから読み始めたが、やはり最初から読み直した方がいい感じだと思い最初に戻る。初めて読んだときは全然読む気がしなかったお墓の描写などが今読むと鮮やかなイメージで感じられる。文章が変わったわけではない、私の中の何かが変わったのだろう。方形の地所に丸い塚を作り、墓碑には「本居宣長奥墓(おくつき)」とのみ記し、塚の上に山桜を植えろと言う指示を自ら遺言に書いている。墓も葬礼も質素にしろとした上で、山桜だけは良い物を探して植えるようにと言う指示が、いかに彼にとって山桜と言うものが大事な大事なものだったのかと言うことがよくわかる。吉野の山に遊んで歌を詠んだり、また晩年の秋の時期にうつらうつらしているころに桜のことを考え、歌を作り始めたらとうとう三百首になってしまった、というあたり、以前は読むのが苦痛で飛ばしてしまっていたのだけど、今読み直してみるとここを読まなかったらどこを読むのかと言うくらい、小林秀雄が心血を注いで書いていることがわかる。本と言うものは読むべき時期があるのだなと思う。(11.15.)

昨日帰郷。列車の中では小林秀雄『本居宣長』を読みつづける。これは確か初出は『新潮』に連載されたものだったと思うが、その一回ごとの連載のまとまりで番号がつけられているのではないかと思う。(しかしよく見てみると、番号のまとまりはかなり長短がある。連載の区切りとは関係ないのかもしれない。)上巻は「三〇」まであるのだが、今は「七」まで読み終えた。内容について小見出しが有るわけではないので、心覚えに書いておこうと思う。

「一」宣長について書き出すきっかけについて記し、「本居さんは源氏ですよ」という折口信夫とのやり取りから、ある日ふと思い立って伊勢松坂の宣長の墓所を訪ねた話が記され、墓所に関する小林の印象と、その墓所と葬礼について詳細に書かれた宣長の遺言書の内容について述べられ、墓所に植えよと指示した山桜を宣長がいかに愛したかということ、枕辺に浮かぶ幻の桜の歌を三〇〇首も読んだことが述べられている。

「二」こうした墓所に対する思いが学問上の嗣子・大平や平田篤胤ら周囲の人にも必ずしも理解されていなかったこと。宣長は常々死後のことを思うのはさかしらだと言っていたのに墓所に非常に熱心だったのは一貫性に欠けていて思想的に不備だと思われがちなのに対し、小林はその合理的な説明を得ようとはせず、ただ宣長の言葉に耳を傾けることによって彼の思想を「信じ」また述べることを宣言している。小林の思想自体にこの「信じる」という言葉が非常に重要だということは今までも良く感じたが、「耳を傾ける」と言うことと「信じる」と言うことは非常に近いところにあるだろう、と言うことをとりあえず記しておきたい。

「三」宣長の祖先、父母、医術・学問の修行時代、生業のことなど。宣長は周囲の状況に随順し、生業を起こし家名を貶めないことにも心がけていて、二階の書斎と一階の診療室の階段が取り外しが出来るようになっていたり、また講義の途中で診療のために中座したりすることも多く、力の限りそのように両者に努めることを「これのりなががこヽろ也」と記していると言う。彼の学問にはこうした現実を生きるこころと同じこころが貫かれている、と言えばいいだろうか。

「四」宣長の思想史上の位置付けと言うか誰を先学と考えたか、誰の影響を受けているか、などを通じて彼の学問の姿勢を「物まなび」という言葉で表現している。彼の思想は教説として打ち立てられたものではなく、誰かに押し付けようと言った戦闘的な姿勢は全く無い、という。彼は「物まなびの力」だけを信じていて、それを操る自負も持たなかった。つまり彼には確信はあったが、意見はなかった。しかし「確信は持たぬが、意見だけは持っている人々が、彼の確信の中に踏み込むことだけは、決して許さなかった人だ」という。ある意味精神の、思想の職人性のようなものとでも言えるのだろうか。その職人性は恐らく、小林にも共通していて、そのあたりに深い共感があるのかもしれないと思った。

多くの人の書籍を読んでいる中で自然に物を考え、自然に歌を作るようになったと言うが、中でも契沖の書籍と出会ったことで、ものの考え方について悟ることがあった、ということのようだ。誰を先学としたかによって宣長の思想の性格を見極めようとする方法を「歴史家に用いられる有力な方法」と小林は述べているが、そうした客観的な方法ではなく「彼の内に深く隠れている或もの」を想像し、それが彼の思想的作品の独自の魅力をなすことを「私があらかじめ直知している」という。この魅力を「解きほぐす」ことが小林の「希い」であるといい、いわばその内的なワクワク感の訳を解明することができないのが歴史家の方法の短所だと言っているように思われる。そのあたりは私自身も歴史をやっていて常々問題に思うところでもある。

「五」宣長が儒学の学習に関して若いころ友人と行った議論が往復書簡として残っていて、それを通じて宣長の学問についての考え方を述べている。君子でない、つまり治める国や民を持たない自分たちに「聖人の道」は無用であり、失敗した思想家である孔子も風雅を愛していたことを述べ、「聖人」は「しこ人」であるが「孔子」は「よき人」であるという考えにつながっていく。宣長は学問を「好み、信じ、楽しむ」ことを重視し、彼の言う「風雅」の中身はそういうことだと小林は言う。「風雅とは小人の立てた志である」という言葉の中に、宣長のある激しさが表現されているように思う。「こころの底から楽しむ」と言う「まこと」のみが学問の真の動機になり得るものであり、そうでない学問は「いつはり」であり「さかしら」であると言う認識がここから出てくる、と言い得るのではないかと思う。

「六」宣長が契沖に何を見たのか、ということについて。和歌を見るときに「大明眼」を持って「やすらかに見る」ことが歌学の根本であるという。私なりに言い変えると直感を持って感じ取り素直な気持ちで見る、というようなことだろうか。宣長も契沖も学問には達していても歌は下手な人たちで、そこにある疑念が常に持たれたというのは良く分かる。彼らの作歌は正直言って野暮ったいものばかりのように思われる。作歌の表現センスと歌に対する理解度の深さは一致しない、場合によっては両立できない、ということなのかもしれない。

万葉の文字群から歌を掘り起こすということは宣長の言うように「歌の本意を明らかにして意味の深きところまで心に徹底する」ことが行われており、訳出には確かに契沖の文字との対話と交流が感じられ、そこに契沖の人間性が現われざるを得なくなってさえいる。それが方法と呼び得るものであるかどうかは微妙だが、契沖も宣長もそう考えて古典研究に打ち込んでいたということは事実なのだと思う。

ここから先は読んでの感想と言うかコメント。

彼らの古典研究は現代的な意味での科学というよりある種の独創と言うべきで、日本の学問と言うものにはそうしたものがずっと保たれてきている部分がある。そこを科学的言語によって批判するのは恐らく容易なことで、万葉研究にしろ宣長の古事記伝の解釈にしろ鬼の首を取ったようにその誤りを指摘する人がいるが、それらの人が彼らの著作から得られたものはずいぶんと痩せたものだったのだなと思うしかないのだろう。現代科学が「感動」を排除した上で成り立っているのだとしたら、つまらないものだし、それは最終的には人の心を蝕むものにしかなり得ないような気がする。と言うか、もうなっているのかもしれないが。

実際のところ、ギリシャローマの古典やキリスト教の聖書学などにおいてもテキスト批判的な手法は用いられてそれなりの解明は進められているのではあるが、だからと言ってそれらによって古典の精神や信仰の中身が侵食されることを好まない人は欧米にもいくらでもいると思う。近代科学とそうした古典学が折り合いがつけられることがあるのかどうか、ということが、ここ数世紀のあいだの重要なテーマに成り得るのかもしれないと思うし、それが出来なければ人類の荒廃と滅亡が招来される危険が高い、という気もしなくはない。小林が「両者(小林の「希い」と「歴史家の方法」)が、歴史に正しく質問しようとする私達の努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない」と言うのもそういう事かもしれないと思う。心覚えと言うにはやや突っ込みすぎたか。(11.16.)

小林秀雄『本居宣長』契沖についての記述でかなり渋滞し、2度読み返してそれでもなんだか良く分からないのでメモを取り要点を整理しながらもう1度読んだ。

「七」文庫本で11ページ、すべて契沖についての記述。契沖は加藤清正に仕えた武士の孫で、加藤家取り潰しにより没落し、契沖らの兄弟は人にあずけられて「さそりの子のように」扱われながら成長した。契沖も寺にやられ高野山で修行を積んでさる寺の住職にまでなったが出奔し、室生の山中で一度命を断つことを図るが失敗し、再度修行して和泉に閑居した。私が読んだところでは、契沖は「人生は生きるに値するか」という問いを抱えて成長し、修行したが絶望したこともたびたびであったように思われる。その問いの答えを宣長の表現で言えば倭歌への「好信楽」の中に見出し、歌学者として生きることを悟道した、と小林は記述しているのではないかと思う。このあたりの激しい絶望を小林はさらりと書いているので、読み取りきれなかったのだなと思う。

小林にはこの種の小説のテーマになりそうな、絶望やさまざまな感情に淫することを潔しとしないところがあって、良く読まないとそういうものについて読んでいて気がつきにくいときがある。それをダンディズムと呼べば軽薄だが、小林がスタイルとしてそういうものを持ち、また絶望の安売りのような文学にうんざりしがちな私などの読者にとっては感情描写に淫しないリアルに徹することによる広がりを好もしく思うし、契沖という劇的な、あるいは詩的な人間像の描出にかえって成功しているように思われる。

僧侶と言うものは「悟り済ました」者であるが、このような人生の遍歴を取った契沖にとって悟りの道は救いにはならなかった。むしろ和歌の中に人生の真実を見出し、好み信じ味わい楽しむことによってのみ、生きる道を見出したということだろう。古今集の業平の「終にゆくみちとはかねてききしかどきのうけふとは思はざりしを」という歌を取り上げてこれこそ「まこと」の表現であり、死に臨んで悟ったような歌を残すのは人生を偽りを持って閉じるようなものであると言う。宣長はこれを読んで驚き、「法師のことばにも似ずいといと尊し、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」と絶賛している。契沖は歌学を「俗中の真」と表現し、俗にまみれて生きながらも、「悟り済ましたような」「俗中の俗」を払いのければ足ると考えていたと小林は言う。

小林は契沖についての記述も彼の遺言について言及し、それを持ってこの節を閉じている。小林が宣長についての長い批評を墓所や遺言についての話からはじめ、そのほか取り上げる人々についてもその遺言について言及するのは、「死」というものにいかに対するかという問題意識があったことは明らかだろうが、彼らにおける死というものに対する対し方のなんともあっけらかんとした明るさのようなものをいかに表現するかということに心を砕いているということもあったのだと思う。契沖の遺書も、死にあたって弟子にこの庵に住み続けてほしいということ、お金をゆかりのある人にやろうと思っていたが無力にして果たせなかったこと、残した著書や友人でもあった下河辺長流の書などは形見に分けてくれ、といったことのみが書かれている。死して後さっぱりとこの世から消えてしまうというあっけらかんさがあると共に、ゆかりの人々が形見の品を見て古人を偲ぶさまのゆかしさを想像して楽しんでさえいるようである。確かに死を持って契沖という劇、あるいは詩は閉じ、余韻だけが今もまだ残っている。人の死と言うものはそう有りたいものだと思う。(11.17.)

小林秀雄『本居宣長』を読みつづける。『日本思想史入門』を読んだからだいぶ読みやすくはなったが、かなり何度も読んだり踏み込んで理解しようとしないと読み取れないことが多い。

(八)江戸期の新学問の祖とも言うべき中江藤樹について。江戸時代の学問の主流はもちろん林家の朱子学であり、これが官学であったと言ってよいわけだが、官に対する民とも私とも言える学問が存在し、その祖というべき存在が中江藤樹である、という説明は自分の理解した限りでは妥当なものに思える。

しかし、林家の朱子学は林羅山が藤原惺窩に学んだものであるが、惺窩自体がそれまでの学問の元締めであった文章博士家の統制を逃れて独立することに成功した存在であったと何処かで読んだ覚えがある。小林は藤樹が戦国の下克上の気風の中で現われてきた存在で、林家はそれに対立するものとのみしか描いていないが、林家もまた王法・仏法の支配した中世のくびきから逃れ、最大の戦国大名から公儀へと成長した徳川家の元で新たに権威付けられた、近世大名となりおおせた戦国大名のような存在であったと言うことができる。だからこちらもまた、近世的ないじましさを感じさせる存在ではあるが、下克上の中から出てきた存在であると言うべきだろう。

しかし、権力の庇護を一切受けなかっただけに、藤樹の独立不羈の精神は際立っている。そして彼ののちの古学の系統、国学の系統、あるいは史学・陽明学などの学者は多くの場合「市井の学者」として存在した。蘭学では杉田玄白・前野良沢ら藩に属した存在が多いように思われるが、これは高価な蘭書を購入するなどの必要から、主持ちでなければ出来ないという面があったのだといえるだろう。高野長英らそうでない例もあるが、少ないと思われる。

契沖もまた自らを「独り生まれ、独り死に行く身」と表現しているが、これは単に形而上のことではなく、徳川光圀から援助を得たりもしているがそれは彼の本意ではなく、そうしたことのなるべくないように心がけていた。

中江藤樹は母に孝行するために脱藩したエピソードが有名だがこれは感情的な動機というより孝の実践を最上位に置いた思想上の問題だと考えるべきだと小林は言うし私もそう思う。(11.18.)

『本居宣長』14節まで進む。要約はしないが、契沖から藤樹、仁斎から徂徠へ話が行ってようやく宣長に戻ってきた。「もののあはれ」についての話が続く。多いに引きつけられるものがあるが、うまくまとめて書けない。書こうとすると、また長大なものになるだろう。「歴史意識」と「道」の話には大いに感ずるところがあったのだが、これもまたうまくまとめては書けない。何度も読み返しながら考えることになりそうだ。

高校生などで、古文は出来るが現代文ができない、という人が多いのはなぜだろうということを少し考えていて、古文や漢文は語法はもちろん勉強しなければ分からないが、内容は(特に初学者があたるものは)そう難しくないし、常識で類推すれば分かるものが多い。しかし、現代文で扱う文章は深く哲学的であったり文学的であったり、つまりあまり常識的な内容ではなく、挑発的であったり突飛であったりイデオロギー的であったりする、ということもあるからではないかと思い当たった。自分が現代文が不得意だと感じたことがなかったのでその感覚は理解しにくかったのだけど、常識をわきまえていればいるほど現代文が不得意になる、ということは逆説的だがあるのかもしれない。私などはまあ相当非常識だったのだろうと思う。

と、そんなことを考えたのは、「もののあはれを知る」ということが本来子どものころに持っていたみずみずしい感覚を保持するための「道」だ、というようなことが書かれていたので観念操作の得意不得意ということを連想したからのようだ。ここのところずっと古文に属する文章を読むことが多くなっているせいか、もう少し古典文法やら古語の語義語源などをまともに勉強しなおしてみたいという気持ちも出てきている。受験は今思うとかなり適当な勉強のしかたで乗り切ってしまい、そういうその場しのぎの要領のよさが後で祟るということが私の人生にはあまりに多くて何だなと思う。(11.23.)

『本居宣長』をまた少しだけ読む。宣長の宇治十帖の解釈は、匂宮と薫という対照的な人物像を描くことに紫式部の主意があるのではなく、浮舟という本当に主体性のない女性を描き出すための道具立てに過ぎないのだ、ということだと言うことで、これには全く意表を突かれた。「こんな女にも生きる理由がある」という小林秀雄の表現はどうも現代的過ぎるような気もしなくはないが、ややロボット的なイメージがあった薫と匂宮の存在の意味がこれで自分の中では解けたように思った。「ご覧の通り、この女は子供だが、子供は何も知らないとは、果たして本当の事であろうか」と小林は書く。主体性がないからこそ、「もののあはれ」のみがただただ浮かび上がってきてしまう、ということかと思うが、そのように言われると全面降伏としか言いようがない。(11.25.)

小林秀雄『本居宣長』を少しずつ読み続け、源氏物語の話が終わって万葉の話しに入っている。小林のような日本文化の意味や価値を常に社会に向かって語り続ける存在が、今の日本には緊急に求められているのだと思う。(12.8.)

小林秀雄『本居宣長』を読みつづける。『古事記伝』論にはいるかと思ったら賀茂真淵とのやり取りの中での和歌論が延々と続いていた。上代の人々は心に浮かんだ思い、心を表現するための言葉を求めて和歌を作ればよかったが、後代のわれわれは表現すべき心も表現すべき言葉も共に探さなければならない、という表現は面白いなと思った。このあたり微妙な内容が多くて読んでいるときはわかったと思ったのだが今書こうとするとうまく言葉にできないし曖昧になってしまうところが多い。心を晴らすために感情はその形式を求め、その形式を得ることによって心は晴れ、その感情がその人のものになる、それが歌だ、という表現もまた面白い。人は嘆くときにも自然にその嘆きの方のようなものを生み出していて、それが言葉よりも前の歌の形式であり、その形を得ることで人は心が晴れる。芝居で、せりふなどを調子をつけて言うことを「うたう」というが、それと似たところがあると思った。芝居ではうたいすぎるとリアリティがなくなるし鼻につくのだが、例えば平幹二郎などは「うたう」のがうまい。声も良くないといけないし、声量もいる。うまく使えば人を酔わせる表現手段なのだが、それを「歌う」ということと宣長の和歌論との共通性を思う。

今読んでいるところは「やまとだましひ」論で、平田篤胤に至って国学は古き言葉をたずねるという方法論が欠落することになる、ということを述べているのだが、それは全くそのとおりだなと思う。宣長から篤胤に移ることで国学は質的な転換を遂げていると私も思う。その当たりの重大性については私自身もまだあまりよくわからないのでじっくり読んでみたい。(12.9.)

今日はなんとなくのんびり過ごそうと思っていたが本当にいろいろやる気が出ず、友達と電話で喋ったりテレビを見たりしつつ、『本居宣長』を読んでいた。ようやく上巻読了。読み始めてからいったいどのくらいかかっているのか。この本は、一気に読めないように出来ているとは思うが、特に源氏のところや江戸時代の思想史について書いてあるところは読みつつ考え、ほかのものも調べたりノートを取ったりしながら読まないと意味が取れず、かなり苦労した。下巻に入ると古事記関係のことのようなので少しは読みやすいかもしれない。

おそらくは、文学関係の人には常識のようなことなのだろうけど、私は歴史のほうからしかこじきというものを考えたことがなかったので、宣長が述べ小林が解説するようなこじきの編纂意図が漢字到来以前の日本のことばを漢字で写取ることを目的として編纂されたというような解釈は全然知らなかった。何らかの形で書き残された古文書を稗田阿礼が暗誦してそれを太安万侶が記録したというのは、小学生のころからなぜ「暗誦」する必要があったのか疑問を感じていてはいたのだが、「言葉」自体を書き留めるための努力だったのだといわれたら目から鱗が落ちるような感じである。現代人は古事記などに書かれた言語の意味を軽んじ、「客観的な科学としての歴史」を重視するが、そうした観念もまた言語によって巧みに表現されたものに過ぎないという指摘も非常に重みのある一言であると思った。

結局今まで、そうした科学の側に無意識に立っている自分というものをどうしても客観的に意識することが出来なかったのだが、文字や言葉、文学の側からようやく自分のいるところというのを眺めなおせたような気がする。もちろん私はデカルト主義者としての近代科学万能主義者でないことは今まで何度も書いてきている通りだが、だからといって前近代主義?の側に立つのには必要な何かが決定的に欠落しているという感じも持っていた。その一面が「ことば」の問題にあることはどうやら間違いなさそうだ。「からだ」の問題の側からは自分なりにさまざまなことを考えては来たが、「言葉」の問題に入るにはいったいどこが入り口なのか分からない感じがあった。今現在それが見えているかといえばそうもいえないのだが、ちょっと黒雲の切れ目に少し月明かりが見えたような、そんな感じがしている。

まあもうちょっと自己改造というか自己開刀には時間がかかりそうだが、まあいろいろと面白い。小林秀雄というのは付き合いがいのある人だなと改めて思う。

科学というものと戦うことが出来るのは、結局現代においては文学だけなのだなという気がしてきている。というか、それ以外の方法も可能なのだろうけど、(呪術とか)、自分で出来る可能性が万分の一でもあるのは言葉を操ることだけだろうとは思う。それが文学というべきなのかどうかはよくわからないが。(12.10.)

昨日帰京。上京の列車の中で小林秀雄『本居宣長』の初版時の部分を読了。このあとに『本居宣長補遺』という稿がついているのだが、ちょっと一休みという感じだ。文庫本でこれだけ読み応えのあるものを読んだのは初めてではないかという気がする。谷崎訳の『源氏物語』もかなりハードではあったが、あれは5巻あったし、多分もっと一気に読めた気がする。やはり小林秀雄の文体が一気には読めないものなのだと思う。

何かものをいうのは難しい本なのだが、後半の方で宣長と上田秋成との論争が取り上げられていて、上田秋成という人が現在の科学主義者のような考えの持ち主であることを知ってちょっと面白かった。「どの国でもその国の「魂」というものがその国の臭気である」なんて発言は、今でもしそうな輩がいそうなものだ。宣長はまあそういう論難に関しては一蹴しているのだが、こういう秋成のような訳知り顔の相対主義者はいつの世にも跋扈しているのだなと思った。 その後には師の賀茂真淵との学問上の対立というか、真淵の学説を乗り越えていく宣長の苦衷のようなものが描かれていて、こちらの方が一層深刻である。真淵は万葉集の研究によって上代の人々の考え方を自らのうちに作り上げて、それをもって古事記の研究にも当たろうとして失敗している。宣長は古事記に書かれていることにそのまま耳を傾けることによって上代の人々の心のうちに深く入り込むことに成功している。失敗とか成功とか言うのがどういうことかというのは難しいのだが。

宣長と真淵は考え方も性質も相当違うのだが、いにしえを好むという一点において深く許しあう関係であった。だから、彼らの間に生じた抜き差しならない対立というものがいったいどれだけ深刻なものであったかということには粛然とさせられる。宣長のような生き方をする人間に、世に多数の秋成を得ることはあっても、一人の真淵を得ることがどれだけ困難なことか。それは真淵にとっての宣長も同様である。このあたりのところは本当に圧巻で、小林の筆の抜き差しならなさも半端ではない。このようなものを読んでしまうと、現代の科学とか学問というものがいかに浅薄なものであるか、つくづく感じてしまう。(12.17.)

家に帰ってきてからネットを見たり小林秀雄『本居宣長』を読んだり。補遺を含めてようやく読了した。いったいどのくらいかかったのだろう。今までの読書経験でも相当な高いハードルだったが、学んだものも実に多い感じがする。

伊勢の神宮の、内宮の神はもちろん天照大神なのだが、外宮の神が豊受大神であることが中世以来疑問視されて、天御中主神や国常立神などが比定されて来たわけだが、本居宣長がそれをきっぱりと否定するところが面白かった。つまり、何物にも勝る本来の無常の宝は食物である、ということは上代の人々にはきわめて自然だったと言うのである。何者も命がなければ何事も為しえず、そのいのちを保つものは食べ物であり、その徳は無上だというわけである。唯物的とさえいえるその思考はあっけらかんとしているが、きわめて説得力があるように思った。旧陸軍がインパールやビルマの奥地での戦闘の際、この宣長の考えを少しでも思い出してくれたら悲劇も少しは減ったのかなという気さえする。

結局、宣長の、あるいは小林秀雄の学問の、あるいは人間の最も根本的なところにあるのは、「人の道はいかなるものぞ」という問いかけにあった、ということはある新鮮な驚きがあった。一見当たり前のようなことだが、現代の人間で、「人の道はいかなるものぞ」という問いかけを持って暮らしている人間がいったいどれだけいるだろうかと思うと、現代に何が欠けているかということがはっきりする。人の道がいかなるものか、誰も答えることが出来ないし、答えられる者はからごころ=偽者だと言うのが宣長の、そして小林の主張するところだと思うし、私もその通りだと思う。だから、人の道というものは、「人の道はいかなるものぞ」という問いかけの中にしかあり得ないのだ、と思う。その問いかけを持って暮らしているかどうかということだけが人間を人間足らしめているのだと思うし、そうでない人があまりに多くなりすぎたがゆえに現代社会が人の世というよりは修羅の世でありあるいは畜生、餓鬼、地獄の世になりつつあるのだと思わざるをえない。

そしてもうひとつそうだなと思ったのは、「物語」の大事さである。その「人の道はいかなるものぞ」という問いかけに答えるために、無数の物語を人間は生み出してきたのだ、ということを彼らは強調しているし、私も強くそう思う。日本の古代人が自らその問いに答えるために生み出したのが古事記の物語であり、それぞれの国の、それぞれの時代の人々がその問いに答えるために多くの物語を生み出してきた。私がナルニアの物語に引かれたのも明らかに、そこにはルイスの考える「人の道」が書かれていたからだ。

宣長や小林に自明であったその問いの存在こそを、今のわれわれは取り戻さなければならないのだと思う。人の道はいかなるものぞ、という問いをその心中にしっかりとすえることができたら、今日本で起こっている陰惨な、あるいは恥ずかしい事件のほとんどは、あるいは親米ポチと呼ばれるようなアメリカ人の出来損ないのような発想は起こらないのではないかと思う。

私がなぜ歴史を選んだのかということを今思うと、歴史学というものよりも「物語」の語りだす「人の道」というものに強く引かれたからなのだとようやく得心がいった。歴史学者や歴史研究者になりたいのではなく、歴史家になりたいのだと昔から思っていたが、歴史家のみが本当に人の生きた物語を紡ぎだすことが出来ると私自身は信じていたからなのだと思う。物語とその語り方には、その人の全てが現れる。日本の歴史の語りこそが、日本および日本人というものを描き出し、われわれとわれわれの祖先たちがどのように人の道を考えてきたかを知ることが出来るただひとつの方法なのではないか、そんなふうに私は今思うようになった。

ものそのものを愛すること。

西部邁が左翼はイデオロギーで全てを考えるところが嫌いだし、右翼はものそのものを信仰しすぎるから苦手だ、というようなことを言っていて、それはいいえて妙だなと思った。天皇とか、日の丸とか、君が代とか、そうした「もの」に強いこだわりをもって硬直化してしまうところが右翼と呼ばれる人たちの発想にあることは確かだ。しかしそれがこだわりではなく愛であり、その対象が具体的な「もの」ではなく物語であったのなら、もっともっと保守という思想や愛国心というものは自由になるのではないかと思う。もちろんそのものを愛すると言うことはとても大事なことだと言うことは譲れないことではあるのだけど。(12.19.)

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