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司馬遼太郎『燃えよ剣』

燃えよ剣 (上巻)

新潮社

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昨日の昼過ぎに市立図書館に出かけ調べ物をしようと思ったのだが調べるにはどうも本も足りずはかどらない感じだったので中止して、街を歩いて帰ることにした。途中で和菓子屋を見つけてきんつばを二つ買い、そこで鏡を買おうと思っていたことを思い出して駅前の百円ショップに行った。そこで鏡とくしを買い、隣の本屋に回って戊辰戦争に関係するものはなにかないかと思って探したがあまりなさそうだったのでとりあえず新潮文庫の司馬遼太郎『燃えよ剣』上下を買った。帰路ローソンに立ち寄ってコーヒーのドリップパックを買い、家に帰った。

『燃えよ剣』を読み始めるとなかなか止まらない。途中いろいろなことをはさみながらようやくさっき読了した。実質だいたい10時間、960ページとして1時間で100ページのペースか。文庫本だからだいたい400字詰めに換算して1ページ1.8枚、1時間で180枚読んだ勘定になる。芝居だと通常1枚1分とされているから、朗読の3倍のスピードとなろうか。しかしこれはト書きなども含めての話で、あくまで概算である。

実は今まで司馬遼太郎の幕末ものというのはあまり読んでいない。『項羽と劉邦』だとか『空海の風景』だとか『街道をいく』だとか、そういう感じのものが多かったので幕末ものはひょっとして初めてかもしれない。いま自分の本棚が近くにないから確かめることは出来ないのだけど。

今まで読んだ作品と違って、『燃えよ剣』には司馬の明らかな燃えるような共感がある。共感によって書き込まれた人物が立ちあがり、歩き出す感じがする。今まで読んだ新撰組もののどれよりも、そうした共感というものを強く感じる。

たとえば水木しげる『近藤勇』などは、もちろん作者の視点が批判的であるし、近藤自身のせりふとして自嘲的であったり水木の批判がはっきりと現われている。実際の土方歳三がもちろん司馬の書くような形でものを考えたかどうかなどは分からないわけだが、その内的な必然性の点で一つの解釈ではあると感じられる。

細かい点においては史実との若干のずれがあったように思うし、創作された架空の人物もあるわけでそのへんのところが歴史小説の虚実皮膜の部分であるが、やはり司馬のほとばしる情熱、のようなものが土方の人物像への共感として現われている部分が読んでいて非常に胸の躍るものを感じるし、こうした部分を感じさせることは小説家冥利に尽きるだろうな、と思う。

読んでいるうちに私自身、作中の土方という人物に強い共感を持ってくる。実際の土方がどんなふうに考えたのか、もちろん分からないし、司馬の作中の土方に共感するからといって実際の土方が我々の同時代人であるとはいえない。しかし、作中の土方はやはり我々の同時代人であると感じさせる部分があり、だからこそ我々が読んでも面白いと思うのだと思う。その辺は作家の匙加減の微妙なところということになるだろう。

鳥羽伏見の敗戦後、大坂に戻ってきた土方たちの期待に反して将軍慶喜が江戸に逃げ帰ったために新撰組も東帰することになり、乗船する富士山丸の出航までの二日間、思い人のお雪と夕陽が丘ですごすくだりがある。詳しく引用はしないが、この場面は自分が読んできたどんな場面よりも官能的なものを感じた。この小説の中で土方の情事の場面はどの場面もひどく印象的なのだが、お雪とのそれは京、大坂、函館と三つの場面があり、そのそれぞれの土方の心境が実によく描かれているように思う。

何に官能を感じるのか、ということはもちろん人それぞれのことなのだけども、自分の官能のもとはこういうところにあるのかもしれないと思った。

WEBでいろいろな人、特に女性がそのようなことに付いて書いているけれども、そういうものを読んで私が共感を感じることはあまりない。そういうのを読んでも、やはり官能というのは個人的なものだな、と思うだけである。しかし、そういうのを読んで嫌な感じを受けるのだとしたら、それは自分自身の官能のありかというものを自分でよくわかっていなかったということがあるのかもしれない、とそんなことを思った。

私が作中の土方に共感を感じたということの一つには、ひょっとしたらそんなことがあるのかもしれないという気もした。(2002.1.7.)

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