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チャンドラー・村上春樹訳『ロング・グッドバイ』

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そんなことをしていたら呼び鈴がなり、何かと思っていってみたら夜の0時頃にbk1で注文したチャンドラー・村上春樹訳『ロング・グッドバイ』(早川書房、2007)が届いた。特に指定はしなかったのだが条件に適合したらしく、「宅急便Todayサービス」というのに該当したらしい。鮠!もとい速!まだこちらは読む姿勢が出来ていない。しかも結構厚いぞ。本文533ページに50ページ近い「訳者あとがき」。これは読み応えがありそうだな。気合を入れておかなくては。

それにしても、bk1は十分速い。amazonの速さにも驚いたが、基本的にネット書店の配送速度はおそるべきなのだ。もう速さでは比較できないから、ほかの点で優劣を比べるしかない。(3.11.)

帰郷の車中ではチャンドラー・村上春樹訳『ロング・グッドバイ』を読む。チャンドラーを読むのは実はこれが初めてなのだが、なかなか面白い。まだ84ページだが、なるほどフィリップ・マーロウというのはこういう造形かと思いながら読む。いろいろなものから洩れ伝わるマーロウ像からして、もっとあざといものかと思っていたが、ここまで読んだ限りではもっとナチュラルな感じだ。ハードボイルドというものを伝えるために伝える側が誇張して表現してしまうからなんだろうなと思う。その部分だけ取り出してしまえば、やはりあざといのは当たり前なのだが。

帰郷の際にヘッドセットも持ってきたのだが、いつも使っているノートパソコンで東京にいるときと同じような作業をしてラジオ放送をしようと思ったのだけど、パソコンの体力が不足しているせいか、電源ノイズのような雑音がかなりのレベルで入ってしまい、ちょっと聞き苦しい。多分機材の限界の問題のようなので上手く解決できるかわからないけど、うまく行ったらこちらからでも配信することが出来るのだが。

どこかに書いたかもしれないのだけど、私は村上は必ずしも好きな作家、というわけではない。政治的な発言とか聞いていると、かなりの隔たりを感じる。しかし何が彼の作品を私のような人間にも読ませるのかと考えてみると、彼の作品世界は近代小説の意味での自我の葛藤などを描いたものではなく、何かもっとよくわからない不気味なもので、彼はその不気味なものを現世に伝えるある種の霊媒師のような存在、という感じがするからなのだと思う。そして、その霊媒師的な技術というものが、彼にはかなりある。イシグロは尊敬に値するが、村上は尊敬できる、という人ではない、とある人が言っていたが、それは個人、あるいは自我としてイシグロの試みというものにはある種の崇高さがあるのだけど、村上は自我としては職人というか、技術者的な感じがするということなのかなあと私は解釈した。

『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』など、「あちら側」の持つリアリティのようなものを村上は書いていて、そのあたりがもう一つ日本の文壇に受け入れられない原因なんだと思うが、私はそういうものはわりあい好きだ。つまり、村上は肉体の世代的には全共闘世代なのだが、作品世界としてはまあいわばポストモダンなのである。その部分が私などの世代には受け入れられたのだと思うし、その部分が今日的にはややアウトオブデートな感じを持たせるのだろうと思う。

私は村上の翻訳は好きだ。村上は翻訳の場合は、自我を出さずに技術者に徹していて、作家としての技を駆使して英語と日本語の境界を越えて浸透する力を持った言葉を引き出してくる。翻訳という作業は異なる言語体系にある言語体系の精華を持ち込むことだから、翻訳家は当然ものすごく大きなジレンマを抱え込むことになる。そしてそれがゆえに翻訳的正確さを伝えようとする翻訳家の良心と意味内容を日本語の体系の中で伝えようとする「意訳的」な翻訳家の良心とが常に衝突することになる。そしてその結果、あるいは妥協の産物として生み出されるのが「翻訳調」の文体ということになるわけだが、村上の文章は作家としてのある種の技術を駆使して翻訳調をはるかに越えた練れた言葉で語ることが出来、それはすごいなあと思う。黒子に徹し、それでいて村上にしか出来ない作業。もちろんそこはかとない「翻訳調」ならぬ「村上調」がかもし出されるところはあるがそれはまあ製造者責任印みたいなもので、それはそれでいいんだろうと思う。

まあそんなことを考えたのも、実はラジオと関係がある。村上は翻訳を黒子でやってるな、という感じは前からしたが、実は小説に関してもある種の黒子、霊媒師的なやり方でやっているのではないかとさっきインターネットラジオの試験録音で村上のことを語りながら思ったのだった。文章を書くことにより発声するリズムのようなものと、語りにおいて生まれるリズムのようなものはやはり全然違うなと思う。それぞれの持ち味を生かしながら、いいものを双方で作っていければいいなあと思う。(3.14.)

午後はチャンドラー・村上春樹訳『ロング・グッドバイ』を読み進める。今220ページ。4割弱というところ。だいぶ面白くなってきた。ミステリー(というんだよなこういうのは。あまりこういうジャンルを読まないから定義もよくわからないのだけど)で筋を説明するのはあまりよくないだろうし、実際あまり意味がないからしないけれども、レノックス事件が終焉させられたことについて新聞が、経営者たちの私生活に関わってくる事件に関してはどこの社も暗黙の了解で伏せてしまう、というところはマスコミ産業というものはやはりそうなんだなあと思う。まあ言わば当たり前すぎるほどあたりまえのことなのだが、ついそんなわかりきったことを面白いと思うくらいには、マスコミや社会に対する期待も私には残っているということかもしれない。

読んでいてい思わず声に出して笑う場面がたくさんあったが、なんと言うかいわゆる「ハードボイルド」の作品というのは小気味よい悪口雑言に満ちているんだなというのは発見だった。小気味よい悪口雑言といえば歌舞伎の助六だが、あれも助六や揚巻がいけ好かない金持ちの意休への悪口を並べ立てるところが見どころだ。チャンドラーのこの作品も出てくる登場人物が次から次へと悪口を並べ立てて、その悪口にそれぞれその個性が表現されていて、人物造形に踏み込んでいるところがとても魅力的だ。こういう悪口というのはあまり凄んだ表現で訳されていても興醒めだし、多分今までのハードボイルド小説というのが支持を失いつつあるのはそういうところに原因があったのではないかと愚考するが、村上の訳は魅力的だ。

よる朝日新聞を読んだらたまたまその辺のところに関する分析が出ていて、村上訳によって現在売れている『ロング・グッドバイ』は、そのまま「ハードボイルド」の復権にはつながらない、村上はこれをハードボイルドとしてではなく、言わば「都市小説」として訳している、という分析がなされていて、その表現の仕方にはあまり魅力を感じなかったが、言いたいことはまあ分かるし、そうだろうなという気がした。出版社や書店はどこもこのチャンスにチャンドラーや他のハードボイルド作品を売り込もうとどこでも張り切っているが、多分そんなにうまく行かないのではないかと思う。読者は「村上訳の古典的ハードボイルド」だから読んでいるのであって、ハードボイルド一般に興味があるわけではない。それは「村上訳のグレートギャッツビー」や「村上訳のキャッチャーインザライ」も同様だろう。村上自身も、なんと言うか翻訳というものの方向性を少し変えたいということを意識している面が、そう言う「現代の古典」を精力的に訳していることからも、あるのではないかという気がする。少なくとも将来的に村上春樹全集が出るときには、こういう翻訳作品は外せない。彼の小説家としての技量もまた、この翻訳の作業の中で磨かれているのではないかと思われる面もあるからである。

フィリップ・マーロウという人物は魅力的であることは確かだが、「よけいなカッコよさ」がないことが、やはり村上訳の最も大きな魅力なんだろうと思う。しかしそれが「愛好者」には不満だということももちろんよくわかるのだが。

まあいろいろなことを書いたが、私自身が一番感じたのは先ほども書いた「悪口雑言の魅力」である。それを捜し求めて、チャンドラーの作品を他にも読んでみることは、あるかもしれないと思った。読みかけ。(3.15.)

とりあえずやろうと思っていた作業は進められたが、その先のビジョンを立てたりすることが寒いとなかなかうまく行かない。こういう時にはとりあえず読みかけの本を読み進めておこう、と思い(今考えるとその選択肢って正しいのかと思うが)家に戻ってチャンドラー・村上春樹訳『ロング・グッドバイ』を読み進める。まあしかし、行き詰まったときに同じところで頑張ってみてもいいプランが出てこないということは事実だが。

現在330ページ。昨日の日記を見たら220ページまで読んだと書いてあったから、それから110ページ読んだことになる。バー「ヴィクターズ」でギムレットを飲む描写がいい。この百ページあまりで主な登場人物がようやくすべて顔を出したという感じだ。いろいろな伏線がすでにかなり解決されてきている部分があって、かなり感心させられている。そういうのが全然わざとらしくないのがすごい。私立探偵マーロウに日常のつまらないいざこざを持ち込んでくる小市民、横暴で暴力的で出世欲の強い警察や司法関係者、裏社会の住人たち、ただれた上流階級、まあそんなふうに書いてくると全く「いかにも」なのだが、それを読ませてしまうところが改めてすごいなあと思う。つまりは描写がていねいなのだろう。もちろん科白が気が利いていてそれでいて苦味があり、また設定された情景も徹底的にゴージャスな美女の裸体から精神状態の危うい人びと、埃っぽい南カリフォルニアの田舎道、といった言わば天国から地獄までを往復するマーロウの地獄めぐり、とでも言った方がいいような展開だ。

読んでいるうちに、この作品は全く「愛すべきもの」だという気がしてきた。それは、そういう展開の中のあちこちに笑う場所がいくつも収められていて、それがどれもこれもかっこいい、からかもしれない。緊迫した場面の笑いがその場を崩すのではなく、より緊迫感を高めたり。うーん、やはりあまり普段読まない種類の本だから上手く説明できない。しかしほんとうに「愛すべき」本だ、と思う。(3.16.)

車内で食事を終えるとチャンドラー・村上春樹訳『ロング・グッドバイ』の続きを読み始める。ほかにやることがないので集中して読み進める。思いもかけない展開。なるほど、探偵ものというのはこういう展開をするんだな。そういえば、小学校の頃は探偵が好きだった。

「ギムレットを飲むには、少し早すぎるね」の台詞のでてくる展開では、さすがにやられたと思った。ネタばれになるので書かないが、この展開がでてくるだけでこの長編を読む価値がある、という感じになるだろう。「さよならをいうのは、少しだけ死ぬことだ」という台詞があるが、これはまあその通りだと思うけれども、そんなにすごいかなあとは思う。

列車が40分遅れてくれたおかげで車内で読み終えることが出来た。その後に村上の長い訳者あとがきがあるのだが、これは読み終えた直後に読むものではなかったなという気がする。余韻のために読むようなこういう小説の後で、余韻を最初から打ち消すようなあとがきは少し気が利かない。が、仕方ない、読み始めてしまったので最後まで読む。読み終えたのはもう家についた後だったが。特急が遅れたおかげで午前様になってしまった。

読み終えていろいろなことを考える。確かにこれは精緻な文章芸術で、多分そのつど読み返しても面白いところがあるに違いないと思う。村上の批評が頭の中にあるせいで、自分自身の感想が素直に出てこないところがあんまりよくない。村上の感じ方と私自身の感じ方にはかなりの隔てがある気がする。多分、私の感じ方の方が特殊なんだろうと思うが。

読み終えて、この中の誰が自分に一番近いか、と問いかけてみると、フィリップ・マーロウではないことは確かだ。では誰かというと、テリー・レノックスかも知れない、と思う。そのほかの男の登場人物は、みなタフかタフを気取っているか萎れているか、あるいは萎れているふりをしているか、何だかある意味戯画的な感じがする。キャラクターだ、という感じだ。テリー・レノックスもある種戯画化されているかもしれないが、戯画化しきれない何かがある。マーロウは村上の言う仮説としての人格、という主張は分かる気がする。マーロウもある種の戯画のような気もしてしまうのは、チャンドラーのエピゴーネンが余りにたくさん存在するせいだろう。

女性像でいうと、一番魅かれるのはやはりアイリーンだ。こういう造形の女性に引かれるという自分自身に何か問題がないとはいえないが、リンダはやや日常性がある。村上が言うように男の造形には技術を尽くしているチャンドラーだが女性の描き方はややロマンチックに傾きすぎるがために平板になっているということは事実だろう。しかし、これだけ暑苦しい男たちがたくさん出てくる話の中で、女性まで暑苦しい造形がされていたらちょっと耐えられないだろう。ロマンに流れているのがむしろ救いなのではないかという気がする。その中でも、アイリーンはつき抜けたものがその造形にはあるといえるだろう。

フィッツジェラルドがニューヨークを描いたように、チャンドラーはロサンジェルスを描いたと村上は言うが、そうかもしれない。二人ともアイルランド系だというが、シカゴで生まれたチャンドラーは父がアイルランド系でクエーカーでアルコール依存症だった、というのは相当複雑な何重にもねじれた業のようなものを持って生まれてきたということが分かる。クエーカーの酒飲みなど初めて聞いたし、アイルランド系のクエーカーというのも始めて聞いた。もちろんそういう人もいるのだろうが、あまりにも規範から外れている。アメリカとはいえ、いやアメリカだからこそ、そういう規範から外れた人間の生き難さというものは想像を絶するものだったのではないかと思う。チャンドラー自身も離婚した母とイギリスに渡り、パブリックスクールに通っている。何重にも捻じれた骨が捻じれたままつなぎ合わされたような人生だ。チャンドラーが小説を書き始めたのが45歳を過ぎていたとか、(最初の刊行本「大いなる眠り」は50歳のときらしい)チャンドラーの妻は18歳年上で、84歳で妻が死んだときは大きなショックを受け、自殺まで企てているという。

チャンドラーという人間は今でも自分の中でうまく像を結ばない。マーロウにしてもそうだ。やはり人格が仮説だといわれてしまえば途方にくれてしまうのかもしれない。感銘を受けたことは確かなのだが、一体その感銘の正体が何なのか、どうもうまくかけないもどかしさがある。(2007.3.17.)

  

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