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小川洋子『薬指の標本』

薬指の標本

新潮社

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東京駅の丸善へ。ちょっと何か読むものがあるかと思って探したら、小川洋子『薬指の標本』(新潮文庫、1999)があった。帯にはベルトラン監督の『薬指の標本』のスチル写真。手ごろな厚さだし、380円と言う値段も手ごろなので購入。

特急の中で読み始める。表題作「薬指の標本」。ストーリーはある種村上的な世界の雰囲気もありつつ、女性の生理的・心理的な渾然とした感覚が展開する場面があり、こういうところは違うなと思う。ややソフトなサディスティックな描写もあり、いやマゾヒスティックというべきか、ブーンと虫の羽音のような耳鳴りの向うで物音を聞いているような、生理的なわかりにくさというものがある。ただ一つ一つの事柄についての描写はとてもクリアーでわかりやすく、「標本」をめぐって静かに思考が漂っていく。登場人物が、何をルールに動いている人なのかは今ひとつよくわからない。決められたとおりの日常を送っていても、心は必ずしもそこにはない、というある種ありふれた人間なのだろうと思う。そういう人こそ、自分から見ても周囲から見てもどういう人なのか、わからない人なのだろう。

途中で眠くなって読みきれず、八王子から茅野までほとんどずっと寝てしまった。今日になってから少し読み、今読了したところ。実際、フランス映画のような短編だ。結局愛とはこういうものなのかな、とフランス映画を見た後で感じるようなことを感じた。「六角形の小部屋」は未読。(9.13.)

小川洋子『薬指の標本』読了。「薬指の標本」と「六角形の小部屋」の二作だが、私は「六角形の小部屋」の方が面白かった。「薬指の標本」は徹底的に「愛される」ことを求める受身の愛を描いていて、共感しにくい、というよりは共感したくない、という感じのところがある。和文タイプライターの文字をぶちまけて全部拾わせる愛、というのは、愛の形としてわからなくはないが、ちょっと、ねえ。でもひょっとしたら、家庭生活で女性の被っているもろもろの雑事のメタファーとして読めなくもないなと思ったりしたが、その雑事をこなしているときに「愛する人」がずっと彼女をじっと見つづけていたら、それはそれで強烈な愛なのかもしれない。それを求めている人もひょっとしたらいなくはないかもしれない。

「六角形の小部屋」はなんだか深く共感するところがあった。ある日突然、何の落ち度もない恋人を嫌いになる。仕方のないことだが、起こることだ。突然嫌いになった覚えも突然嫌いになられた覚えもないことはない。それに突いて主人公は深い罪の意識を抱いているが、それももちろんわからないことはない。営々と積み上げていても、ある日突然、なるようにしかならなくなる。それは自分が、おそらくは「運命」に逆らうことを自覚しながら営々と何かを積み上げ、それがある日「突然」、「偶然」によって極端な軌道修正を強いられる、その「不条理さ」を描いている。

不条理さ、と思いながら「必然」である、とも感じる。「偶然と運命は反対語でしょうか。」と主人公は「六角形の小部屋」の中で語る。運命は偶然のふりをして人間に襲いかかる。突然人を嫌いになってしまう罪の意識。私はどちらかというと、その偶然に襲われても何も出来ない「無力感」のほうを感じてしまうのだが、その「無力感」というのは「罪の意識」と言葉が違うだけで、同じ感覚を意味しているのかもしれない。

「六角形の小部屋」というのは、ある意味小説のメタファーでもあろう。だとしたら、人はどのようにして小説を書くのか、という問いかけでもある。「六角形の小部屋」の中で、誰に話し掛けるともなしに、ただ話しつづける。考えてみれば小説を書くというのもそういう奇妙な行為に似ている。ただ、六角形の小部屋の中で話されたことは誰も聞いていないし話してもいけないことなのだが、小説は前提としては誰に読まれてもおかしくないもので、そこに根本的な違いがある。ただ、小説家には基本的に「読者」が誰なのか見えないものだし、そういう意味では「誰も聞いていない」ことに類似した点がないとはいえない。あるいはネットというものにもそれに似たところがあるかもしれない。

そのほか、このに作を読み比べてみて感じることは結構多い。「薬指の標本」だけしか読まなかったら、私はこの作家をもう読みたいと思わなかったかもしれないが、両方読むことによってこの作家の作家世界の広がりのようなものが感じられ、場合によっては他の作品も読むかもしれないという気持ちになった。場合によって、というのは、面白い面白くないというよりも、「自分」というものに対峙させられるところがこの作家にはあって、その対峙の仕方自体を考えさせられるところがある。

それはこの作家が思考的というよりは感覚的であるからであって、私はやはりどちらかというと思考的というより感覚的な人間なのだなという思いを深くする。彼女の作品はオンダーチェの『イギリス人の患者』に似ている感じのところもあり、また「薬指の標本」はギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』にも出てくるというが、言われてみるとフランス的というよりはドイツっぽさのようなものがないとはいえない。非常に乾いて論理的と思われるドイツ人が実は感覚的で、大雑把で感覚的に思われるフランス人が実は論理的だということとその感じは近いかもしれない。(9.14.)

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