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志賀直哉『小僧の神様・城の崎にて』

小僧の神様・城の崎にて

新潮社

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昨日帰郷。特急に持ち込んだ本は3冊。志賀直哉『小僧の神様・城の崎にて』は「佐々木の場合」「城の崎にて」「好人物の夫婦」と読んで「赤西蠣太」を読んでいる最中。以前はこういう短編を読んでいても何が言いたいんだか全然わからないと思いすぐに放り出してしまったのだが、今は面白く読んでいる。いったい何が面白いのか、と改めて考えてみると、結局「小説の読み方」が分った、ということなんだろうと思う。

これは若いころレンブラントやバロックの絵画のどこがいいんだか分らない、と思っていたころに、ロートレックの「マルセル」を見て、画家の一筆が粗っぽいボール紙(?)の上に女性の肌を再現しているそのタッチに仰天し、心底感動したと言う経験から「絵の見方」を知った、という経験と同じなのだろう。池大雅が一筆で笹の葉を描く神業とか、そういうものを知るのが「絵を見る」ということであるように、舞台上の玉三郎が女を演じることもそうだし、「描く」「演じる」のと同様「書く」ということの秘密のようなものに分け入る経験をもたなければ、小説を読むということは出来ないのだなと思う。それはこのように日記をつづったり、論文を書いたりするのとはまったく別の経験で、創作とか描写と言うものについて考えたり実行したりし、読みながらその作家の「タッチ」を感じ、その「タッチ」が何を言おうとしているのか――時にそれは「作家」が書こうとしていることと違うことであったりする――を感じたりする、ことが小説の読み方、なのだと思う。

考えてみたら当たり前のことだと言うことになるかもしれないが、多分私は長い間文章の記述に「客観性」や「正確性」、つまり科学の表現手段としての役割のみを見るように無意識にしていて、文章本来の持つ魅力を感じることをシャットアウトしていたのだろうと思う。ダ・ヴィンチのスケッチを見て科学的な意味のみを求めるようなもので、それは表現の豊穣さと言う点から見ればいかにも残念なことである。大体最近、ちょっとした小説以外の文章を見ても、書き手のちょっとした工夫や仕掛け、ちょっとこれ面白いでしょ、という意図のようなものをよく感じるようになってきた。そういうのを文章に対する感性が上がる、というのであれば嬉しいことだ。逆にそうなるとそういうもののない文章を見下す意識のようなものも出て来て、今まで平気で読んでいた文章も魅力のなさが意識されてきたりすることもまたある。また逆にいろいろな事業?の成功に賭ける飽くなき情熱、のような昔はあまり理解できなかったこともそれなりに感じられるようになってきたし、まあ人間は実にさまざまなことに情熱を感じるのだなといろいろ面白い。(5.17.)

特急の車内で志賀直哉『小僧の神様・城の崎にて』読了。直哉の女道楽関係の短編が4作並んでいてふーんと思う。この時代の女道楽というのはこういうものだったんだなと、まあそういう史料的な感慨である。『志賀直哉はなぜ名文か』で取り上げられていたフレーズがいくつも出てきて、そういう意味でも結構楽しめた。いろいろと制作に苦労しているのは分かるが、結局はやはり「ミューズ」が到来しないと書けない、というタイプの作家なのだろうと思う。長編中篇もいくつか読んで見ないとまだ分からないことは多いが。(5.20.)

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