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浅見雅男『公爵家の娘』

公爵家の娘―岩倉靖子とある時代

中央公論新社

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浅見雅男『公爵家の娘』(中公文庫)読了。大正デモクラシーの時期から昭和初期にかけて、コミンテルンの働きかけの元、日本共産党によってかなり広範囲に共産主義思想、つまりは天皇制廃止を主張する思想が蔓延したという状況の深刻さが改めて強く認識させられた。特に特権階級である華族の子弟に相当広範囲に治安維持法違反による検挙者が出たということは驚くほどである。それは当時華族赤化事件といわれたらしい。

主人公である岩倉靖子は岩倉具視の曾孫にあたり、日本女子大でいとこにあたる人物からオルグされたようである。ほかの御曹司たちがさっさと転向を表明していく中で、彼女は唯一の女性であり、公爵の妹という立場にありながら長期間頑張ってついに起訴された。しかしさまざまな形で揺さぶりをかけられ、最終的にはキリスト教の信仰に復帰するという形で共産主義への信奉を放棄する。そして釈放後、一族への連累を恐れて自殺する。

その悲劇の源になるのはマルクス主義だったわけだが、20世紀の長期間をかけてようやく否定されたこの思想が日本でかくも流行したのは、現実に不平等が存在したからだろう。言い換えれば、不平等を乗り越えられる思想ならばマルクス主義でなくてもよかったわけで、事実キリスト教や仏教などの宗教系の運動も相当強くなっているし、社会主義の影響を受けた形で右翼思想の理論化も北一輝などによって行われている。その中でロシア革命の「成功」もあり、マルクス主義が不平等を乗り越えうる思想として説得力を持ちえたのも当時の時代的限界からいえばやむをえないことであったかもしれないとは思う。

昭和天皇はこうした赤化華族たちの救済にはかなり意を用いられたようで、思想事件の摘発にあたる特高警察の現場職員などは上部の意思ということでかなり悔しい思いをしたという。特高警察の現場の職員たちは下層階級の出身者が多く、華族の御曹司の国体否定思想を「何ができる」と馬鹿にする半面、厳しい批判を持ってみていた。実際、華族を特別扱いしろ(つまり労働者層には強くあたれ)というに近い指示を与えられたときには不満が噴出し、軽微な罪状の労働者を現場の判断で釈放するという抵抗もあったという。こうしたねじれ現象のようなものは、革命を叫ぶのが東大などのエリート校の学生で、それを撃退する機動隊はより偏差値の低いとされる大学の出身者、という学園紛争当時の状況と同じだなあと思う。

2.26事件の投降を呼びかけるビラに「お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ」と書かれていたように、家族の情に訴えるという作戦は日本の権力機構の常套手段であるわけだけど、特高警察も積極的にそれを利用し、家族への面会を許したが、ある華族の夫人は「そのような不浄役人のところには行かない」と拒否したという。ここには警察官など権力の末端にいるものに対する強い差別が明確にあり、現場の職員を更に怒らせたという。現在もそうしたものは強くあると思うし、またそうした感情は「反権力意識」という美名に隠れて精神の裏側にはびこっているのでかなり始末に終えないものではある。

このごろ、軍部の独走といわれる昭和初期の状況を生んだ一つの大きな原因はこうした軍部や警察に対する差別観念もかなりあるのではないかと言う気がしている。統帥権の独立という一種の選民思想はそうした差別への抵抗という意味もあったのではなかろうか。だとすると、現在のように軍隊(法律上は自衛隊だが)や警察などに対する無理解がより強まっている状況は危険を大きくしているだけである。自衛隊も警察も同じ人間、同じ日本人が日本の国家、日本の社会を守ろうという趣旨の下に活動しているという前提をぬきにして異物視する傾向は不当であるだけでなく、60年前と同じ状況を繰り返す危険を高めるだけだと思う。 今回の有事法制が十分なものかどうかはちょっと論じられないが、まず第一歩にはなるかと思う。海上自衛隊の通信システムが米軍と共用のものであるなど、現況に対する不安や不満は私自身にもかなり強くあるのだけど。

なんだかいっぺんに話が大きくなったが、『公爵家の娘』という本は、本当にいろいろなことを考えさせてくれるものであったということである。(2002.4.22.)

  

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