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佐藤優『国家の罠』
国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて新潮社このアイテムの詳細を見る 少し大きめの(地元にしては、だが)本屋に行ってSAPIOの最新号を買う。コミック乱TWINSがなぜかなかったので向かいのセブンイレブンで購入。家からここまで往復すると小一時間かかる。
SAPIOでは「インテリジェンス・データベース」という記事をよく読んでいたのだが、今回この「坂上巌」という著者があの佐藤優氏であることが明らかにされた。鈴木宗男疑惑で執行猶予のついた外交官、『国家の罠』の著者である。身分は現在、「起訴休職外務事務官」というものらしい。今までこの記事で感じた著者像というのは凄みのある切れ者の軍事・機密情報専門家がいるものだなあという感じだったが、それが佐藤優氏だったというのはちょっと驚いた。当然だが、日本の外務省にもこういうインテリジェンスの専門家がいて、国際舞台の背景でさまざまに活躍しているのだということを知ると、少々安心するとともに、彼らの活動がきちんと外交舞台で反映されているのかといことが気になる。ほとんど某国の二重スパイとしか思えない人物もいれば、目立たないところで地道に汗をかいている人もいるのだなあと思う。
この「汗をかく」という表現も、国会議員の地道に裏工作している人を派閥のボスなどが誉めるときに使う言葉で、なんというか国民に対しては半分背信的なんじゃないかという感じの感覚があったが、国際舞台でということになるとごくろうさまです、という感じがする。そういう見えない活動があって、初めて守られているものがたくさんあるのだと思う。(7.14.)
昨日。昼食後出かける。地元の文教堂で本を物色したあと、丸善丸の内本店へ。いろいろ見て回ったが、結局佐藤優『国家の罠』(新潮社)を買う。最初この本が出版されたときは鈴木宗男派の外交官の自己弁護に過ぎないのだろうと思い買う気は全くなかったが、SAPIOで連載されている非常に興味深い情報調査のコラムの作者が佐藤優だということを知ったとき、この本はきっと面白いに違いないと思った。まだ2章までしか読んでいないが、期待に違わずちょっと考えられないくらい面白い。
時間的に前後しまくりだが、日曜の朝6時から7時、MXテレビ(東京ローカル)で『談志・陳平の言いたい放題』という番組をやっている。これは立川談志と野末陳平はレギュラーのようで、そのほか毒蝮三太夫、吉村作治などが交代で出ているようだが、昨日の朝は西部邁だった。話している内容はあまりよく覚えていないが、談志と西部が命を張って何かをやるというのの代表のような人で、陳平が命なんか張りたくないという人の代表のような話しになっていたのが面白かった。で、こういう人同士の話というのは絡み合わないかというとそんなこともなく、価値観の相違というものが逆に面白く伝えられている感じがした。
命を張らない人というのは基本的に平和主義者で、穏便。金儲けに興味があり、いろいろな欲めいたことが好き。割合と和を重んじてみんなで楽しくやれればいいという感じの人。命を張る人というのは基本的に個人主義者で過激であるのだが、それはなぜかというと、いつもどういう場面で命を張るかということを考えているから。それが命を張るに値することだと思ったら俄然興味を持つが、どうでもいいと思うと関心を失う。気分屋の傾向が強い。だから原則主義的になるし、命を張るに足る理念とか存在とかにたいして敏感な感性を持っている。その結果、感激屋ということになるだろう。
で、おそらくは人間というものは大多数は前者であって、生活を楽しむことが好きなんだと思う。しかし後者に属する人間は生活というもの自体を楽しんでいても何か足りないという思いに駆られ、平地で乱を起こすようなことをしがちになる。
いずれ全ての人間は死ぬのだから、結局その死ということにどのように向かい合うかということで人間のタイプということが決まってくるのではないかという気がする。いつも死を見つめ、そこから発想しようとする人が後者、死のことなど考えても仕方ない、明日は明日の風が吹く、と思う人が前者、ということになるのかもしれない。
もちろん一人の人間の中に両者が同居しているということも珍しくない。まあそれがバランスの取れた人間というものだろうと思うが、どっちかに傾いているということが普通ではないかという気がする。自分はやっぱりかなり後者の側の人間なので、その辺世間というものとのずれが発生してしまうのだろうと思う。
世間というものは基本的には前者で、特に現代日本という社会は圧倒的に前者だと思う。戦時中の日本人のうち、多くは後者的な傾向があったと思うのだが、「もう死ななくて良い」ということになって以来、「死のことなど考えるのはばかばかしい」というメンタリティが一般化してしまったのだと思う。全ての人間がいずれ死ぬということを考えるとそれはちょっとどうかと思うのだが、集団的なメンタリティがそちらに暴走してしまったために、現代の日本人は死のことを考えるのが苦手になってしまったのだと思う。靖国神社の問題で世論も政府もダッチロールを起こしていることの根本的な原因も、結局はその辺りにあるのではないかという気がする。
世界においては、少なくともいわゆるエリートのクラスにおいては、国家のために死ななければならないときがある、というのはある種の常識というか心構えのひとつとして要求されることであるように思うが、日本のエリートがみっともない有様を示すことが多いのはそのあたりの心構えがかけているという面もあろう。ちょっとずれるが、倒産した会社の社長が「社員は悪くない」と社員のために泣き、その扱いの善処を求めるというのも日本的には美談だが、自分の部下の中隊の下士官兵まで常に気を配り、こまめに激励してかわいがっていたという「最高の」連隊長といわれた東條英機とあまり変わりがない。東條は連隊長としては最高だったが、総理大臣としては失格だった。なぜ多くの人があれだけ東條を非難するのか私にはよく理解できない。東條のメンタリティというのは基本的にはそれを非難する人々の多くとほとんど変わらないと私は思う。
そのせいか、日本の報道機関というのも国策のために日本が不利になるような無茶なスクープをやらないとか、外交関係が決定的に悪化するような虚報をあえて流すようなことはしないとかいったモラルにかけることが多いと思うし、「全ての男はみんな金と女が好き」という下司な前提でニュースの話を作ることが多いような気がする。ニュースに反映されているのは取材された側ではなく、取材した側の品位の悪さである、という場合が実に多い気がする。
『国家の罠』を読んでいて、私はこういう頭がよくて使命感を持った人間が好きだ、と思った。 アマゾンのレビューを読んでいると、結局そこに現れているのはレビュワーの品位や知性だと思う。
『国家の罠』の内容は非常に興味深いし、そこで描かれている人物も全部実名なので作者から見た評価も一目瞭然である。作者自身が当事者だからそこで描かれた人も悪く書かれていても名誉毀損などの裁判を起こすこともしにくいだろう。というか、悪く書かれていてもおそらくはほとんどが事実なので反論が難しいのではないかという気がする。この内容が事実かどうか判断しにくい、というのはメディアリテラシーの立場から言えば無難な判断だが、彼の現在のおかれた立場とこの本を書いている姿勢から考えて、嘘はほとんどなかろうと思う。いずれ時代が下れば明らかにされていくところは多いし、彼の姿勢から考えてそのときにいろいろな嘘がばれ、外交史料としても歴史史料としても無価値だと評価されることには耐えられないと思う。人は皆うそばかりつくわけではないし、自己顕示欲も嘘を書くことによって出なく事実を書くことによって満たされることもまたありえるのだという視点が必要だと思う。
レビューの中に、「彼に同情したいとは思わない」というコメントがあったが、彼の執筆動機が同情を買うことにはないということはほぼはっきりしているように思われる。彼は「同情」を求めているのではなく、外交官としての、情報関係者としての「評価」を求めているのであり、それは相当な部分まで達成されていると思う。まだ裁判は結審していないし彼が情報や外交の現場に戻るまでには相当な期間を必要とすると思うが、マスコミを通じての啓蒙などに当たることはできようし、そのあたりのところは非常に期待したいと思う。
全ての人間が「理解」や「同情」を求めていると思うのも、ひとつの思い込みだろう。ある種の職人は理解される必要も同情される必要も、時には評価される必要も認めない。ただ、そうしたことが自分がそのために賭けて来たこと、佐藤氏にとっては国益というもの、のために必要であり、またそのために自分が生き延びなければならないと判断した場合には、別なのだ、ということではないかと思ったのだった。(7.18.)
昨日。ずっと佐藤優『国家の罠』を読み続ける。近来希に見る面白さだ。およそ政治というものに関心のある人に対しては、全ての人に薦めたい本である。近い将来、21世紀初頭の日本の外交と国内政治を学ぶためのひとつの教科書的存在になるのではないかという気がする。また特捜の捜査という自らに圧倒的に不利な状況の中でどのように自ら守るべきものを守るために戦うか、といったひとつのマニュアルにもなり得る。情報官という恐ろしくドライな存在でありながら、そこここに感じさせるユーモア、熱さ、そして幅広い知性といったものに感心させられる。政治家の手記・自伝などはいくら面白くてもやはり大衆相手の商売なのであまり知性的であると嫌われる側面があるためかあまりそういう意味での満足感はないのだが、新しく知ってへえと素直に感心する部分もふんだんに盛り込まれていて、ただものではないということが直ちに感じ取れる。
佐藤氏はテレビで連行される場面などしか見たことはないが、その表情はやはり職業柄独特なものを感じさせる。同じ情報関係出身のプーチン大統領と共通した何かがある。それはある意味職業柄かぶらざるをえない仮面のようなものだが、おそらくはその仮面に合わせて人間性自体を再形成させている部分もある。まあそれはどんな職業でもいえることかもしれないが。
この本はまだ読みかけなのにすでに膨大に付箋が挿んである。それも新しく知って面白いということだけでなく、このことについて考えてみたいというテーマ、それもかなり深めのものが沢山あるのである。おそらく、佐藤氏は逮捕され国策捜査を受けることがなければこのような本を書くことはなかっただろう。彼のような恐ろしく切れる外交官が外交の一線にいられないということは日本にとって損失だと思うが、この本を著したことはその損失を災い転じて福にしたと思う。
彼の特徴は、歴史の中での自分の存在と仕事、そして逮捕と捜査の意味を冷静につかもうとしているところにある。この本のレビューを見ていると記述の真実性を疑うものが多いが、そういう観点からすると彼が書いていることは、基本的に全て事実だと思う。ただ当たり前のことだが考えるべきは、彼は必要なことしか書いていない、ということである。つまり、知っていても書いていないことは絶対にあるということ。そしてまたもうひとつは、彼もまた人間である以上全てのことが見えているわけではないということ。そういう人間として当然ある限界のようなものもまた自覚して読まなければならない。こうした事件の複雑性は、週刊誌の見出しではないのだから、「渦中の人物が全てを語った!」結果、全てのことが判明した、などということはあり得ない。彼が相当ものの見える人物であることは事実だが、そういう意味ではある一冊の本で「全てが見えた!」ということはあり得ない。
とにかく、この本を読んでいると非常に冷静な興奮といったものに引き込まれていくのを感じる。(7.19.)
帰って来てしかし主にずっと『国家の罠』を読み耽る。私が個人的に知っている人物がアカデミズムや政治の世界で一人二人出てくる。しかも私が大学院にいた期間、著者は教養学部で授業を持っていたことがわかった。そんな余裕はなかったが、こんな人と知っていたら無理にでものぞいて見たかも知れない。はるか昔を振り返ると、ロシア東欧世界というものは私の興味の対象のひとつだったことは確かなのだ。もし進路をそちらの方に選んでいたら、私もこの本の登場人物の一人だったかもしれないと思うと少々感慨がある。
佐藤という人は権力の中枢に近いところにいながら、ある意味修道僧のようなところがある。西欧でも日本でも宗教人が外交官でもあったことは歴史の教えるところだが、権力との微妙な距離のとり方、国益への意識といったものが非常に興味深い。
時間がないので全部は書けないが、彼は国益というものをたとえば信頼関係を保ちながら外交を行え、そこで自らの主張に近い形で条約を結んだり関係を増進したりしていくこと、というような意識を持っている。もちろんそうしたレベルではないもっと根本的なものもあるが、彼が考えている、つまり外交官の情報担当者のレベルでの国益というものはたとえばそういうものでもある、ということは言ってよいと思う。だから田中真紀子のようなわけの分からない人物が外交関係をめちゃくちゃにすることはそれ自体「国益を損なう」ことであり、田中を外務省から追い出すこと自体が国益だ、という発言につながっていく。国益とは何か、ということはいろいろな次元で論じなければならないことだが、ごく実務的なレベルでの国益というのはそういうことにあり、またそれはそれできわめて重要なことでもあるのだなと思う。北朝鮮という国がどうしようもないのは、そういう次元で拉致被害者の偽の遺骨を出してきたり、まともな外交がそもそも出来ない国だということなのだということが分かる。最近の韓国の対日外交の拙劣さも、その辺りから見ると見えてくることが多い。
最後に自分のことを少し書くと、この本を読みながら、自分には権力への志向と辺境への憧れという相反する二つの要素があるな、と思い当たった。着るものは青系や茶系が多いが、身の回りのものは案外赤形のものが多い。さまざまな形で相反するものが自分の中にあるということを、なぜか読みながら考えていた。(7.19.)
『国家の罠』は読了した。昨日書いたとおり「冷静な興奮」という感じで、一番たって見ると自分の中に熱気の残りのようなものがあまり感じられない。徹頭徹尾、頭脳のゲームなのである。またあまりに感情的なものを客観視して書いているためか、感情と言うものが別のもののように見えてくるところも「思い入れる」ということを阻害している要因だろう。
また、あとがきで明らかになるが和田春樹、魚住昭といった人たちに事前に原稿を読んでもらっていて、そのあたりの人脈がHmmmという感じなので醒めた、という部分もある。
彼の事件をめぐる国策操作がなぜ行われたかという分析も、二つの大きな国の流れの転換、つまり経済的にはケインズ型公平配分システムからハイエク型傾斜システムへの転換と、外交的にはナショナリズムの強化があった、といっている。これは彼の言い方ではそうなるが、いわば従来のばら撒き・公平配分システムから市場至上主義的・「公平」負担システム(老人も医療費を負担するなど)への転換と、外交的にはアメリカ中心主義・アジア主義(要するに中国韓国重視)・地政学主義(遠交近攻策、つまり一番遠いロシアと接近すべき)という三つの従来の流れがアメリカ一辺倒になったという転換があった、という風に解釈しなおした方が私としては納得できる。小泉首相の政治行動そのままであるが。だから、ナショナリズムの強化といういい方は少々引っかかるものがあるし、彼の思想的背景にそういう風に評価する何かがあるのではないかという気がする。
本文で印象に残ったことのひとつは、彼は情報担当者にとって自己のプライドは有害であり、持つべきでないと考えていることである。従って、誰に聞かれてもそれについては「私はプライドはない」と答えている。それに対し、彼を追及する検事や仲間らは佐藤氏を「本質的なところで非常にプライドが高い」と評価している。
ここは非常に重要な問題があるのだが、普通に考えればやはり佐藤氏は「本質的なところで非常にプライドが高い」という評価が妥当だと思う。しかし、佐藤氏は、恐らく他者が彼をそう評価する部分を「プライド」とは考えていないのである。
ではそれはなんだろうか。私の考え、ということになるが、つまり彼は自らが外交官であること、自らが情報担当者であること、自らが日本国民であること、そういうことに「しっかりとしたアイデンティティを持っている」ということなのだ、と思う。日本人は通常それを「プライド」と評価するが、私は考えているうちにそれはプライドというより、アイデンティティというべきではないかと言う気がしてきた。つまり、自分が外交官であるから当然こう振舞わなければならない、情報担当者であるから、日本人であるから、こう振舞わなければならないという意識を、プライドといってしまうから自己肥大的なイメージになるのであって、そうではなく、アイデンティティという範疇に入れておけばそれこそ「当然のこと」で話しが済むのだと思う。任務のためならプライドは捨てる、というのが情報担当者として必要なあり方で、それを周りは「本質的なプライドの高さ」と評価するが、それを「プライドを捨てるプライド」のような言いかたをしては変なことになる。それは任務とそれを果たすべき存在としての自分を絶対に忘れない、という意味で自己同一性が強固であるということであり、アイデンティティと言うべき内容なのだと思う。
話しを戻すと、私が感じているところで言えば、ナショナリズムの高まりというと日本人としてのプライドの目覚め、イコール危険というように話しを持っていく人が多いけれども、根本的なところでは日本人としてのアイデンティティが自覚されてきている、というレベルの現象も多いのではないか、ということなのである。書きながら、恐らくはわけのわからないプライドが肥大化しつつある人もまあ中に入るだろうなということは私も認めるのは吝かではないが、最低限日本人が日本人であるというアイデンティティだけはしっかりさせなければならないと思うし、まだまだそれは全く達成されていないように私は思う。たとえば海外で、観光旅行などに行っても、日本人として恥ずかしくない行動を取ろう、と思っている人がどれだけいるか。欲望の充足だけに、つまりアイデンティティの確立していない子供と変わらない行動を取る人がどれだけ多いか。それは一例だが、日本人としてのアイデンティティ、それは「恥を知る」ということもそのひとつだと思うが、そういうものを確立させていかなければならないと思う。
だから、高めるべきは、ナショナリズムというよりはパトリオティズムというべき物なのだと思う。そういう理論があるかどうかは知らないが民族としてのプライドがナショナリズムに結びつき、(大中華主義やナチズムなどは確かにそうだ)、民族としての、あるいは国民としてのアイデンティティがパトリオティズムに結びつく、と考えておけば、一つのアポリアがクリアできるような気がする。
だから今考えるべきはそうしたパトリオティズムの成熟であり、国家の義務、国民としての義務ということを考えなければならない。拉致問題などはまさにその典型であると思う。
アイデンティティがしっかりしていさえすれば、外交の重心をアメリカに置こうが中韓に置こうがロシアに置こうがそれはそうたいしたことではない。(7.20.)