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カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』

わたしたちが孤児だったころ

早川書房

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カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』(ハヤカワepi文庫、2006)を読んでいた。(今気がついたが、これは文庫化されたばかりなのだ)これは530ページの長編なのだが、自分でも驚いたが昨日一日で読了してしまった。総計7時間ほどではないか。読み終えたときには自分でも本当にちゃんと読んだのかと疑うくらいであった。そのくらいストーリーに読ませる力があり、かといってそれがもりもり読んでいる、というかとんかつをよく噛んで飲み下すような読んでいるという強烈な充実感がある、というのではない。静かに紅茶を飲んでいたらいつのまにかいっぱいだったポットが空になっていたというようなごく自然な感じなのだ。(たとえ自体がなんともいえず不自然だが。)

そのように一気に読める作品なのだが、その内容について考え出すとちょっと呆然としてしまうくらい複雑でものすごくたくさんのものが詰め込まれている。今思いなおしてみると、『日の名残り』のような二人称小説という感じもかなり強い。執事、という設定と孤児あるいは探偵という設定はどこか似ている。ある社会の周辺にいるには違いないが、排除された存在ではない。アウトローでもなければ見捨てられた階級でもない。社会の中で確実なポジションを得ている。努力と才能次第で社会の中枢に食い込むことも出来る。どちらの主人公も自己認識と他者から見た自分がずれていて、そこにある性格的な悲劇が生じるのだが、それに対する作者の視点は暖かい。

この作品の展開の最も衝撃的な点は主人公の存在自体が悪意と愛によって生かされていたということを知るどんでん返しにあるだろう。このあたりは推理小説的な仕立てになっている部分の多いこの作品を成り立たせる最も重要な点なのでネタばれ的なことを書くのは避けるべきだろう。ここでは、主人公の生活そのものがある取引によって成り立っており、ある犠牲、ある限りない愛によって彼の生が成り立っていたということのみを書いておくに留めたい。そして、彼は彼が救おうとした人によって救われる。そしてその人は彼を救うことになるだろうということをあらかじめ知っていた。

彼は探偵として世の中の悪に立ち向かい、「世界を救う」ために「世界の混乱の中心」である上海に向かう。その租界は植民地ですらない。世界が悲惨であることの責任を認めようともしない上海の支配階級。イギリス人も、国民党政府も、新たに支配者となろうとしている日本も、殺戮ばかり繰り返す共産党も。彼は「世界を救う」ことよりも「愛」を選ぼうとするが、その選択のときに公的な事件がシンクロして起こることは『日の名残り』と同じ構造だ。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公自身の「癒し」と「愛」のどちらを選択するかという時に明確に後者を選択するのだが、イシグロの登場人物は「選択」することを拒否されているかのようである。あるいは人間は選択することが出来る、ということはある種の「神話」なのではないか、といっているような気さえする。村上は選択に近づき、イシグロは選択から遠ざかる。

村上の登場人物は、正体不明であってもやがて「善」と「悪」(少なくとも彼の物語世界にとっての)がおおむねは明確になっていく。そこにリリカルなものがある。ただひとつ、巨大な悪でありながら重要な登場人物を生かす存在として「皮剥ぎボリス」があり、今考えてみると彼の存在が『ねじまき鳥』の物語世界に圧倒的な厚みを加えていることがよく認識できるのだが、イシグロの場合はそういう存在をもっと明確に自覚的に描き出している。そこに「ナチス」や「帝国主義」というものが存在した現代ヨーロッパ文学の厚みがあるといえるのかもしれない。今思い浮かべるのはオーソン・ウェルズの『第三の男』だ。よく考えてみると、悪を悪としてのみは描かないウェルズのスケールの大きさは、現代アメリカにはほとんど全く受け継がれていない。(日本に関しても、そういうものは日本にはもともともっとあったはずなのだが、今ではアメリカの影響を受けたのか、酷く一面的になってきている)アリダ・バリ演じた女性の存在の厚みを、「女とはそういうもの」としてのみ受け取っていたのでは意味がないのだ。「女」ではなく、「人間」がそういうものなのだ。

イシグロの叙述は淀みなく、流麗だ。鴨川の流れのように、瀬音を立てて穏やかに流れていく。主人公は懸命に努力するのだが、その努力が「間違っていた」ことが明らかになる。そしてそうした主人公に作者は優しい。人生をかけて壮大な間違いをおかすことが人生なんだ、といっているのかもしれない。人は間違いながらでなければ前には進めない、間違いはきわめて悲劇的ではあるけれども、それでも人は前に進む。

『わたしたちが孤児だったころ』は『日の名残り』のようには作者が方法論に対して意識的ではないが、現実世界における善悪の表裏一体性や愛と犠牲といったテーマにはより意識的である。「20世紀の悲劇」あるいは「近代の悲劇」をどう受けとめ、それにどういう答えを出すか、ということを作者は明確に意識しているように思われる。その悲劇を描くのに、宿命的な重層性の中に存在する戦間期の歴史的「上海」を舞台にして、これだけの作品が書ける作者の力量に、脱帽である。(4.27.)

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