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保坂和志『季節の記憶』

季節の記憶

中央公論新社

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『季節の記憶』は何も事件が起こらず、淡々と散歩の情景などが描写されていく中にある種の実在感が浮かび上がってくると言う感じで、この作者が自然科学を強く肯定するのに奇異な印象を持ったことと合わせて自然科学的な作家とでも言いたい感じ。考えてみればシートンもファーブルも、「観察」という自然科学的な方法で強い文学性を出しているわけで、文学と自然科学の接点というのはそういうところにあるんだなと改めて思う。保坂が風景描写こそが文体の親、というかなり力強い宣言をしているのもそういう方法論的・志向的特性から来ているんだなという気がした。ただもちろんこのことは保坂個人にとどまることではなく、文学というものの本来的な性格を指し示している部分がある。文学はいわば「単なる人文学」の範疇を超えたところもカヴァーし得るということである。(5.4.)

保坂和志『季節の記憶』(中公文庫、1999)読了。「これといった事件」は何も起こらず、毎日淡々と過ぎていき、近所の松井さん兄妹と「僕」と息子のクイちゃんとの生活が続いていく。事件らしい事件といえば、近所にナッちゃんとつぼみちゃんという親子が引っ越して(出戻って)来たくらいで、先の4人とは質の違う上昇志向(?)を持っていることで簡単に言えば価値観の違いからさまざまなさざなみが4人の生活に起こる、ということくらいか。

鎌倉、稲村ヶ崎の風景の描写が最初から最後まで季節を通じて丹念に為されていて、その風景描写の丹念さにより現出する自然というものが、人間の意志とは無関係に自然は存在するという作者あるいは「僕」の主張を説得力のあるものにしている。そのあたりの「主張」が正しいとか言いとかは必ずしも私は思わないが、というか自然とか人間に対するものの見方には抵抗を感じるところは結構あるのだが、こういう書き方で「小説」が成立するのだなあというのは素朴に興味深いと思った。

解説に養老孟司が書いていたのを読んでなるほどと思ったが、この小説の一番の山場はつぼみちゃんに影響されて就学前のクイちゃんが「字が読めない」ということを自覚してショックを受けるところで、「僕」は「字を読まない」期間が出来るだけ長く続くことが大事だという考えを持っているので読まなければいけないような状況になってしまったらどうしようという迷いを松井さん兄妹やときどき電話をかけてくる変わり者の友人たちと話し合うが、結局はつぼみちゃんとクイちゃんの家族ごっこの中で字が読めるつぼみちゃんがお姉ちゃん、読まないクイちゃんが弟という解決を二人で見出して一件落着、ということになる。

そういう生活の中で起こるちょっとした事件、のようなものを浮き上がらせてテーマにするのは、毎日がこれということもなく続いている日常の様子を淡々としかし興味を失わせることの無い程度の緊張感を維持しつつ書き続けなければいけないわけで、これはなかなか大変かもしれない。しかしおそらくはその問題の発生と解決がテーマなのではなく、日常の中のさざなみのようなちょっとした変化を書くことで海がいつまでも海であるように、「ある日常」が日常として続いていくさまを書こうとしているのだろうと思う。そのリアリティを描こうと考えること自体がそうとう知的な思考の産物であることは言うまでもない。

小説でこういうものを読んだのは初めてだが、私は80年代の終わりからはじまった演劇でも日常的な発声で芝居をすることでリアリティを持たせようという平田オリザの「青年団」の芝居や、なんてこともないことが「フツーの若者」の視点で展開するロードムービー、ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」あるいはレオン・カラックスの「ボーイ・ミーツ・ガール」や「ポンヌフの恋人」などを思い出した。ジャームッシュやカラックスにはある種の過剰さがあるが、『季節の記憶』もある意味で人間の動きを徹底的に抑制することで返って自然の過剰さのようなものを表現している、ところがあるように思う。

しかし、こういうやり方は映像や演劇だと何も言わなくても過剰さが表現されて成立するが、小説でこれをやると読者には結構ある種の退屈さに耐える部分を強いる。私も読んでいて、具体的に鎌倉の周辺の風景をもっと知っていたらもっと楽しめただろうなあというちょっと不全感が残るところがあり、小説でこれをやることの困難を感じざるをえなかった。しかしまあ、いろんなリアリティの追求の仕方があるものだと、まあそういうことには感心する。(5.6.)

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