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塩野七生『ローマ人の物語 賢帝の世紀』

ローマ人の物語〈24〉賢帝の世紀〈上〉

新潮社

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  夕方になってから丸の内の丸善に出かける。こうの史代のほかの作品を読みたいと思って出かけたのだが、塩野七生『ローマ人の物語』24〜26巻(新潮文庫、2006)が出ているのを見つけてその場で買った。

  話はトラヤヌス帝、すなわち五賢帝時代なのだが、この時期はタキトゥスらの同時代の記録が欠けているので書くのが大変だ、という話から始まっていて、そうだったのかと思う。私の印象のトラヤヌス帝は「ローマの最大版図」を実現した「初の属州出身の皇帝」で、ネルヴァの養子指名による「養子相続時代」=五賢帝時代の最良の時代を作り上げたという世界史の常識以外には小プリニウスが『書簡集』に書いている彼らの書簡のやり取りに出てくるトラヤヌス帝の短く的確なコメントくらいしかない。まだ24巻の最初の70ページしか読んでいないが、塩野の統治者論が展開されていて面白い。結局こういうものを面白がる人が塩野の読者なのだなと改めて認識する。(8.27.)

  塩野七生『賢帝の世紀』はトライアヌス帝の第一次ダキア遠征が終わったところまで。一次史料が残っていないので「トライアヌス円柱」に刻まれたレリーフを描写するという手法を取っているが、さすがに読みにくい。こういうところはもっと「文学的」に描写してもらった方がいいのだが、塩野はそういう面ではこの作品においては禁欲的で、トライアヌス円柱がどういうものかはわかるのだが、「読者」としては歴史家の苦労を強制的に偲ばされている感じがしなくもない。

  そしてなかなかトライアヌスの「個性」というのが浮かび上がってこない。もちろんこれは、カエサルやアウグストゥスなど強烈な個性がそこここに見られるローマにおいて、個性という点ではトライアヌスは残念ながらあまりはっきりしてこない人物だということなのかもしれない。有能な司令官であり政治家、ということはわかるのだがそれ以上でもそれ以下でもない感じが、今のところはしている。そういう政治家の時代のほうが、人々は幸福だということなのかもしれないが。鼓腹撃壌というか。(8.28.)

  塩野七生『ローマ人の物語』(新潮文庫、2006)24巻読了。皇帝トライアヌスの巻。トライアヌスのダキア戦役でルーマニアの住人が総とっかえになったということは知らなかった。パルティア戦役の失敗と死。これも興味深い。『プリニウス書簡集』で読んでいた小プリニウスのビティリア属州の総督としての派遣の背景が説明されていて、なるほどと思う。トライアヌスは『至上の皇帝』と呼ばれたというが、あまり史料がなく、プリニウスとのやり取りの中に彼の性格が現れているというのはそうだったのかと思った。

  現在25巻に入り、ハドリアヌスの話を読んでいるが、これがトライアヌスの巻に比べると異常にすらすら読めてしまう。ハドリアヌスというのはトライアヌスに比べると性格に偏りのある人で、そこが「お話」になりやすいということのようだ。塩野の筆もかなり乗っているように感じる。(8.30.)

  『ローマ人の物語』25巻読了。ハドリアヌス時代の途中。ハドリアヌスが治世のかなりの部分を費やして全国を巡行し、防衛体制を再構築しているということは初めて知った。またローマ法の集成も彼の時代に行われているということも。塩野によればハドリアヌスはローマ帝国の再構築=「リストラクション」を成し遂げた皇帝ということになるが、なるほどと思う。ディオクレティアヌスのような末期症状の中での再構築でなく、全盛期に再構築を行ったというのがなるほどと思われる。王安石の新法のようなドラスチックなリストラクションではなく、問題点を洗い出し本来の機能が回復するような手当てをするというやり方だからリストラクションというよりはメンテナンスと言った方がいいのかもしれない。

  しかしハドリアヌスはトライアヌスに比べれば面白いと言えば面白いが、やはりハールーン・アッラシードというか、全盛期の君主であって彼自身の物語性には乏しい。五賢帝時代を「人類史上最も幸福な時代」といったのはギボンだったか、「幸福な人々はみな似ているが、不幸な人はそれぞれ違う」とトルストイも言うように、アンナ・カレーニナが幸福であったら物語にはなりにくいということだろう。私は読みながら『源氏物語』の光源氏の絶頂期のあたりを思い出していたのだが、その時期が話として面白くなっているところが源氏の物語としての凄さなのだろうと思ったことがある。塩野の叙述法では勝手なフィクションを挟むわけには行かないが、皇帝の個性だけでなく同時代の文芸等にももっと触れることによって「全盛期のローマ」を描き出すことは可能だったのではないかという感想も持った。(8.31.)

  昨日。日記の更新の前に塩野七生『ローマ人の物語』26巻(新潮文庫、2006)も読み終わっていたのだが、『海辺のカフカ』についてだいぶ書いたので書き損ねた。ハドリアヌス帝のユダヤ壊滅とイェルサレム居住禁止(ディアスポラ)について。塩野はカエサルの理念で行けばユダヤはユダヤの独自性を持ったまま(つまり神官階級による自治)帝国内に位置を得たのではないかというが、さてどんなものだったか。現実にはアウグストゥスの世俗化政策によりいつも不安定化要因を持ち続け、ディアスポラに至ったと塩野は見ている。

  ハドリアヌスの霊廟がのち法王庁の城塞に転用され、カステル・サンタンジェロになったということは知らなかった。ローマは行ったことがないが、行ってみたいところが増えるなあ。

  アントニヌス・ピウスの描写が馬鹿に簡潔なのだが、要するにこれということをしなかった、しかしそれがその時期に適っていた幸福な時代だったということらしい。皇帝以外に関することが書かれてもいい気がするが、史料もあまりないのだろうか。

  さてここからは没落の時代がやってくるが、塩野がどのように書いているのか、期待したい。(9.5.)

  

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