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青柳恵介『風の男 白洲次郎』

風の男 白洲次郎

新潮社

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青柳恵介『風の男 白洲次郎』(新潮文庫)と小室直樹『日本人のための宗教原論』(徳間書店)を買って帰る。『日本人のための…』の方はほとんどの字にルビがふってあり、宗教について啓蒙しようという意欲が感じられる。最近では総ルビの本は確かに宗教関係の本しか見なくなった。聖教新聞はそういえば総ルビだ。だからこの本自体がちょっと宗教的な見てくれがするというのもどうも本末転倒な話だ。私自身はもっと多くの本にルビをふるべきだと思っているのだが。

夕食を食べながら『風の男…』を読み、面白く思う。白洲次郎は中学生のころとてもワルだったから島流しにされたという。それはどこかというとイギリスという島だ、という落ちなのだが。(8.26.)

きのう夕方に買ってきた『風の男 白洲次郎』を夜までに読み終えた。聞き書きが中心だが、生き生きとしたエピソードにあふれていてとても面白い。歴史というのはこうした多くの人間の記録から出発したはずなのに、現代日本の歴史学ではそうした生き生きとした側面、魅力的な側面が一切捨象されている。自分は歴史は好きだが歴史学には無知だったのに、歴史学を専攻してしまったのはほかに歴史に取り組む方法がなかったからだろう。

ほかの人に聞いてみると、歴史学者というイメージは史料の山に埋もれる人というイメージだそうである。自分の歴史学者のイメージは司馬遷やヘロドトスのように大旅行をして広い見聞を持っている人、とかギゾーのようにいざというときには政治のイニシアチブをとって活躍する人、というイメージだった。きっとこちらの方が認識不足なのだろうなあ。

白洲次郎のエピソードは数多いが、この本で知ったのは通商産業省の成立に大きな力を振るったこと、その延長上で電力政策に深くかかわったことなどである。東北電力の会長をしたことは知っていたが、それがそういう文脈の上から出てきたことだというのははじめて知った。

政治史の面からいえば彼は吉田茂の側近だったということになる。官僚でもなく、軍人でもなく、外交官でも政治家でもない彼が英国大使時代の吉田と肝胆相照らす仲であったというだけで、戦後史の上で大きな役割を演じたことは、当時のマスコミの格好の餌食にされ、「側近政治」であるとか君側の奸(というのは変だが)めいたことをずいぶん叩かれたようだ。もちろん自由党内にも相当面白くなく感じる人があったようである。

それが最近では見直されてきている。最近の出版物は彼に好意的なものがほとんどである。もちろん現存の権力者ではないからいまさら批判しても仕方がないと思われるかもしれないが、いつまでたっても悪い面ばかり批判される人、組織もあるわけで、実際に権力を持っていた人の中で死後どんどん評価が上がるというのは珍しいことだろう。

私自身もそうだが、それは彼の夫人の著作から入っていく人が多いということもあるだろう。正子夫人の胸のすくような著作の魅力によって、最初から好意的な視線が用意されるようになって来た。

それにしても彼の魅力的な部分は、出処進退がいいというか、権力に恋々としないところである。というか彼の仕事の大半はおそらく頼まれ仕事なのである。たのまれ仕事を余人に出来ない力を発揮してやりこなし、よけいなことを言い残さず、それこそ風のように退場していく。

それは一つには公職につかなくても十分やっていけるだけの経済的裏づけや欧米にも亘る上流・実業界でのネットワークがあったからだろう。帰りなんいざ、といっても帰る場所もない人間とは違う。

しかしそれにしても彼には彼一流の矜持があった。それを彼自身のことばで言うとプリンシプルということになる。

優しさ、思いやり、そういうものは大事だけれどもその背後に矜持がないと人間はみっともなくなる。というより、矜持があるからこそ人間は本当に優しくなれるのだろうと思う。(少々、歯が浮くが)

人間の弱さ不安定さを撒き散らしながら権力者の揚げ足を取ったり弱者の味方を気取るやつほど、みっともないものはないということだろうか。政治家も確かに二流だけれども、それを馬鹿にしてえらがってるやつを見ると最低の低だとしか思えない。(2002.8.17.)

  

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