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ミラン・クンデラ『カーテン―7部構成の小説論』
カーテン―7部構成の小説論集英社このアイテムの詳細を見る いつものコースで、新御茶ノ水で降りて神保町に歩く。神保町でまず三省堂に入り、何か読みたいのが無いかなと探すが、世の中『ダヴィンチ・コード』ばかりだ。キリストがらみで話題を呼んでいるようで、フィリピンでは上映禁止になったとも言うが、ベネディクトゥス16世は日曜のミサでも言及しなかったらしい。まあ賢明な対応というか、大人の対応と言う感じである。下手に言及するとまたガリレオ裁判並みの面倒がおころうし、フィクションはフィクションとして対応する程度にはカトリックは成熟していると言うべきだろう。売り場を少し進むと今度は『愛の流刑地』が山積みである。おいおいと思うが、こういう大規模書店ではこういう売り方をせざるをえないんだろうなあと思う。大川隆法がスペースの一角を占めていたり、『人間革命』がどんと積んであったりするのも商売というものだろう。
まあしかしそういう商法にはどうもなじめないものがあるのも事実で、探していたミラン・クンデラ『カーテン』(集英社、2005)を見つけたのだが、ほかの書店で買おうと思って一応目だけつけておいた。裏口から出て東京堂に入り、二階に上って外国文学を探すと『カーテン』はすぐに見つかった。ぱらぱらとめくってみるとやはりshaktiさんの推薦だけに面白そうで、すぐ買った。2500円(プラス消費税)はちょっと痛いので、もともと、まずはユーズドか図書館の貸し出しで、と思ったのだけど、どちらもうまいのが見つからず、読んで面白ければ新刊で買おうと思ったのだった。集英社というのも『少年ジャンプ』くらいしか出版物が思いつかなかったが、(あとは『プレイボーイ』か)文学関係のもいろいろ出しているんだなと最近認識してきた。
古瀬戸珈琲店に入って昼食をとろうと思い、メニューを見て出来心でミネストローネスープを注文したのだが、やはりカレーとかほど満腹にならず、午後はやや空腹で過ごす。ぱらぱら見た感じでは「世界文学」への言及があったのが興味深く、「東側出身の亡命作家」とか「スラブの作家」というレッテルに苦労したという話が面白いなと思った。こういうことって、今でもずいぶんあることなんだろうと思う。大衆レベルではやむをえないとしても、知的エリートの世界でもずいぶん奇妙な歪曲された認識は大手を振っているのだろうと思う。
『カーテン』読み始める。さまざまな作品が検討されているが、あまり読んでいないのでちょっと困る。フローベールの『感情教育』について書いていて、買ったきりになっている岩波文庫があったことを思い出しちょっと読んでみるが、引用されている箇所がどこにも見つからない。調べてみるとどうもこれは『ボヴァリー夫人』からの引用らしく、ずっこける。主人公の名前を書くだけで何の作品かすぐ分かる人を対象に書いているんだろうな。うーん、そういう意味では、手ごわい。(5.22.)
ミラン・クンデラ「カーテン―7部構成の小説論」は第一部「継続性の意識」を読了し、第二部「世界文学」にかかっている。第一部はヨーロッパ知識人の中にある歴史意識についてで、読んでいると歴史意識の希薄化がとみに激しい日本のことがしみじみ思われる。第二部も世界文学といっても主にヨーロッパ文学の事だが、「ヨーロッパのすべての国民は共通の同じ運命を生きているが、しかしそれぞれに固有な個別の経験をもとにして、その運命を別々に生きている。」という言葉はなるほどと思う。たとえば東アジアには、そういうものは皆無とはいえないが、やはりヨーロッパほど意識もされていないし妥当性もないだろう。
私がたとえば東アジアのことを考えると、「諸国民」と言ったときに日本、朝鮮・韓国、台湾、ベトナム、モンゴル、中国と並べていって、はたと立ち止まる。「中国」というのはどう考えても「諸国民」の一つとして考えるには地理的にも人口的にも巨大すぎるのだ。その巨大さは周辺諸国には災難ですらある。そういう意味でこれはヨーロッパ、特に東欧におけるロシアの存在に類似している。しかしロシアというのは16世紀以降急速に膨張したに過ぎない存在で、それまでは、あるいはその後も、モンゴルやポーランドやスウェーデンにたびたび蹂躙されて来ている。中国も無論征服王朝に何度も支配されているが、ロシアとはかなりカラーが違う。巨大な質量で周辺諸国に甚大な影響を及ぼすという意味では、宇宙空間における巨大質量星に似ている。
そうした中では、古代中国に合従連衡政策があったように、東アジアにおいては中国に対する合従連衡が図られなければならないが、世界的に見るとアメリカに対する合従連衡のほうがより上位の必要性・喫緊性を持っているために、対中国政策は日本などの場合は疎かになっているだろう。ただこの世界システムがいつまで続くのかは分らないし、地理的にはもちろん近いほうが脅威である事に違いはないので、いろいろな手を打っておく必要はあるだろう。
ただここ数世紀の歴史においては、日本のほうが中国よりも比較優位を持っている時期が長かったので、日本人の意識にどれだけ上っているかは分らないが、アジアでは日本が合従連衡の対象に見られていることも確かだ。アジア諸国の間では日本の経済力と中国の政治力でお互いに牽制しあってくれるのがちょうどありがたいと思われているだろうが、現実問題としては中国は政治・軍事・経済すべての面で急拡大している。現在のところ日本はアメリカに接近することでそれを乗り切ろうとしているが、それだけではあまり上策のようには思えない。
たとえば、村上春樹が中国やロシアでよく読まれているというのはいいことだろうと思う。中国もロシアも文の国であるから、その作品は日本では多く読まれているが、日本からの発信という点ではきわめて不十分だったからだ。同じ世界文学を共有しているという意識が生まれることは、生臭い話になるが、ことが起こりそうなときにその抑止力として働くことは十分有り得ると思うからだ。
そのためには、クンデラの言うように国民文学だけでなく「世界文学」というものを構築する必要があるだろう。実際に諸国の作家は他の国の作家の影響を強く受けて創作の新たな地平を切り開くことは頻繁にあるのだが、文学研究においてその重要性があまり認識されていないのは、「フランス文学」や「ロシア文学」とならぶものとして「世界文学」という研究がなされていないということが大きいのだろうと思う。ダムロッシュの言うように言語で読む必要もない、翻訳で読んで諸国の作家は新しいものを創作しているのだから、そういう文化現象自体をもっと研究し、重要性を訴えていく事は重要であるように思う。(5.24.)
ミラン・クンデラ『カーテン』は第三部、「事物の魂に向かうこと」を読んでいる。第二部「世界文学」はいろいろ衝撃を受けた。フランス人が評価するフランス文学のベスト1はユーゴー『レ・ミゼラブル』だという。11位はド・ゴールの『回顧録』なのだそうだ。以下ラブレーが14位、スタンダールは22位、フローベールは25位、バルザック『人間喜劇』は34位で、アポリネール、ベケット、イヨネスコは100のリストに入らなかったのだそうだ。
これだけではまあ、ふうん、そんなものかという感じなのだが、クンデラはフランスに来た際、スターリン主義や「迫害、強制収容所、自由、祖国からの追放、勇気、レジスタンス、全体主義、警察的な恐怖政治」と言った大げさな言葉(つまりそれがクンデラがフランスに来たときに「憑いてきた」ものたちなのだが)、「厳粛な亡霊のキッチュ」を追い払いたいと感じていたという。キッチュとは彼の言によれば19世紀中葉にミュンヘンで誕生した「偉大なロマン主義の生気の甘ったるい屑」である。言い換えれば「オペラのテノールたちの圧政」であり、「まるで香水でも振り掛けられたようなパン(ムージル)」であり、まあワグナーの亡霊とでも言うべきものだろう。「中央ヨーロッパ」では長年にわたって「最高の美的悪」であった、というわけだ。で、クンデラがフランス人に、女たらしの友達と名前を交換し、自分がフランスにいなくなってしまったことで彼の恋人たちが途方にくれた、と面白おかしく話したら、「そんな話、私には面白くないな」と言われてしまったという。
そして、フランス人にとってはユーゴーの人道主義やドゴールの決断の偉大さこそが好みであり、「卑俗」こそが「最大の美的排斥」を意味する言葉だと言うことを知る。カミュはアルジェリア出身のフランス人であるとか、「晴れ着を着た百姓」という言い方で排斥され、フローベールもまた卑俗であるという理由で排斥されていることに気がつく。
つまりフランス人の言う「卑俗」と「キッチュ」とは全く違う概念であり、フランス人は「偉大さ」を尊崇する民族である、というわけである。逆にいえば、フランス人の生活にはある意味でのキッチュが満ち溢れていると言う言い方も出来なくはない。
これは私には結構ショックで、やっぱフランスという国を全然誤解していたなあ、と思う。彼らは結構、いや本当に本気でナポレオンやドゴールが好きなのであり、フローベールやゾラがフランス人の代表だと思うのはまったく見当違いなのだ。明らかに自分が共感できるのはクンデラのほうであってフランスではない。
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もう一つ印象に残ったことを書いておくと、ブロッホの「小説の唯一のモラルは認識である」という言葉、フローベールの「事物の魂に向かうよう努めて来た」と言う言葉、小説は反抒情的な詩である、という言葉である。このあたり、上に書いたこととも通じるが、なんだかじっくり表裏ひっくり返して考えてみたい言葉である。(5.25.)
。『カーテン』は以下のフレーズが印象に残る。(p.86-7)
「強調しておこう。ブロッホやムジールが現代小説の美学の中に導入したような小説的考察は、科学者もしくは哲学者の考察とは何の関係もない。それは意図的に非=哲学的、さらには反=哲学的、すなわちあらかじめ考えられた諸観念のどんな体系からも断固独立したものだとさえ私は言うだろう。この考察は判断せず、真実を声高に主張しない。それは自らを問い、驚き、探る。その形式は隠喩的、アイロニー的、仮定的、誇張的、アフォリズム的、滑稽、挑発的、空想的などと、この上なく多様である。そしてとりわけ、それは決して人物たちの生という魔法の輪を離れない。それを培い正当化するのは人物たちの生なのである。」
小説の考察は科学や哲学など「あらかじめ考えられた諸観念の体系」とは断固独立したものである、というのはまさにそうだろう。それとどれだけ交渉を持つかがその小説あるいは芸術がどれだけの創造性あるいは前衛性を持つかということと関係してくる。そうした「諸観念」あるいは「先入観=思い込み」を意識的に扱うのは興味深いことだが、それらがその諸観念や思い込みにあわせた形でしか書かれないのであればちょっと足りないものがあろう。しかし、ここには書いていないがどんな思い込みどおりの文章に見えてもその描写が何かを突き抜けていることは有り得るわけで、そこに小説と言うものの一筋縄では行かなさがあるのだと思うし、そう考えると小説における描写の致命的な重大性にも改めて考えが及ぶ。しかし「判断せず真実を声高に主張しない」考察というのが描写のある側面を言っているのかもしれないが。
ただ、小説的考察を正当化するのは「人物たちの生」だというのは分らなくはないが、それだけでは不十分な気もする。そこのところはどうもうまくいえないが、志賀直哉的な「もっと奥にあるもの」のようなものを描くということもあるんではないかという気もする。その辺は、ヨーロッパと日本との文化的な違いに起因するところだろうし、まだまだ私などにはそう簡単にいえないところなのだろうと思う。
そのあたりは人間存在をどのようにとらえるかと言う根源的な問題に行きつくのでなかなか大変だ。ただ、どのようにでも考察できるのが小説というものだろうし、そういう意味では小説というメディアこそがそううところで新しい地平を切り開きうる方法なのかもしれないという気もしなくはなかったり。(5.26.)
ミラン・クンデラ『カーテン』。いくつか印象に残ったこと。p.118-9、作品は作家個人のみに帰属するものであること。ストラヴィンスキイとアンセルメのやり取り。これについては、改めて言われなければならないんだなあとへえと思った。そういえば井伏鱒二がある全集で「山椒魚」のラストをカットしてしまったことが大きな波紋を呼んだことがあったが、確かに読者もテキストをある意味「自分のもの」だと思っているよなあと思う。あの時は割りと日本的ななあなあのうちにうやむやになった気がするが、ヨーロッパでは対決しないとならないんだろうなあとも思う。
p.152-3、「フロベールにおける愚行は違っている。それは例外、偶然、欠陥ではない。いわば量的な現象、教育によって治療しうる、知性のどこかしらの欠落などではない。愚行は治療不可能なのだ。愚行は愚か者と同様に天才の思考の中に、いたるところに存在し、「人間の本性」と不可分な一部分なのである。……『ボヴァリー夫人』においては、「あまりに善が不在である」というのは事実ではない。重要点は別のところにある。そこではあまりにも多くの愚行が存在している、ということだ。…だがフロベールは「善き情景」を描きたいのではない。「事物の魂」にまで到達したいのだ。そして事物の魂の中には、あらゆる人間的事象の魂のなかには、いたるところに、彼にはそれが、愚行という優しい妖精が踊っているのが見えるのである。この控えめな妖精は、善にも悪にも、知にも無知にも、エンマ(『ボヴァリー夫人』の主人公)にもシャルル(『感情教育』の主人公)にも、私にもあなたにも見事に順応する。フロベールはこの妖精を実存の大きな謎の舞踏会に導き入れたのである。」
これはなかなかすごい、なるほどとおもうし、あらゆる人間は愚行をし、それゆえに喜劇である、というふうにつながり得る。愚行というものを客観的に見ることは抒情とは相容れないものでもある。私なども両方面白いとは思うが、愚行の方により人間的真実がある、という見方のほうにより大きな説得力を感じる、ということはあるように思う。誰でもそうだとは思えないし思わない。また愚行と見ることですべてが理解し認識できるというわけでもない。現代はオタクを初め「愚行」にしか見えないことの中に結構人間的真実を探さざるを得ない現象が多くて面倒ではある。「萌えアイドル」とかって、「踊っている愚行という優しい妖精」そのものかもしれない。
p.168、「……ナスターシャたち、ムイシキンたち、私は彼らのような人間をどれだけ回りに見ていることだろう!彼らは全員未知への旅の始まりにいる。疑いもなく、彼らは彷徨している。だが、それは特異な彷徨だ。彼らは自らが彷徨しているとも知らずに彷徨しているのだから。というのも、彼らの未経験は二重だからである。彼らは世間を知らず、自分自身を知らないのだ。」
これはまあ、全くその通りだ。自分の10代後半から30くらいまでは全くその通りだったと思う。自分の周りにいる人たちも多くはそうだったし。
しかしまあ、こうして書いてみると、どうも「当たり前」とか「分かりきった」ことに見えてくるから不思議だ。私自身の認識の仕方が、実は昔から結構「小説」的だったということなのかもしれない。で、私が小説が苦手だったのは、そういういやらしい認識のさせ方をこれでもか、これでもかと見せられるところにあったのかなあという気もしてくる。つまり、一種の近親憎悪だったのかもしれないと。
まあそこまで言い切ることは出来ないが、でもいろいろな意味で認識が深まった気はしなくはない。こういう方向の読書体験は重要なものだなあと思う。(5.27.)