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村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

神の子どもたちはみな踊る

新潮社

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帰ってから友人と電話で少し話す。腫れが邪魔でうまく話せず。夕食。これも同じく。疲れてしまう。『神の子どもたちはみな踊る』を読む。面白い。筋に引き込まれる。妻がいなくなるというのは村上にほんとによくあるパターンだが、ノーマルなサラリーマンがいきなり釧路に行くという展開がなんとなく自分の今の気持ちにあっている気がする。夜8時前に就寝。(8.22.)

昨日帰郷。特急の中では村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫、2002)を読了。阪神大震災に関連して書かれた6本の短編の連作、とでも言えばいいか。それぞれよく書けていると思う。村上の短編は完全に独立していると何を言っているのかよくわからないものが時にあるのだが、このように一つのテーマでの連作になると、一つの全体像のようなものが見えてくる。この登場人物の誰一人として被災地に帰ったりボランティアに出かけたりしない。被災地の出身の村上がそのような書き方をすることで、「神戸」が彼にとってどんな場所であるのか、ということがわかってくる。帰れない「Home」としての神戸。帰らないことを選択した人たち。新しい場所で、それぞれが「たたかう」べき相手を持つ。それとのそれぞれの関わり方、「たたかい」のあり方。

詳細に論じるといろいろ出てくるが、単純に感想ということで言えば、「かえるくん、東京を救う」が一番好きだ。よく言われている村上の作品の「透明感」とは裏腹に、村上が「敵」として意識しているものは、あるいはその「意識」は、かなり生々しいしどぎついし、暴力的であるし混沌としている。それがあまりストレートに現れすぎると『スプートニクの恋人』の後半部分や『ねじまき鳥クロニクル』の第3部のようにむしろ「嫌な感じ」が強くなりすぎ、少々反発を買うのではないかと思う。この村上の「敵」はサイバーパンク的なものであったり無機質であったり「虫」的なものであったり生理的な嫌悪感であったり、なんというか「村上の敵」的なものといえばああこういうもの、といえるようなものなのだが、それを別の言葉でいえばなんと言えばいいのか、ちょっとよくわからない。既成秩序とか既成権力とか、まあそのように言ってもいいのだが、その「敵視」自体に理不尽な感じがすることさえあって、まあよくわからない。

今回の「かえるくん」の敵は「みみずくん」なのだが、そういう馬鹿げた設定でもなんとなく面白みを感じてしまうのがそこに村上的な世界の構築があるからで、なにしろこの「かえるくん」がおかしっくて仕方ない。「ニーチェが言っているように、最高の善なる悟性とは、恐怖を持たぬことです」とか「ぼく一人であいつに勝てる確率は、アンナ・カレーニナが驀進してくる機関車に勝てる確率より、少しましな程度でしょう」とか、かえるのくせに言うことにいちいち教養がほとばしっているのだ。今ふと思ったが、この存在は「ねじまき鳥」に出てくる加納マルタ・クレタ姉妹のような「奇妙な味方」によく似ている。村上にとって「味方」は常に奇妙なものであり、敵は常にどろどろしたものだ。

私が演劇をやっていたせいもあるが、これは舞台に乗せたら絶対面白いと思った。村上の会話はかっこつけてるとよく言われるが、舞台上の会話と考えるとどれもインパクトがあってかなりよいものが多い。村上は本質的に戯曲作家なのかもしれない。少なくともイシグロのような生来の小説家とはちょっと違うものがあるような気がする。(8.24.)

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