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ミル・山岡洋一訳『自由論』
自由論光文社このアイテムの詳細を見る J・S・ミル・山岡洋一訳『自由論』(光文社古典新訳文庫、2006)。何でこの本を手に取る気になったのか今考えてもよくわからないのだが、自由ということについてミルがどう書いていたっけ、ということが気になったのかもしれない。手にとってぱらぱらと見て、あ、なーんだ、と思ったり面倒なことが書いてあるなと思ったりしてそのまま戻す、ということがよくあるのだけど、翻訳の文体がじつに読みやすいのでしばらく立ち読みする。すると次の一節が目に入った。
「教会の中でも特に不寛容なローマカトリック教会すら、聖人の位を認める際には「悪魔の代弁者」を議論に加えて、反対論を辛抱強く聞いている。とりわけ優れた聖者でも、悪魔が浴びせうる非難の言葉をすべて聞き、検討するまで、死後に聖人に列して栄誉をたたえることはできないとされているようだ。」(p.53)
これは自由な言論における反対意見の重要性を述べた一節であるけれども、私はそういうところに魅かれたわけではなく、「悪魔の代弁者」という言葉が目に留まったのである。というのは、『インテリジェンス 武器なき戦争』の中で、佐藤優が「私はもう一つ別の仕事をやりたいと思っています。それは「悪魔の弁護人」です。」(p.181)と言っていたのを覚えていたからだ。この二つは本質的に同じものを意味すると思うし、おそらくは訳が違うだけだろう。悪魔を代弁し、弁護するような役割が「自由」においては重要だ、という主張は多分日本ではなかなかポピュラーにはなりえないだろうが、屹立した思想だと思う。
まあそんなことで、よくわからないけどこの本は現代的な問題を考える観点からも読む価値があるに違いないと判断し、買ったわけである。普段余り買わなそうな本なので、いちおう買った理由をあとづける。村上春樹も翻訳には寿命がある、と言っていた。多分、古い訳の『自由論』を手にとっても、おそらく読み通す気にならないだろう。そういえばshaktiさんも『ドンキホーテ』の翻訳について同じことを言っていた。問題は見るの思想自体が今現在読む価値があるかどうかだが、多分翻訳が読みやすくすぐ読めるだろうと判断した。まあ本を買うときもこうやっていろいろごちゃごちゃ考えはするのである。
地下鉄の中で読み始めたが、すべてが整理されて頭の中に入ってくるわけではないけれども、とても読みやすくすらすらと前に進む。かなりの部分が上滑りして字面を追っているだけに等しいだろうなとは思いつつ、それでも読むのと読まないのとは全然違うことを最近英語の速読の訓練から認識しているので、あまり気にせずどんどん読む。
読んでいるうちにどんどん面白くなってきた。言論を封鎖しようとする勢力に対し、それが以下に適切でないかを縷々述べている。そしてそれに対する予想される反論もたくさん取り上げ、それを諭すような説得するような調子で言論の自由の大切さを述べている。
これを読んでいると、現在のサヨク言説の動脈硬化ぶりに対しミルが懇切丁寧にこういうことはいけないんだよ、もっと自由な気持ちを持って反対意見を聞かなければ、と言い聞かせているような感じがしてきて大変愉快になってきた。「核保有は論議すること自体いけない」というような調子のおためごかしの言説にも、相当率直な有効な反論になりえているところが「古典の力」というものを感じさせる。思想的な巨人というのは、やはり圧倒的な「考える力」を持っていたのだなあと感心させられる。
現在の時点で読み終えたのは第二章「思想と言論の自由」までだが、これで既に本全体の半分行っている。あとは第三章「幸福の要素としての個性」第四章「個人に対する社会の権威の限界」第五章「原則の適用」というところだが、先を読むのが楽しみな感じがする。
読んでいて感じたのは、ミルと言うのは本当の意味で「父」のようなもの、「真実の父」だということだった。なんだか唐突で分かりにくい表現だが、読んでいると、いろいろと頭の中に生硬な議論が渦巻いている私自身を父に諭されているような気になってくるのである。私自身の実際の父はそういうところもあるがそうでないところも多くありそうでないところが非常に最近目立ってきているのだが、ミルというのはそういう現実的な関係を超えて全く私自身にとって「真実の父」のような気がするなあと思ったのである。
本当の意味で議論をすると言うのはいろいろな意味で困難がある。自分自身が確信というものがあまり強く持てない出来た面があるので、強力な反論にぶつかることを恐れる気持ちがやはり強いのだなと思う。しかしだからといって反論に直面しなければ、本当に自分の確信を強固なものにしていくことは出来ないし、それを恐れることはない、と言われているような気がする。そういう意味で、本来じつに男性的な論者なのだなということを読みながら強く実感した。
そして自分の意見と反論を常に対照させすべての反対意見を聞き、それによって徹底的に強化された確信を持って行動するという態度は思考原理としてだけでなく行動原理としてもじつにシンプルで力強く、素晴らしい態度であると思った。特に私自身などは思考においても行動においてもそこまで徹底できずに行き詰ることが多いから、そのあたりのことを叱咤されている感じもあり、そのあたりにもまた「父」というものを感じるのだろう。
何というか、いろいろな意味で納得するところがある反面、そんなこといってもちょっとなあと感じてしまうところもあったりするのもやはり「父的なもの」に感じるような種類のことなんだろうと思う。そして、それらのことを踏まえたうえで、もっと先のところまでいかなければならない、「彼」を乗り越えていかなければならないという思いを覚えることもまた、「父的なもの」であるからなのだろうと思う。
そのほかいろいろとなるほどなあと思うところがある。
「文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だと言えるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物質的にあるいや精神的に良いことだという点は、干渉が正当だとする十分な理由にはならない。」
こちらのレビューによると、これは「他者危害禁止則」と呼ばれるものらしい。
こういうところを読んでいて、おそらく自分自身が20代の前半頃、この主張に近いようなことを実際に考えていたと言うことを思い出した。しかしいろいろな現実に触れているうちにそれだけでは不十分なのではないかということを感じてきたということが、こういう主張から自分自身を遠ざけていたのだろうなと思う。つまり、簡単に言えば「自由な個人」と言いえるような、たとえ未熟ではあっても、という人たちと主に付き合っている頃にはそれは一般原則として非常に正しいと思っていたけれども、仕事、特に教育の仕事についてまあ何というか「大衆社会の現実」のようなものに突き当たったり、「教育」というもののやや特殊な思想性に影響されたりしていると、「自由な個人」というものの存在自体が非現実的に思えてきて、あまりかえりみなくなってしまったということなんだなあと思う。そういう意味で、自分の思想性の中でも「父」というか、核になる部分が再度指摘されたということなんだなあと思う。古いおぼろげな確信、どこからか受け継ぎ自分自身で「若い確信」に至ったもの、だからこそこういう思想に「父的なもの」を感じるのかもしれない。
しかし最近、そういう大衆性や教育と言うものの持つ影響、はっきり言えば「毒気」のようなものがだいぶ抜けてきたせいもあって、「自由な個人」というものの存在がまたある種鮮明に見えてきたと言うこともあるのだと思う。確かに「自由な個人」を重視するのは19世紀的な発想であるし、大衆社会である20世紀の現実に即応していないところもあることはあるのだが、だからと言って「自由な個人」というテーゼの持つ積極的な意義は失われてはいないと思う。
この『自由論』は明治2年、まだミルが存命中(65歳)に中村正直によって翻訳され、日本で爆発的に読まれている。幕藩制が解体し新しい時代の思想を必要としていた日本人たちにとって、痛切に必要な思想が「自由で独立した個人」というテーゼであったことは想像に難くない。頼るものすべてを失って、なおかつ何に依拠してこれからの人生を生き、また新しい国をゼロから築き上げなければならないかと考えたときに、「自由な独立した個人」であることから出発して欧米に負けない国を築き上げなければならないと言うハードな現実に立ち向かう気概のようなものを供給したに違いないと思う。
社会というのは残念ながら「自由で独立した個人」によってのみ構成されているわけではないし、その国の文化によって社会と個人の紐帯のあり方は違うからこうした考えだけで世界を律しきれるものでもない。しかし、「自由で独立した個人」によって構成される社会という一つのモデルケースを考えることは意味のあることだし、そこで考えられることがそれを適用できない現実もまた存在するからといって全く無意味になると言うこともない。
たとえばニュートン力学は相対性理論や量子力学の誕生によってアウトオブデートな物になってしまったが、しかし現実にわれわれの日常的な世界においては十分適用できるものであり続けているのと同様に、「自由で独立した個人」によって構成される自由主義・民主主義国家というものを、たとえ日本の現実の中では思考実験に過ぎないとしても、前提として考えてみることは決して無駄ではないし、有益である、というようなことを思った。
また別の話だが、「他者危害禁止則」に戻る。
「この原則は判断能力が成熟した人だけに適用することを意図している。子どもや法的に成人に達していない若者は対象にならない。……同じ理由で、社会が十分に発達していない遅れた民族も、対象から除外していいだろう。……専制統治は、未開の民族に進歩をもたらすことを目的とし、実際にその目的を達成することで手段としての正しさを実証できるのであれば、正当な統治方法である。」
とミルは述べる。これはつまり、イギリスのインド統治などを正当化する論理にも使われていると言っていいだろう。このあたりはじつに微妙で、マルチカルチャリズムの立場から言えばこれは帝国主義的な暴言と言うことになるだろうし、啓蒙主義的な、たとえば伝染病医療などの立場からよく適用されがちだが、そういう立場からすれば依拠すべき、あるいは依拠せざるを得ない理論であるということになる。イギリスのインド支配は正当であったが日本の朝鮮支配は不当であった、などというのもこのあたりから引き出されてくる結論であるのだろうと思う。このあたりはアップトゥデートな議論になるので、それぞれの立場から「悪魔の代弁者」の説にもまた耳を傾けてみると得られるものがあるかもしれない。
まあそんなふうにして、いろいろなところでいろいろな思考が引き出せてくる、じつに面白く読みがいのある本だと思う。(2006.12.24.)
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J・S・ミル『自由論』読了。読みやすいとはいえ、さすがにこの種の古典は骨が折れる。とにかくざあっと通して通読しただけなので、細部までしっかり理解したとはいえないが、それなりのメッセージは受け取っているという感じ。
正直言って、非常に常識的、という感じ。非常に合理的に物事を考えているし、自由についての考え方もものすごくオーソドックスで、古典を読んでいるときに感じがちな違和感がほとんど出て来ない。つまりそれだけ、私の、あるいは私たちの世代の『自由』に対する観念が間接的にしろ伝統的にしろ教育の中にしみこんだ形にしろ、強くミルの思想の影響を受けているということの証明でもあるだろうと思う。違和感があるとしたら、『当たり前』と感じることをじつに徹底的に論証している部分そのものにあると言ってもいいかもしれない。そこまで言わなくてもいいだろう、と思うくらいくどいくらいに論証をあげ、逆にその部分に19世紀中葉のイギリスの歴史的現実のようなものが読み取れて歴史をやるものとしては興味深い、とかんじられる部分もあったりする。
第三章、『幸福の要素としての個性』の章で、個性についての考え方もやや特権的に賛美しているようにとられる可能性もあるが、私自身としてはやはり呆れるくらいに中庸が取れているというか常識的な感じがする。強力な個性がなければ歴史は進歩しないと言う思想は私自身にとっても疑いようのないことで、おそらくこのあたりのところに社会経済史的(つまりマルクス主義的)な歴史観の人は反発するだろうと思うけれども、今現在の一般的な見方から言えば十分にバランスが取れているように思う。
第四章、『個人に対する社会の権威の限界』の章では、社会契約論を否定しているのが面白かった。「社会は契約に基づいて作られているわけではないし、社会的な義務を根源から説明するために社会契約を想定しても、何の役にも立たない。」(p.168)それでは社会あるいは国家の根源をミルは何に置いているのだろうといろいろと考えてみたのだが、要するにつまりはベンサムの言うところの「最大多数の最大幸福」、つまり合理主義的な社会観、国家観に立っていると考えればいいのではないかと思った。つまり、社会を成り立たせるための「神話的」な起源論、それが社会契約論であれ部族国家観であれ天孫降臨論であれ英雄建国論であれ、そういうものに全く重きをおかず、今人間が秩序と安全を維持しつつ幸福に生き生きと生きていくための社会状態のみを考えようと言う見方なのではないかと思ったのである。
彼の考え方は非常に道理に適っているし、合理的である。つまり、「道徳的であることがすなわち合理的」なのだ。これはじつに社会維持的な見方で言うと説得力のある見方であって、人はなぜ道徳的に行動しなければならないかと言うと、そのように行動し生活するのが最も合理的でうまく社会が動くからだ、というのは若い頃に一番納得した道徳の必要理由であったことを思い出した。これが「合理的であることがすなわち道徳的」ということになるととたんに最も抑圧的なほとんどチャップリンの「モダンタイムス」の世界になってしまうわけで、実はそう考えている人も少なからずいるのではないかと思うしそのあたりは桑原桑原である。
彼の原則は、個人のみに属することは個人が、社会に関係することは社会が決定するべきで、個人のみに属することに社会は干渉するべきではないし、社会に関係することは社会が責任を持って処さなければいけないと言うことである。第五章『原則の適用』は要はその境目にあることに対してはどう対処すればいいかと言うのがテーマで、飲酒や売春、あるいは毒物の販売など個人的な行動でありつつ社会的な害毒につながりやすい現象について論じている。基本的にミルは呆れるほど楽観的に個人の行動を肯定するが、個々のケースについてはさまざまな論考を加えている。そしてその施策方針が絶対のものとは全く考えていない。しかしその真剣な思考には感心させられる。
もうひとつ印象的なのは教育問題で、十分に子どもを育てる意志も能力もないまま子どもを生み育てることに対してかなり真剣に怒っている。親権をたてに子どもの虐待があとを絶たない我が国の現状などを考えると、このミルの主張はある種一石を投じるものではないかとすら思う。最後に述べられているのが官僚制の問題で、官僚制の弊害を防ぐための仕組みづくりについていろいろと述べているが、残念ながらその問題が全く解決していないのは誰もが知っている通りで、霞が関改革を考えている安倍総理にもこの本は読んでもらいたいという気がした。
いろいろな意味で、この本は非常に常識的かつ合理的であり、明治二年に訳された『自由之理』が明治初年のベストセラーになったのも頷ける。当時の若者がこの合理主義に強く心を揺さぶられたのはそれが時代の風だったからだ。
しかし私は何というか、やはり読んでいて退屈してくるところもあった。というのは、すべてがあまりにも正論なのである。乱暴なところが全くない。それはある意味凄いことで、このミルという人間が私などとは比べ物にならない強大な意志と自己統制能力を持った巨人であるということは覆い隠すべくもなく伝わってくる。そういう意味で、この人間の凄さというものには素直に感嘆すると言うことはいわなければならない。
彼の飽くことのない思考能力とすべてのものを考えに入れ、統制し位置づけていく吸収力と管理能力によって、この世はすべて合理的に理解し対処していくことが「可能」であることが示される。これはもちろん彼の処理能力によって初めて可能になった、いや可能と考えてもいいように見えるようになったことであろう。そしてそこには尋常ではないエネルギーが注ぎ込まれているのだと思う。ここで私が感じさせられたことは、合理主義というのはある種デーモン的なものであるということだ。合理主義へのデモーニッシュな情熱があって始めて、世界は合理的に見ることが可能であるように見えてくるのであるし、その強力なバイアスによって人類は「進歩」させられてきたのだと思う。
『ラプラスの魔』という言葉があるが、その憑かれたような情熱に憑いているものはやはりある種の魔なのだと思う。予断だが、全く狂ったように合理主義を主張する人が今の時代にも少なくないのは(何というか、特に理系の人のブログなどを読むと凶暴なまでの合理主義の主張があってびっくりしてしまうときがあるのだが)やはりそこに人間の本性に由来するデーモンが顕現しているからなのだと思う。これは余談。
話を合理主義そのものに戻す。なんというか、私自身がそういうものを自然に呼吸しつつ成長してきた世代であり、その延長線上に自然に物事を理解しつつ大人になった世代であるなと思う。そして、多分、先が見えてしまった、いや、見えてしまったような気がしたのだろう。いつの頃からか、「合理主義などつまらない」、と思うようになったのである。
合理主義は確かに世の中を進歩させたかもしれないが、合理主義的に生きていても、一体何が面白いのかと思う。そんなつまらない生き方をわざわざ一回しかない人生で(少なくともその頃は輪廻転生を真剣に考えたこともなかった、いや今でもそんなに真剣に考えているとはいえないが)しなければいけないんだろうと思うようになったのだ。これはごく自然の成り行きだったのでいつごろからそう思ったかと言うこともよくわからない。しかしニーチェの非合理主義や演劇的な非日常性、合理的な思考では割り切れない身体論的な世界などに引かれていったのはそういうところがあったからだと思う。
しかしだからといってオウム真理教やその他変な宗教に魅かれたりしなかったのは自分の中に相当強固に合理主義的な思考があり、そこで磨かれたカンのようなもので「あれはヤバイ」と思ったからであったということはある。私はヤバイものには基本的に敏感で、結構それで危険を回避してきたとは思う。そういう意味で危ない場面は実は何度もあったのだが。
80年代と言うのは、それをそういう世代として体験した世代にしか分からないものだろうとは思うが、ある意味そういう非合理的なものをじつに面白がる時代だったと思う。オカルト的なものやオタク的なものが市民権を得たのもあの時代であったし、今からいえば結構キワモノっぽいモノにもアカデミズムが結構近づいたりもしていた。
それが完全に崩壊したのはやはり90年代半ばの一連のオウム事件と阪神大震災の衝撃であったのだと思う。キワモノの一環としての支持に変わりつつあった(と言ったら言いすぎだが)社会主義への信頼もあの当時の村山内閣の対応によって一気に失われた。
そして現在は、ウェブやネットが日々劇的に時代を変えつつある驚異的なイノヴェーションの時代に突入している。つまり、現在は圧倒的に合理主義が勝利しつつある時代なのだ。つまり私などが一番面白かった時代、80年代とは全く逆の性向を持った時代なのである。いろいろな物事を考えたりものを書いたりしていてもどうもなんとなくいつも反時代的な感じがしていたのは、そういうことだったのだなと思う。なんとなく面白い時代であることは確かだから、本質的には変わらないんだろうと漠然と思っていたのだが、本当は全然反対だったのだ。
私の80年代がいわばマリ=アントワネットがルソーの「自然に帰れ」の主張を受けてプチ・トリアノンを作ってわが子を自分で育てたり当時としては破天荒なことをしていたような時代であり、現代はフランス革命の大破壊のあとナポレオンが快進撃を続けてヨーロッパを制覇しつつある時代のようなものだ。時代のメンタリティが全然違うのだ。
しかしまあ、そのように時代認識をしてみると、ある意味愉快な時代であるなとも思う。いわば合理主義に確信犯的に体当たりしつつ、その激流の中で最大限面白いことをやって成果をあげていく、ということが最も出来そうな時代だともいえる。それは蒸気機関車が地上を制覇した時代にドンキホーテ的にロシナンテにまたがって騎士の修行に行くと言うことではないだろう。ロマン主義が最も力を持ったのは科学主義の、そしてミルの19世紀であったように、ゴシックホラーやハリーポッター、ナルニアがブームになるのも現在のイノヴェーションの時代と無関係ではないはずだ。もっと強い個性がおそらくこの強力なイノヴェーションの時代には必要なのだ。
20世紀の科学そのものがある種の不安定さを獲得して、芸術もアブストラクトな方向に解体していったように、人間の知性や芸術はある種の方向を持ってバランスをとっている。何ができるのか何が面白いのかはつかみきれないけれども、まだまだ面白いことがあるはずだ。合理主義が巨大であればあるほど、その発生する磁場から生まれるものは大きくなるはずで、そこから最大の成果をあげられるようなものを狙って行けば面白いなと思う。(2006.12.25.)
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