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佐藤優『自壊する帝国』

自壊する帝国

新潮社

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昨日帰郷。出掛けに丸の内丸善で佐藤優『自壊する帝国』(新潮社、2006)を購入。これは佐藤の自伝的な情報関係者としての自己形成を描いたもので、佐藤という非常に興味深いパーソナリティの形成についてや、情報の世界というのがどんなものかということについての貴重な参考資料になりえるものだと思う。それにしても、昭和天皇が崩御されてから雨後の筍のように天皇研究が出て来たし、ソ連崩壊以降そういう研究がどんどん出て来ているわけだが、そういう研究には旬のようなものがあり、まだまだ冷戦時代関係の新事実は(したがって新研究も)どんどん出て来そうで知的好奇心が刺激されることは事実である。ある意味やはり現代はいろいろな意味での「ポスト〜」の時代であるようだ。ルネサンスの後のマニエリズム、バロックの後のロココ(絶対主義の後の啓蒙主義)のように、新しい時代に移ろうとして移りきれない時代は「行動」あるいは「新しい実践」よりも「知」が優位に立つ時代になりやすいが、現代もぎらぎらした高度成長・バブル的経済繁栄の後のある種の「知の時代」なのだと思う。そしてそれは今までの例で言えば、ある事件で、あるいはある時期が来たら唐突に終わる。911や917(金正日による拉致謝罪)が一つの時代の流れを変えるかと思ったが、まだそこまでいってないような気もする。あるいは「知」がかなり勢力を回復してきたというか。(2006.6.7.)

佐藤優『自壊する帝国』p.130まで読む。「ソ連という闇」のことを少しずつ知っていく過程が興味深い。ナゴルノ・カラバフにおけるアルメニアとアゼルバイジャンの国境・民族問題が重要な問題であることに日本人として最初に気づいたのが佐藤であり、クレムリン中枢での権力闘争を反映していたという情報を得ていく話が面白い。ソ連において、ムスリムと共産主義が近い関係にあったという話はどこかで聞いたことがあったが、アルメニアがソ連中央から白眼視されていたという話は知らなかった。つまり、世界中にディアスポラしたアルメニア民族は西側に独自のロビーを形成していたのがクレムリンには邪魔だったわけだ。またアゼルバイジャンにはバクー油田があり、それもあってクレムリンはアゼルバイジャンの方を優遇していたという。

それがゴルバチョフの改革によって知的エリート、特に経済専門家が力を持ち始めると、ソ連における知的エリートのかなりの部分を占めていたユダヤ人とアルメニア人が力を持ち始める。しかしソ連中央には反ユダヤ感情があるので、勢いアルメニア人の影響力が強まり、それがナゴルノ・カラバフにおけるアルメニア民族主義者の強硬姿勢とアゼルバイジャンに対する優勢を結果したと言うわけだ。ソ連は民族問題を端緒にして崩壊したという認識は必ずしも強くなかったけれども、現代でもチェチェンなどかなりシビアな問題をロシアは抱えているわけで、そちらの方からこの時代を見直してみることは重要なことだろうと思った。(6.8.)

佐藤優『自壊する帝国』(新潮社)第6章(全9章)まで読了。ソ連の反体制知識人との知的交流が非常に魅力的に描かれている。こういう交流をできる佐藤という人を羨ましいと思う。ラトビアの人民戦線の仕掛け人とか、無神論者から出発してロシア正教の神父になり、宗教の教義を徹底的に研究した結果イスラム教に改宗してしまった人物とか、ロシアのインテリゲンツィアの知的誠実さというものがひしひしと伝わってきてある種の感動がある。しかし逆にそのように自分の知的結論に従順に行動してしまうところにある種の弱さがあるわけで、彼らはものすごく頭がいい(ある人物は研究書を一日に1000ページ読むという)が、結局ドストエフスキーの時代のインテリゲンツィアのように、民衆からは徹底的に遊離してしまっていることがよくわかるように描かれている。

日本の知識人はもっと大衆的なずるさに満ちていて(彼ら自身が大衆だ、といったほうがいい手合いも幾らでもいる)、そのあたりが噴飯ものではあるのだが、逆にそこに彼らの腰の強さがあるわけでもあり、なかなかそう簡単に絶滅しそうもない。ただそんなことではなかなか本質的な知的エクスタシーは得られないよなと思うだけである。

印象に残ったところをいくつか上げる。

p.39、1987年。ロンドンの亡命チェコ人の古本屋からモスクワ赴任に当たっての注意。

「モスクワにも古本屋はあるんですか。」「たくさんあるよ。ただし古本屋は反体制派とつながっているので、外交官が接触するとリスクがあるかもしれない。」ソ連のような全体主義国家では「古書を持つこと=反体制」なのだ。中国でも清朝の時代に「四庫全書」という巨大な叢書が作られたが、これはここに収められた本だけは研究しても良い、という意味でつまりは言論統制が狙いだったと宮崎市定が書いていたが、まあそんなようなものだ。「これに載っている言葉はボツ」という日本のマスコミの「言葉狩りマニュアル」と本質的に同じ行為である。いや話がずれた。

p.152、ラトビア人民戦線の戦略。

「ゴルバチョフは法の支配を権力基盤の源泉にしようとしている。そうなると連邦条約が存在しないという問題(連邦条約に参加しているのはソ連邦成立のときのロシア・ウクライナ・白ロシア・ザカフカス4国のみで、バルト三国・モルダビアは独ソ不可侵条約の際のモロトフ・リッペントロップ秘密協定、つまりヒトラーとスターリンの取引でソ連が占領した経緯をさしている。)に、正面から取り組まざるを得ない。中央アジアや沿バルトの併合は、スターリンの植民地政策に過ぎないということが明らかになる。」

ゴルバチョフの改革の「法の支配」の論理を逆手に取るという戦略。ソ連から最も早く離脱したバルト三国がそんな「論理的闘争」によってそれを実現したとは意外だった。北方領土問題なども、結局はそうした論理的闘争のほうが有効だと佐藤は言いたいのだと思うが、日本の政治家はそのあたりが最も苦手で嫌う人物が多いというあたりに齟齬があるのだろうと思う。

p.256ムスリムに改宗した神学者ポローシンの言葉。

「自分が何を信じているのか、この世界にどうして悪が存在するのかわからなくなった。キリスト教的な問題の立て方が諸悪の根源のように思える。人間に原罪なんて存在しない。そのままの人間は善でも悪でもないと素直に認めればいいんだ。結局、ユダヤ教、キリスト教という原罪観にとらわれた宗教が世界をねじ曲げて解釈し、人為的に問題を作り出すというように僕には思えてならない。」 これは重要な指摘だと思う。一神教的態度が世界の不和の原因だと良く日本では言われるが、一神教的態度よりも「原罪観」という見方こそが人間を飽くなき正義の追求に駆り立て、むしろ悪を創り出しているように私も思う。善悪二元論では解決しない問題がこの世にはほとんどであるのに、それを無理やり割り切ろうとする態度は硬直しすぎていて有害だと思う。

あとどこで読んだか忘れたが、「ソ連は最初から狂っていた」というアレクサンドル・カザコフ(サーシャとして出てくる佐藤と非常に親しい人物で、ラトビア人民戦線の仕掛け人)の言葉も強く印象に残る。それは私もよくわかる部分がある。ただ、やはりこの人たちの分析はあまりに鋭利で、そのまま受け取ると危険な部分がずいぶん多い。「袋の中に錐(きり)は隠せない」というが、適用するときは少し無害化して使った方がいい場合もずいぶん多いような気がする。インテリゲンツィアは自分も十分に使いこなせない危険な概念や言葉を振り回しているある意味始末の悪い人々なのだということはよくわかる。もちろん日本の近代史や私自身の自分史に登場してくる多くのインテリ、あるいは自分自身のある部分を見てもそれは明らかなことなのだが。

ま、とにかくこの本、というか佐藤優の書くものは、そういう危険に満ちた知的刺激に溢れているということははっきり言える。ヨーロッパ、特にロシア・東ヨーロッパというものはとんでもない世界である。(6.9.)

昨日は前半は雨が降り、後半は上がっていた。創作を進めた時間が長かった。が、とにかく読みきろうと思って佐藤優『自壊する帝国』を読み進め、仕事が終わったあとの夜半過ぎに読了。

読み終わった後の感触から言うと、佐藤の旧ソ連人インテリゲンツィアとの心の交流、というのが主題と言う感じだが、政治の季節に反体制の急先鋒だった人物が資本主義に改宗したり、共産党保守派の人物が虚無主義に改宗してジリノフスキーの片腕になったりしているさまは、そういう例が多いことは今までいくつも聞いてはいるけれどもやはり唖然とする。オウムがロシアで布教に成功したりしたのも、こういう精神的に多くの損害を被った時代の産物なのだと言うことがよくわかるが、彼らインテリが基本的には良心的であるだけに、痛々しい感じがする。

佐藤という人は自分を取り巻く状況についてはきわめて冷徹に把握し分析することのできる人物だと言う印象があったが、自分自身のことについてはあまり語ってこなかったように思う。しかしこういう友情を通したロシア人との付き合いになると、彼個人のパーソナリティーもかなり語られて印象深い。ただその語りが基本的にシャイであることに変わりはないのだが。

印象に残ったことをいくつか。

p.276。グルジアの赤ワインに「キンズマラウリ」「フバンチカラ」という銘柄があり、静脈からとった献血用の血液のように少し濁っているのだという。スターリンはかつての同志を銃殺した晩に必ず宴会を開いて「いい奴だったのになあ」といって粛清した同志を偲んでこれらのワインを飲んだと言う。スターリンらしさがよくあらわれた「伝説」だと思う。

p.280。またスターリン。モスクワ大学やレニングラードホテルなどの摩天楼は「スターリンゴシック」と言われているそうだ。

p.306。「KGBには精神病院への通院歴があるものを協力者に雇用してはならないという規定がある。」なるほど、ちょっと意外だがそういわれたらそういうものかという気がする。スパイなどの情報活動というものは、情報提供者がどういう人間かはかなり厳しい基準があると言えるわけだ。ということは、逆に極めて普通の人物が情報提供者として有用であるということもいえるわけで、人間不信になりそうな社会だったのだと言うことはよくわかる。

p.357。ビチェスラフ・ポローシンについて。「ビチェスラフは中国人百人分くらい狡いの。」ロシア人の中国人観がわかって可笑しい。

p.359。ロシア共産党元幹部イリインとの会話。 「あんな重要な秘密を、僕みたいな西側の、それも下っ端の外交官に教えてくれた理由はなんですか。」

「人間は生き死にに関わる状況になると誰かに本当のことを伝えておきたくなるんだよ。真実を伝えたいという欲望なんだ。」

「なぜ僕にそう話そうと思ったのですか」

「信念を大切にする人と信念を方便として使う人がいる。君は信念を大切にする人だからだ。周囲にそういう人が見当たらなかった。」

かなりデリケートな会話だ。人間は信用しうるか。信念を大切にする人は大切にする人どうし、理解しあえるし信頼しあえる。信念を方便として使う人は、一見良心的にブログで怒ったりしている人の中にもずいぶんいるように感じられる。そのように考えてくると、機会主義者との友情はいつかは壊れる、というのが佐藤の作品のテーマであるような気もしてきた。逆に、機会主義者にもまあいわば「悲しい真実」みたいなものはあるわけであり、そのことについての佐藤の自問自答も感じられ、そのあたりにこの作品を読んだときのなんとも割り切りきれない読後感があるのかもしれない。(6.10.)

昨日買った『文学界』8月号はカズオ・イシグロのインタビュー「『わたしを離さないで』、そして村上春樹のこと」があり、これも面白いがまだ読みかけ。この号には佐藤優「私のマルクス」と彼の『自壊する帝国』の書評があり、この書評は左翼の立場からのこの書の感銘が述べられていてちょっと面白い。この国にはまだ左翼という人たちがいて一定の影響力があるんだということはともすれば忘れそうになるが、忘れすぎてもまずい。滅び行く種族であることはまあ違いないとは思うが。(7.9.)

  

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