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リチャード・クー『「陰」と「陽」の経済学』
「陰」と「陽」の経済学―我々はどのような不況と戦ってきたのか東洋経済新報社このアイテムの詳細を見る なんとなく気分が変わってもう一度本を物色して歩き、一階の経済書のコーナーでリチャード・クー『「陰」と「陽」の経済学』(東洋経済新報社、2007)を買った。
ぱらぱらと立ち読みしたが、これはなかなか面白い。出た時点ではなんとなく発展著しい中国人が勝ち誇ったような経済書なのではないかという先入観があって(こういう先入観を文字にしてみると実は結構私自身もダークサイドに堕ちているということが分かって嫌だが)読む気にならなかったが、読んでみるとそんなものではなく、90年代の日本の不況についての分析だった。
彼の議論を読んだところまでかいつまんで述べる。この10年の日本の不況は人類がかつて経験したことのない規模の不況で、GNPの3年分の国富が失われたという。アメリカの30年代の大恐慌におけるアメリカの国富の喪失や第二次世界大戦における日本の国富の喪失でもGNPの1年分だと計算している。
この不況の原因はいわゆる経済の構造問題でも銀行の問題でもないという。経済構造の問題というのは、要するに供給側の能力の低下、つまり70年代のアメリカやイギリスの製造業が魅力のない製品しか作れず日本製品等に押されてしまったことを指すのだという。そういえば小泉構造改革の掛け声が盛んだったとき、売れる商品やサービスを作り出せば売れる、という掛け声が確かに盛んだった。しかし、クーによれば、この不況感も日本製品は世界中で売れていたのであり、売れなかったのは国内市場だけなのだから、問題は需要側にあって供給側にあったのではない、と断言する。
また、銀行の問題であるとすれば低金利下で企業は資金を借りまくり、利益の最大化を目指したはずなのにそうしなかった。また、銀行の貸し渋りが原因だとしたら社債をたくさん発行したはずなのにそうもしていない。だから銀行自体に問題がなかったとはいわないにしても、銀行が不況の原因であるということはないという。つまり、国内経済の構造の中で銀行が十分に役割を果たさなかったことが不況の原因ではない、ということなのだろう。
確かに考えてみれば不思議だが、その通りだ。中小企業の倒産には責任があるにしても、社債発行能力がある大企業がそうしていないというのはおかしいだろう。またこの低金利かでも銀行から金を借りることの出来ない個人が消費者金融に走り、消費者金融が銀行から低利で融資を受けて小売で個人に貸し付けたわけだから空前の儲けを上げたのも考えてみれば理の当然だ。資金需要がないところに貸そうとして貸せず、資金需要がある個人客には頼まれても貸さないというのが銀行であったわけでそういう意味では責任が重いといえなくはないが、銀行には個人貸し出しに関するノウハウがないわけで、だからこそ大手消費者金融と銀行の提携という形で銀行も個人客の取り込みに走っているわけだ。そういう話だけ聞くと阿漕だが、考えてみれば彼らは「経営上は」理に適ったことをやっている。ただ、うまくやれなかった運の悪い個人がひどい目にあっていると言うことで、これが誰の責任なのかということは議論はなかなか一致しないだろう。
では何がこの大不況の原因だったのか。クーの議論は以下のようになる。
「…経済には大きく分けて「陰」と「陽」の二つの局面があり、大学で教えている従来の経済学は「陽」の局面を前提にしている。このようの局面では、民間企業は良好な財務基盤を前提に利益の最大化に向かって邁進しており、そのような中でのアダム・スミスの言う「神の見えざる手」は、経済が大きく拡大する方向へと導いてくれる。
ところが…バブルが発生して崩壊すると、経済は陰の局面に入る。この局面下では、バブル期に借金で購入した資産の価値が大幅に下がり、負債だけが残った企業が、その過剰債務を一掃しようと一斉に借金返済に回る。つまり、この局面では企業の経営目標は経済学の大前提である利益の最大化を離れ、債務の最小化に移っているのである。
…多くの企業がいっせいにこの方向へ動き出すと、経済全体では家計の貯蓄分と企業の借金返済分の合計に相当する総需要が失われる。…そうなると、「神の見えざる手」は継続的に縮小均衡へ持っていくように働き、ここから「陰の経済」と言える長期不況が始まるのである。」
この、企業の目標が「利益の最大化でなく債務の最小化」になる、というテーゼはなるほどと思った。借金の返済は何も需要を生み出さない、それが大規模になればなるほど経済の停滞は長引く、というのも非常に説得力がある。つまりは企業のバランスシートの不均衡、財務状態の極度の悪化が不況の原因だったと言うわけである。したがって、財務状態が改善されつつある現在の好況は本物であって、基本的に日本経済は危機を脱した、ということになる。
実はまだ24ページしか読んでいないのだが(笑)、議論の中心は既に読んだ部分にあるようだ。あとはさまざまな実証と、30年代のアメリカの不況も実はこの「陰」の経済状態のバランスシート不況であったと言うことを説明する方向に行くようだ。
もちろん経済学には素人なのでこの議論の評価については学問的な判断は下せないが、常識的に考えると説得力はあるように感じる。政策運営者はこうした知見を生かして、ああいうひどい時代が再び来ることがないようにしてもらえればいいと思う。
まあしかしこういうレベルで経済を考えると、身の回りで起きていることからは見えないことが見えてきて面白いとは思う。ただ、マクロな世界で見るとある意味理の当然のように動いていることでも、ミクロの世界で見ると極めて残酷な現象になってしまうこともまた数多くあると言うことも確かだと改めて思う。経済とか政治とかの大きな世界のみを見ていると見えないものもまたあるわけだ。
ただ、こういうものはダークだと言うよりはある意味明暗を超越した上空からの「鳥の目」を持つようなもので、ある意味非常に面白い。現代の経済学が発達した大きな出発点はアメリカの大不況だったと言うが、日本の大不況からまた新しい経済学が生まれてくればこれは確かにまた面白い。これからの日本は経済の時代と言うより経済学の時代になるかもしれないなと思ってみたり。「経済学はアメリカの方が遙かに進んでいる」と何とかの一つ覚えのようにいう人も多いが、これをきっかけに日本の経済学が発展を遂げ、その経済学の力で再び日本経済を隆盛に持っていければ、大きな犠牲を払った意味もあるのではないかいうクーの論調には、深く共感する。(2007.2.4.)
電車の中ではリチャード・クー『「陰」と「陽」の経済学』を読み進める。議論の大枠が分かったらあとは主に読み物という感じだ。どういうことが議論の論点になっているのかとか、財務省や企業経営者のこの説に対する反応のようなものも書かれていて参考になる。
バランスシート不況下での財政出動の必要性・重要性というものはこの本を読んでいるとよくわかるのだが、公共事業による景気振興というのがなぜ現在のように悪玉視されているかというと、結局は悪代官(自民党の政治家)と悪徳商人(ゼネコン)などが土建屋(土木建設業者)やヤクザ(民事介入暴力)を使って阿漕な真似をしているという「絵」が繰り返し繰り返しマスコミによって描かれてきたということがあるのだと思う。財政出動推進派はそういう意味で悪代官や悪徳商人に金によって誑かされているというイメージが生じがちで、福田派系の財政再建論が水戸黄門的な世直しイメージを持って語られることになるわけだ。この絵にはもちろん一面の真実はあるのだろうけど(そんな闇の中の世界についてあまり知る立場にない)、ある意味阿漕にやればやるほど景気は立ち直る、という部分もあるところが悩ましいということなんだろう。確かに日本独自の問題として経済からそういう部分を払拭していく必要はあるし、それはある程度はどんな国にでもあるのだろう。裏経済が表経済に悪影響を与えるほどになる状態は改善する必要がある。(2007.2.5.)
昼食を済ませて銀行と郵便局で用事を済ませ、新宿に出かける。最近家にいる時間はやることがありすぎて本を読めないので電車に乗っている時間がかなり貴重な読書時間だ。リチャード・クー『「陰」と「陽」の経済学』を読み進める。谷垣元財務相が総裁選で提起した消費税の福祉目的税化を評価していてへえと思う。「消費税=福祉」と国民が認識することによって福祉政策の総量と消費税の税率についてバーターして考える思考が国民に定着することの意義を説く。このくらいの負担感でこのくらいの受益、ということだろう。道路特定財源の一般財源化については反対している。アジア諸国の中でも日本の道路整備は遅れていて、その陸運コストの高さが国際競争力に悪影響を及ぼしているというのだ。それについては知らなかったのでへえと思った。中国より整備が遅れてるって、本当だろうか、と思ってしまうけど。
「バランスシート不況」というコンセプトの説明が90年代不況の原因解明とともにもうひとつの大きなこの本の主目的なのだが、それを1930年代アメリカの大不況の実例を挙げて説明している。フリードマンなどの金融政策万能論の批判が目的なのだが、フリードマン自身が自分の理論にあわない現場の報告・提案に対し「無能」だの何だのとレッテルを貼って切って捨てているということを知り、なるほど経済学のケンカ腰というのは御大の時代からずっとそうなのだということを知る。あるいは極めてアメリカ的な学問ということか。クーの理論はケインジアン、新古典派双方の批判になるからかなりもまれることになると思うが、基本的に説得力があるし正しいと思う。経済学の教科書を否定することはなかなか大変ではあるが、実績によって証明していくしかないんだろう。アメリカ人は懲りないと分からない、というのはまあその通りだよなあとはおもうが、イラク戦争などを見るにつけても面倒な人たちだなあとは思う。(2007.2.6.)
特急の中でクー『「陰」と「陽」の経済学』を読みつづける。昨日読んだところはマネタリスト批判という感じ。まあ歴史理論もなかなかいつも論争の的であるように、経済理論というのも論争が活発なんだなと思うし、まだその程度のことしかわかっていないんだと新鮮な驚きもある。経済というものの状態は確かに常に変化しているし、新たな現象が起こればそれにあわせてまた理論を構築しなければならないわけで、資本主義が起こってからもまだ200年くらい、大衆化やグローバル化が起こってからはまだそう日数が経っていないわけで、わからないことが多いのもまあ当たり前なんだろう。刻々と変化しつつある経済という化け物をいかに飼い馴らすかということが経済学の目標なんだろうけど、テキもそう簡単に飼い馴らされるものではない、ということらしい。猛獣の檻の中で何とかけだものを飼いならそうとしている政策担当者たちに檻の外であれこれ言っている人たち、が経済学者だという感があるが、その人たちもときどきは檻の中に入る破目になるわけで、まあ噛まれたりしてけっこう大変ではある。でもまあ面白そうではあるけれど。
不動産価格の決定にかかるDCF(収益還元価格)法の説明がなるほどと思ったが、これは『金持ち父さん』の説明の方が実際的な感じがした。学者と実業家の違いか。ただこの本のほうが全体が見通せた感じになる。それが学問の力ではある。逆にいえば全体が見通せないなら、学問なんて存在価値がないんだよな。
政府の財政出動に関して、ケインズ説が強調するのは財政出動による総需要の喚起にあるわけだけど、クーがいうのはそれだけではなく、資金の「最後の借り手」としての、デフレスパイラルを最後に食い止める「堤防」としての政府の役割というところを強調している。総需要の喚起のための財政出動は当然財政赤字を大幅に拡大させるわけで、そこがケインズ説の弱点であり、マネタリストの批判を招く大きな原因であったわけだけど、クーは財政出動に「信用創造の最後の護持者」としての役割を再評価しているわけだ。これはなるほどと思うし、理論的にも興奮を覚えるところではないかと思うのだがどうなんですか。(2007.2.7.)
あとはクー『「陰」と「陽」の経済学』の読み進め。第6章、日本国内におけるバランスシート不況論批判への反論のところを読んでいる。クルーグマンがクーとの対談(『文藝春秋』1999年1月号)で、金融政策だけで状況に対処しようとするなら年率200-300パーセントのインフレになるというクーに対し、「だから現在の日本でも、200-300パーセントのインフレが必要なのです」と瞬時に答えたというエピソードには唖然とさせられた。日本の経済を終戦直後のような混乱に陥れることが必要だなどと言い放つ「経済学者」が存在するということは一般の我々も覚えておいた方がいいと思う。マッドサイエンティストはいわゆる科学の分野にのみ存在するのではないのかもしれない。こんな人間がもし経済政策を握る立場になっていたらと思うと恐ろしい。少なくとも日本でそういう実験はしないで貰いたい。経済学者にも常識的な視点があるべきだろう。ラディカルであればいいというものではない。
って、書いてきて思ったが、私は「暗くてラディカルなもの」より「明るくて常識的なもの」の方が圧倒的に好きなんだな。ジョン・レノンよりポール・マッカートニーが、ヘミングウェイよりフィッツジェラルドが、ドストエフスキーよりプーシキンが好きなのとそのあたりは同じことなんだなと思った。しかし世間というものは案外「暗くてラディカルなもの」を好むので、時に世の中がひっくり返ったりする。世の中にそういうある種の「リセット願望」が高まるとそういうリセットが起こるのだろう。それより前向きに積み上げていく方が私の趣味だな。株価が少しずつ堅調に上がっていって、あるとき一気に下落する、みたいな感じにどうも世の中というものはなっているようだ。上がるのはゆっくりだが下がるのは早い。(2007.2.9.)
特急の中ではリチャード・クー『「陰」と「陽」の経済学』を読み進める。「経済学者の世界」というのが分かってある意味面白い。自分の学説が不適当だということが分かってもなかなかそれを認められないのは、大学で学生に教えていたことを否定することになるからだ、という指摘はなるほどそういうものか、と腑に落ちた。普通の、というか私の考えている学問のイメージだと新しい事実、新しい心理、新しい証明が発見されたら今までの学説に変更を迫られることは当たり前だと思うし、認めていかざるを得ないものだと思う。しかし経済学は少なくともそういうものではないらしい。(もちろんそういう態度を取る人はどの分野にでもいるが)
経済学というのは政策科学であるから、その金融政策・財政政策が政府によって実施されると巨大な影響力を持つ。だから一度やったことを間違っていたと認めることが困難だということはあるだろう。実効力のない学説は結局は見捨てられていくわけで、マルクス経済学の失墜など経済学の世界での栄枯盛衰は確かに激しい。特に学者の世界では学閥というものもあるわけだし、一度ある学者の学説が間違っているということになってしまったらその弟子たちも「職が危ない」ということになる。学派が団結して他の学派と艦砲射撃の打ち合いのような論戦になるのもある意味そんなところなんだろうと思う。
そういう意味ではマルクス主義でなくても、経済学説というのは教条(ドグマ)であるということなのだ。確かに「こうすれば経済は良くなる!」という「学説」は「こうすれば儲かる!」というのとある意味似ている。絶対的な経済学というものが存在しない以上(もし存在するなら経済問題など起きないはずだ)、やってみてうまく行くか行かないかしかない。
そういう点は医学と似ているな、と思う。ただ医学の場合は、どんどん新しい方法論や技術が開発されて日進月歩の様相だから、昨日までの「正しい方法」が今日は既に古くなっているということに一線の医師はあまり抵抗がないのではないかと思う。経済学もそんなふうに身軽にやれればいいのだが、事例がたくさんある医学と国家の数しかあり得ようのないマクロ経済学とでは、また人類の発生とともに、ある種の体系化を経てからも数千年の歴史がある医学と資本主義の発生以来まだ数百年の歴史しかない経済学とではそんな簡単な比較は出来ないのだけれども。
p.292以降の石油価格とドルの関係というのもなるほどと非常に腑に落ちたのだが、石油の国際価格はドルで取引されているので、極端なことを言えばアメリカはドル紙幣を印刷すれば石油が買えるのだ。だから逆にアメリカはドルの価値を維持することに神経を使う必要がある。もしドルが暴落するようなことがあれば産油国は大損害なので、そうなったら取引通貨をたとえばユーロに変更するかもしれない。もしそうなったら、アメリカは石油を輸出するためにはドルを大量にユーロに両替せねばならず、そうなればユーロは暴騰、ドルは暴落ということになる。アメリカは現在の石油取引において非常に有利な地位を持っているのだということがよくわかったが、逆に言えばその地位を失うとアメリカは危機に陥る。石油価格の安いアメリカでは一般国民の生活が安い石油価格によって支えられているからだ。それは政治的にも非常に深刻な影響を持つことになる。
考えてみれば当たり前のことだが、アメリカにとって石油の持つ政治的経済的な意味は深刻なのだ。もちろん日本だってそうだけれども、「ドル=石油関係というアキレス腱」(クー)を持つ深刻さはアメリカの方が上だろう。彼らの石油に関する異常な関心の強さはただ石油メジャーの儲け主義というだけではないのだ。
これまでの日本の発展のモデルというのは「いい物を作ってアメリカで売る」ということであり、台湾や韓国、そして中国も結局そのモデルで発展しているわけで、市場や消費に関しては完全にアメリカ頼みであることは間違いない。そのモデルがもう有効ではなくなりつつあるのではないかというクーの指摘は、やはり考えておかなければならないことだろう。そのほか中国の経済官僚の優秀さの話とか、現在はドイツが世界最大の貿易黒字国になっていることとか、面白いと感じたところはたくさんあった。読了。(2007.2.10.)