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入江相政『いくたびの春』

いくたびの春―宮廷五十年 (1981年)

ティビーエス・ブリタニカ

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小宮山書店のガレージセールをのぞいた。何冊か本を見ているうちに昭和天皇の侍従長だった入江相政の回想記を見つけ、読んでいるうちに面白くなったので買うことにした。(11.27.)

入江相政『いくたびの春』(TBSブリタニカ、1981)を読み始める。昭和天皇の侍従を長く務め、最後には侍従長を務めた著者は、学習院の高等部を出たあと東大の国文に入り、『狭衣物語』を専攻して学習院に奉職、昭和8年には教授になったが昭和9年には侍従として宮中に入ったのだという。実家の爵位については書いていないが華族であることは間違いなく、入江家は冷泉家の分家筋なのだという。著者の父も冷泉家から養子に入っている。

大正・昭和前期の華族社会・学習院界隈の話はどれを読んでも面白いなあと思う。貴族社会に最も近いものが、日本にもあった時代があった。犬養道子の『ある歴史の娘』でもそうだし、華族赤化事件を描いた『侯爵家の令嬢』だったか、書名はあいまいだが、そのあたりの話も面白かった。この時代の華族の若者たちはみな能天気で明るく、変ないたずらをしたり育ちのよい人たちの屈託ない社会、という感じの描かれ方をしている。そこにマルクス主義の問題意識を突きつけられたら、ころっと参ってしまう人たちもたくさんいただろうなあと思うくらいは純粋だ。

入江も、学習院の教授として弟のような生徒たちとずっと古典を講読して行ければよい、と思っていたというが、この当たり、昔はそういうタイプの先生たちがたくさんいたなあと思う。私も教員になったのはそういう教師像が頭にあったからなのだが、時代はそういうものの存在を許さない方向に変化してしまった。そういう意味で言うと、ある面人間社会というのは退化しているのだと思う。

描かれているエピソードはどれも面白いが、侍従として天皇の名代で各地に派遣されるときに周りの扱いと、母や妻を疎開させてその疎開先から娘を学習院の疎開先に連れて行くときの肩身の狭い思いとのギャップがすごいなと思う。もちろん明治人らしい謙譲や言わずもがなのことは言わない口の堅さのようなものがあるからかかれていないことももちろん相当たくさんあるのだろうということは思わせるが、しかしそれでもかなりいろいろなことがかかれていて、非常に興味深いことは多い。特に宮中の内部、侍従たちの様子についてかかれた文章などあまり読んだことがないから、そのあたりは読んでいて非常に興味深いと思った。もちろん文字通り墓まで持っていってしまった話はいくらでもあるだろうけれども。未読了。(12.2.)

入江相政『いくたびの春』を読み続けるが、基本的に切れ切れのエッセイなので、一つ一つのエピソードが面白いということはあっても、全体としてどうか、ということはいいにくい。ただ、昔の人は腹が座っているなあ、とか昔の人はユーモアがあるなあ、とか昔の人は余裕があるなあ、とかまあそういうことは感じる。つまり今の人は腹が座っておらず、ユーモアに欠け、余裕がないということだが、テレビで堀江被告などを見ていると昔の人と々日本人だとは思えないなあと思う。だから新人類という言葉が生まれたんだが、本当に人種が違う感じがする。(12.3.)

入江相政『いくたびの春』を少しずつ読む。もう少しで読了なのだが、最後のほうは漫談調になっていて短くいろいろなことが書いてあり、一つ一つが気が利いていて面白いのだが、一気に読むようなリズムが出ない。ずいぶん洒脱な人ではあるが、やはり公家さんのおおどかさがあるということだろう。

読んでいてちょっと驚いたのは、戦後、揮毫を頼まれて、戦災ですべて焼けてしまったときのことを「硯も無ければ筆もなく、紙もなければ文鎮もと、林子平のような境遇になっていたが、」と書いている件である。これは林子平の「家もなく妻なく子なく版木なし、金も無けれど死にたくもなし」という狂歌(記憶のため不確か)のことを言っているわけだが、この狂歌を知っていたんだ、と思ったのだ。私はこれは『風雲児たち』と言うマンガで読んだのだが、狂歌といえば蜀山人くらいしか知らなかったから、『海国兵談』の林子平がそんな歌を残しているということが意外だったのだ。まあ昔はけっこう有名な歌だったのかもしれないのだが、やっぱり昔の人の教養はすごいなと改めて思ったのだった。ちなみに私が好きな林子平の句(川柳)は幕府に逮捕されて江戸表に護送されるときに詠んだという設定にマンガではなっていた「この首(こうべ)とぶかとばぬか明けの春」である。

もうひとつへえと思ったのは長唄に凝っていたという話で、入江が歌詞を書いて曲をつけてもらった長唄が紹介されていて、「役をやめたら書いてみるか」と言っていたことだ。公家さん出身の侍従長が長唄にこっていると言うのはへえと思うような江戸趣味で、意外な取り合わせと言う感じだ。入江の曽祖父は宇和島藩主の伊達宗城で、宗城はもともと江戸の旗本出身だし、その娘、つまり入江の祖母は全く江戸趣味の人だったらしい。もちろん公家らしく謡もやっているのだが、その出来は友人に聞かせてやろうとしたら「生まれてこの方おまえの謡をきかなければならないほどの悪いことはした覚えがない」といわれるほどだったらしい。(もちろんこのあたりはある種の韜晦ではあろうが。)趣味人、とか洒脱、という言葉が実に当てはまる人だと思う。(12.6.)

入江相政『いくたびの春』読了。今までもいろいろ書いたので特に新しいこともないけれども、ざっくばらんでそれでいて教養があり、気が利いていて蛮勇も奮える、といういわゆる「オールドリベラリスト」の肖像を見ているかのようだ。実際には宮中で文字にはできないようなこともたくさんあったにはちがいないが、そういうことはすべて腹の中に納めて読者が楽しめるようにいろいろ書いている。こういうスタイルが昔の「大人の男」というものだったんだよなあと思う。

いろいろなサイトを見ていて、「教養」ということについて少し考えた。ここ暫くずっと「専門」指向が強かったが、最近一部で「教養」への回帰というか、教養指向が学生の間で強くなってきているという話だ。入江の本など読んでいるとまさに教養のかたまりで、「狭衣物語」が専門だといっても、まさに教養の範囲内でそれを深めたというものだろう。教養とは「生き延びる力」だ、と誰かが書いていたが、それはそうだろうと思う。専門はとにかく飯を食うのに必要なものだが、そのために人間はかなり偏りのある存在にならざるをえない。専門指向の強い時代は私のような人間は肩身が狭く、まあいろいろなものを専門のような振りをして過ごしていたが、また教養が重んじられる時代にバックしていくと私のような人間にはありがたい。教養というと聞こえがいいが、つまりはいつまでもひとつのことに熱中していられない性格で、どれもこれもそこそこ、というようなものだ。

ただ、これだけ専門分化の進んだ世の中になると、結局各専門家間をいかに結びつけ、コーディネートするか、段取りをつけるか、というようなことが重要になってくると思う。そうするとインター専門というか、どちらもある程度理解している、つまり「常識」や「教養」がその場合にはポイントになるだろうと思う。専門家というものは基本的にわがままなのでその間の調整というのはけっこう大変だが、それをコーディネートしていく存在がなければ、役所のようにセクショナリズムと縦割りの弊害で苦しむことになる。そういう役回りの重要性と価値を、もっと正当に評価して行かなければならないと思う。

そしてこういうことは思うに、英米人は得意とし、日本人は苦手とするようなことではないかという気がする。

実際、各専門家間の言葉の通じなさ加減といったらすごい。全く理解不能な世界観を持っている人も多くあるので困ってしまうのだが、それは結局は人文主義的な教養の不足に由来するものなんだろうなあと思う。もちろん人文慶の人ももっと自然科学系の教養に配慮すべきなのだが、各専門によって世界観が異なってきたりお互いに理解不能な哲学を持ったりするようになると、人類という種の危機ですらあるんじゃないかという気がするなあ。

まあいろいろな意味で、教養の復権というのは急務だし、もしそれが回復の兆しがあるのなら、喜ばしいことだと思う。(12.7.)

  

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