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福田和也『福田和也の「文章教室」』

福田和也の「文章教室」

講談社

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夜になってから町に出かけ、駅前の本屋で福田和也『福田和也の「文章教室」』(講談社、2006)を買う。作家志望の人のための小説案内という感じで、なかなか面白い。福田という人が実は繊細なセンスの持ち主だということがよくわかる。

福田は日本の文芸評論家の中で数少ない村上春樹を高評価する人なのだが、村上について一言で言ってしまえば愛とか恋とか魂とか懐かしさになってしまうけれども、いまだ名づけようのない、「なぜかはわからないままに涙が出てくる」、「超越的な」感情を表すのがうまい、と述べていて、なるほどうまいことを言うなあと思った。「愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない/決して負けない強い力を僕は一つだけ持つ」というのはブルーハーツの『リンダ・リンダ』だし、「かたじけなさに涙こぼるる」といえば西行だが、そういった感情というのはユニバーサルなもので、確かに村上はそれを描くことに成功しているし、日本の批評家の多くはそれをとらえることに失敗している、と思う。こういう感じ、というもののうち日本ローカルなものを描く人もそうはいないけど、まだわかりやすいと思うが、村上の描くものはもっと世界に開かれている感じがする。イシグロやル・クレジオ、クッツェーといった最近読んだ文学者にもそういうものを感じる部分があるし、そういうものがある作品が私は好きだなと思う。

ただこういうものはあまり生々しいと食あたりを起こす感があり、実は結構村上はこういう部分に関しては生々しいと思うのだが、それは福田が述べているように「大切な人を自殺に追い込んだ世界」、「ある種の人間の内部にある汚さ、邪さ」を持つ「世界に挑戦するために小説という武器を磨いている」という動機がかなり明確に現れているからだろうと思う。そういう意味では村上はかなり自覚的な「精神の革命運動家」なのだ。

私などは村上が否定しようとしている「汚さ、邪さ」を持つ人物と設定されがちな「旧日本軍人」とか「警備員」とか「警察」とかいう人たちがそういうステロタイプで攻撃されることへの憤りのようなものを逆に持っているので、『スプートニクの恋人』などもそういうシーンはちょっとなあ、と思ったのだが、まあ矛先はステロタイプに過ぎるにしても言いたいことはわからなくはない、とは思う。こういうことが読み込めるというのはやはり福田が日本文学に偏らず相当幅広く読んでいるということの証左でもあるし、私は改めてこの批評家を見直した。

そのほか、江国香織や川上弘美、柳美里など私の読まない種類の作家の魅力もうまく現してくれてあって、読んでみようかなという気にさせる。この人、仕事の手を広げすぎだが、こういうジャンルに限れば現代の日本の文壇では圧倒的な筆力を持っているのではないかという気がする。読みかけ。(8.21.)

昨日はやはり調子が悪く、特に歯茎の裏の腫れが気になってあまり何もできなかった。『福田和也の「文章教室」』読了。いろいろな小説やエッセイ、書評、自身の取材記録などが書かれ、なかなか面白いし勉強になるところが多かった。我々の世代の評論家は大学の先生でもあることが多いので結構そういう教育的な仕事も多く、それはそれでそれなりに面白い。

夕方、とにかくと思い気散じに出かけ、丸の内の丸善で本を見る。「文章教室」で取り上げられたいたものを二冊買う。村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫、2002)と三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫、1960)。『金閣寺』は持っているかもしれないと危ぶんだが、持っていなかった。オアゾの地下で弁当を買って帰る。(8.22.)

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