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春日武彦『不幸になりたがる人たち』

不幸になりたがる人たち―自虐指向と破滅願望

文藝春秋

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きのうは少しむしゃくしゃして本を探していたら中島義道の何とか言う本と春日武彦『不幸になりたがる人たち』(文春新書)が目について、考えた結果『不幸になりたがる人たち』を買った。そのあとで銀座のくまざわ書店に出て、そこでは『誰が本を殺したか』を立ち読みしたがこれも面白そうだった。

『不幸になりたがる人たち』、というのはいわゆる「奇人」「変わった人たち」について精神科の医師である著者がさまざまな観点から書いた本で、この書いた方もけっこう変わっているとは思ったが、まずまず面白く読めた。

何を話し掛けても「ああ、そうですか」と答える人など、町で時々見かけるけれども何を考えているのかさっぱりわからなくてこちらの方が変な気持ちがしてきてしまう、そういった人の例が出ているが、これに近い人は、私が教員をしているころ相手にした人たちの中にもけっこうある。一種の防衛機制なのだろうけど、何を言っても感情なしに「ああ、そうですか」といわれるとついこちらもよけいな邪推が働いてしまったりする。

また、「自虐指向と破滅願望」と副題がついているが、自分で事故を呼び込んでしまうタイプの人とか、わざと破滅的なことをしてしまうタイプの人とか、そういう人の例も出てくる。

あんまり辛すぎて発狂する、という話が小説などには出てくるが、生きていられないほど辛くなることに対する防衛として発狂する、「より大きな不幸を未然に防ぐべく、差しあたって小さな不幸を自ら引き起こして事態を収めようといった心の働き」というのは分かるような気がする。

つまり、周りから見るとなんで自らをそんなひどい目に合わせてしまうような行動をとったり、そういう衝動を持っていたりする場合でも、自らはいわば「生きるために必死になって」常識を超えた行動をしてしまうということなのだろうと思う。

この本を読みながら、ここに書いてあることは、つまりは岡潔の言うところの「生きようとする盲目的な意志=無明」がかえってその人を不幸に追い込んでいる、ということのかなり極端なバリエーションなのではないかと思った。

仏教で無明というときには盲目的な愛欲とかをさすことが多いが、私自身が持っている無明のイメージはむしろこうしたやや非常識なものの方に近い。どちらにしても自分自身をある固定した角度からでなく、別の角度から客観的に見られなくなってしまったときにこうした無明に陥る状態が現出してしまうのだろう。

生きるためには、死ななくてはならない、というと極端だが、生きるためには、いやな局面も避けて通ることはできない、ということは確かだろう。しかし人間というのはいやなものはいやなわけで、それを避けるために無数の理屈を考え出す。そしてよりいやでない、ちょっといやなことを我慢することによっていやなことをやり過ごそう、という考えはどうしても出てきがちである。

私自身にもよくあることだが、いやなことを避けるために妙なことを考えてしまうことが多い。もともとのいやなことを乗り切るための方策といった前向きなほうに心が動くまでにはけっこう時間がかかることもある。まあしかし何とか前向きのほうに切り替えることによって乗り切っていくしかない訳だから、曲がりなりにもそうやって、自分では問題を解決したつもりになっていくわけである。

しかし乗り切れない大きな問題を何年もかけて迂回してようやくヒントをつかむ場合もあるわけで、そんな巨大な問題にぶつかったとき、乗り切らなくては、という「あせり」と乗りきれない、という「諦め」が強力に襲ってきたりすると、破れかぶれで破滅的な行動にでることは自分でもありえないことではないな、と思ってしまうところもあるのである。

その行為は徹底的に絶望的な行動ではなく、どんなに非常識なものであってもほんの少しだけ「希望の持てる」行動であるというところに人間というものの悲しさがある。「絶望は人を殺さない、でも希望は人を殺す」という言葉を思い出す。

***

「人間にとって精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」の三つに過ぎない」、というのも興味深い。こだわりとかプライドとかにはいままでも引っかかりまくっているが、被害者意識、といのはどうかなと思って読み進めると、被害者意識は「敵」と「特権」を求めてやまない、という話が出てきてこれもわかりやすいなあ、と思った。

私などは今でも新聞を読んでて腹を立てることが多いのだが、そういう時は「敵」を意識しているときが多い。敵を持ってる、という気持ちがあるときはたぶん被害者意識に陥っているのだなと見当をつけることができる、という点で、ちょっとこれは勉強になったなと思った。

そういうときはだいたい自分の考えが正義と思い込んでいるわけで、「正義が侵害された」ことに対して非常に怒りを、まあそこまでいっていいかどうかはわからないが被害者意識を覚え、敵を打倒し、正義を回復、享受するという特権を求めているわけである。

まあしかし実際には腹を立てたほうが負け、というのが世間の鉄則な訳で、よっぽどの権力者か周りがよっぽどの無気力状態でなければ自分の意志をごり押しすることは不可能なわけである。しかしそこらへんのところが自分でも変なのだけど、腹を立てないと負けなのではないか、と思ってしまうところがあるのである。

それはおそらく私がじっくり考えてからでないとものをいえない性分なので、考えているうちに主導権を握られるのをおそれ、的確な一撃よりも強い一撃を与えたい、と思うばっかりに相手の挑発に乗って感情的な攻撃に出てしまうからだと思う。そしてそれをやっているうちに、こちらの心がどんどん狭くなってきて、何を見ても許せなくなってきてしまう。そうした「頑なの病」というのは自分をも傷つけるらしく、それで本当に体を壊してしまったこともある。

腹を立てたって問題は解決しないわけで、強い一撃よりも的確な一撃を与えることに心を絞らなければならないと思う。ぐずぐずはしていられないが、かといってあせったってだめなわけで、それを乗り切っていくのが修行というものなのだろう。(2001.5.17.)

  

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