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勝海舟『氷川清話』

氷川清話

講談社

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松浦・江藤編『氷川清話』(講談社学術文庫)を読んでいる。松平上総介、という人名について、勝海舟から聞き取りを行って吉本襄が編集した当初の本では松平上総守、ということになっているが、これはありえない、上総介の誤りである、というようなことが書いてあった。

少し考えてみたが、これは親王任国(国主は親王が任命されることに決まっている)のことを言っているのだな、と思いwebで少し調べてみたら、どうもそのようだった。上総、上野、常陸の三国は826年以後、親王のみが国司に任命される(従ってこの三国は国司とは言わず、太守というらしい。実際に下向することはない。)ことになっているそうである。

しかし親王でもないのに上総守、とか常陸守と称するケースはちょくちょくある。たとえば源氏物語でも常陸守と称する人物が「関屋」の巻に出て来る。空蝉という女性の夫である。谷崎訳の注によると、「介」が事実上の国主なので、俗には「守」ということもあるということであった。ほかならぬ受領階級の娘の紫式部がそんなことを知らなかったとは考えにくいので、実際には広く使われた言い方だったのだろう。

また戦国時代から江戸時代の初期にかけても、上総守と称する人物はけっこういる。もちろんすべて自称だろうが、織田信長も上総守と自書している文書が一つだけあるという。他の文書では上総介としているが。この解釈は難しいが、誤記か指摘を受けてそれ以後直したか、どちらかなのだろう。司馬遼太郎は「ものしりに注意されて」といっている。(「街道を行く」33巻)

江戸時代になると、従五位に叙された大名・旗本は朝廷から官職を(名目に過ぎないが)受けるわけで、当然「上総守」はなくなることになるだろう。江戸時代などは社会が安定しているし、逆にこうした有職故実が幅を利かす時代なのだろうなと思う。

「上野介」などはむしろ他の「守」よりも高位であったようで、あの吉良上野介は従四位上だった。ちなみに勝海舟は従五位下安房守である。そういえば戊辰戦争のとき幕臣で処刑された小栗忠順も「上野介」だった。

明治維新とともに律令制の官職も廃止されるから、上総守という呼称はありえない、という知識は吉本襄にはなかったのかもしれない。

慣例を重んじる社会では、こういう知識が重要なもので、へたに上総守、などと称するとそこら中からいなかもの、と嘲笑を浴びたのではないかという気がする。身分制社会というのは案外こういうどうでもいいところにいろいろな罠が仕掛けてあって、いなかものを萎縮させたのではないかという気がする。

こういう繁文縟礼の世界を打ち破るのは内側からは無理なわけで、戦国時代や幕末などの変革期にのみ、こういう慣例とはかけ離れたところにいる「いなかもの」や「異国人」の手によってようやく打ち破られるのだろうなと思った。

そうしてみると、いまや役人の世界の繁文縟礼などというものはけっこうやばい状態になっているなあと思う。「外圧」やアウトサイダーによってしか打ち破れないのはむしろそうした理由によるのかもしれないと思う。

実際役所の文章でも、「○○および□□等について」、という文章だったら普通○○と□□のことしか考えないと思うのだが、この「等」というところにけっこう重大なものが潜んでいたりするのである。そしてそれはどこにも書いてなかったりする。この「等」を解読するのに大の男が何人もかかって議論したり、頭を下げて馬鹿にされながら役人に教えを乞うたりする、ということがある。官僚支配を守る仕組みはこんなところにもあるのだなと思う。

内部にいるとそんなものを遵守しなければいけないので馬鹿馬鹿しいが、「外圧」だったら簡単に一蹴できる。全くあほらしい仕組みである。

話がそうとうずれた。

***

しかし、子母沢寛『勝海舟』によると維新後静岡に移った徳川家が沼津に兵学校を開き、旗本御家人の子弟を集めて教育を行うために試験をしたところ、あまりに学問がなく、幕府高官の名前、たとえば酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)を読めたものは半分、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)も読めず、安禄山は中国の山で富士山より高い、と言い出す始末で、奉行の阿部邦之介は「幕府が滅びたわけがわかった」と言ったという。

むしろ現代日本と共通した問題点はこちらのほうかもしれない。(2001.5.24.)

  海舟『氷川清話』を読了。子母沢寛『勝海舟』と『氷川清話』を続けて読んだわけだ。『氷川清話』はずいぶん記憶違いとかいい加減なことを言っているところが多くて、政治家の放談というものはなるほどこういうのが原点か、という感じだったが、やはり江戸っ子の口吻が残っているのは魅力的である。

これらを読んで、江戸時代はあんまり学問が要求される社会ではなかったのだと改めて思った。江戸時代は基本的に門閥社会で、政治の「力量」のようなものは要求されても「学問」は必ずしも出世には必要ではなかったのだと改めて感じたのだ。勝海舟のような人が学問を武器に(彼は学問だけではないが)出世するようになった第一世代なのだ、と思った。

門閥社会が崩れ、藩閥の時代になり、やがてそれも崩れると学歴社会になる。学歴社会というのはいまだ崩れそうな感じはせず、なかなかしぶとい。

学問を武器に汲々と出世をはかる時代と、のんびりとした悠揚迫らざる人格者が政治を取る時代と、その部分だけ見るとなかなかその対照は示唆的でもある。(5.25.)

  

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