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古田博司『東アジア・イデオロギーを超えて』

東アジア・イデオロギーを超えて

新書館

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古田博司『東アジア・イデオロギーを超えて』読書中。中国・韓国の中華思想の分析については非常に面白いのだが、日本の政治思想の分析には偏ったものを感じてしまう。ただ、それはもう政治的スタンスに由来するとしか考えようがないので頭の中で理論闘争を展開しつつ読み続けている。こういう読書は疲れるが、こういう作業が今まで不足していたことも事実だなと感じている。

この中で中国・韓国と日本はそれぞれが「排外的な中華思想」を分有していたと見るが、現在の日本と両国の違いは丸山真男の言うところの「ナショナリズムの処女性」の違いから来るという嫌らしい議論がある。つまり、日本は維新から敗戦までの過程でナショナリズムの「勃興・爛熟・没落のサイクルを一応完結し」て処女性を喪失した、というわけである。比喩の用い方は現在のサヨク方面の方々からはクレームがつきそうだが、私はそれよりもナショナリズムと「処女性」には共通点がある、ということ自体が面白く感じられた。

つまり、現代日本においては「ナショナリズムと処女性は邪魔なもの」なのである。つまり、性交渉をそう求めているわけではなくても処女性を維持していること自体が特定の思想(あるいは事情)を持っていると見られてしまって「重い」と感じられるということである。

裏返して言えば、本来処女性、あるいは童貞性を尊重するのは「純潔の矜持」から来るものであり、日本ではそうした矜持自体が「重い」と感じられているわけである。藤原新也氏のサイトの写真で女子高生の「矜持ゼロ」を誇示している写真にそれが現れているが、この写真に「日本をあきらめない」と題をつけたセンスで私は藤原氏を見直した。ナショナリズムというのも本来ある国家の国民であることの矜持のことであると私は思うから、「国民としての矜持」を重く感じる国民性と処女性を重く感じる国民性は同じ病巣から発していることは明らかだと思うのである。(9.27.)

古田博司『東アジア・イデオロギーを超えて』読書中。中国・韓国の中華思想の分析については非常に面白いのだが、日本の政治思想の分析には偏ったものを感じてしまう。ただ、それはもう政治的スタンスに由来するとしか考えようがないので頭の中で理論闘争を展開しつつ読み続けている。こういう読書は疲れるが、こういう作業が今まで不足していたことも事実だなと感じている。

この中で中国・韓国と日本はそれぞれが「排外的な中華思想」を分有していたと見るが、現在の日本と両国の違いは丸山真男の言うところの「ナショナリズムの処女性」の違いから来るという嫌らしい議論がある。つまり、日本は維新から敗戦までの過程でナショナリズムの「勃興・爛熟・没落のサイクルを一応完結し」て処女性を喪失した、というわけである。比喩の用い方は現在のサヨク方面の方々からはクレームがつきそうだが、私はそれよりもナショナリズムと「処女性」には共通点がある、ということ自体が面白く感じられた。

つまり、現代日本においては「ナショナリズムと処女性は邪魔なもの」なのである。つまり、性交渉をそう求めているわけではなくても処女性を維持していること自体が特定の思想(あるいは事情)を持っていると見られてしまって「重い」と感じられるということである。

裏返して言えば、本来処女性、あるいは童貞性を尊重するのは「純潔の矜持」から来るものであり、日本ではそうした矜持自体が「重い」と感じられているわけである。藤原新也氏のサイトの写真で女子高生の「矜持ゼロ」を誇示している写真にそれが現れているが、この写真に「日本をあきらめない」と題をつけたセンスで私は藤原氏を見直した。ナショナリズムというのも本来ある国家の国民であることの矜持のことであると私は思うから、「国民としての矜持」を重く感じる国民性と処女性を重く感じる国民性は同じ病巣から発していることは明らかだと思うのである。

『東アジア・イデオロギーを超えて』も読み進めた。いろいろ啓発されるところも多いのだが、疑問もいくつかある。韓国人は日本民族を倭族と読んでいるようだが、そういう文脈ではないところでも日本民族を倭族と表現している個所があり、あまりいい感じがしない。倭はもともと否定的な文脈で用いられた古語であるし、それを敢えて現代政治思想の文脈で用いるのは何か意図があるのだろうか。もう一つは江戸時代に日本版の中華思想とも言うべき皇国思想の高まりとともに中国を蔑視するようになり、中国を表現するのに「支那」という侮蔑語が用いられるようになった、というくだりである。「支那」はもともと始皇帝の「秦」に由来する「シナ」という言葉の当て字で英語のチャイナなどと同起源のはずだ。現代でもsina.netなど中国人自身が用いている。「支那」がなぜ侮りの意味があるのか、アプリオリにそう言われると疑問を覚える。

ドイツ起源の国家有機体論が日本に受け入れられるとき、その比喩を比喩として受け取ると人体の諸器官が国家の諸機関にあたるということになり、また国家に法的な人格が与えられて国家法人説が出、また国家の脳髄たる機関が天皇であり、天皇機関説が出てくるという説明は非常に明晰だ。また国家の中枢部のメンバーを「首脳」と呼ぶのも実はそうした国家有機体説に由来しているのだということがわかる。一方で国家を有機体そのものであると、比喩でなく事実として受け止めた結果が日本国家は天皇を族父とする家族であるとする思想で、これが後に国体論に発展していくという説明も非常にわかりやすかった。そのことの当否を判断するだけの材料がないのでお説を拝聴するという以外にはないが、なるほどとは思わされる。

また1987年以降、北朝鮮でこうした国家有機体論がさらに発展したかたちで採用され、「社会政治的生命体の中心である首領との血縁的連係」であるとか「父なる首領さまから永生の政治的生命をいただき」という思想教育が徹底していったという過程は興味深い。著者はこれを日本の国体思想を採用したものだと見ているが、そうかもしれない。金日成死去の時のあの嘆きの表現が天皇制の名残から来るという議論を読み、私自身もそう感じたので当時ロシアを研究していた若い友人にそういう感想を漏らしたところ、そんなことはない、強く誇りに感じている国家の指導者が死去したのだからあの位のことは当然だ、と強く反論され、その後距離を置かれるようになったことを思い出す。そのときは反論も出来なかったが、こうしてみるとそうした観測も別に外れたものでもなかったということになるだろう。(9.29.)

買うものはいくつか買い物メモにして出かけたのだが、まず丸の内の丸善で古田博司『東アジア・イデオロギーを超えて』(新書館、2003)を買う。これは図書館で借りて読了したのだが、何十枚も付箋をつけてしまい、もう一度あとで目を通すためには自分で持っていた方がいいと判断して結局買った。奥付を見ると今年になって2刷りがかかっていてちょっと驚く。(2005.10.2.)

  

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