>本探し.netTOP >本を読む生活TOP >著者名索引 >カテゴリ別索引 >読書案内(ブログ)
金原ひとみ『蛇にピアス』
蛇にピアス金原 ひとみ集英社このアイテムの詳細を見る 金原ひとみ『蛇にピアス』(集英社、2004)。
話題になった当時は最初にスプリットタンの話が出てくるだけでもう読む気を失っていた。数日前から近年の芥川賞作品を読もうと思い立って読み始めて、長嶋有と綿矢りさは割合すぐ手が伸びた(しかし読後感は予想とかなり違った)けれども、金原ひとみはかなり考えたことは考えた。しかし読み始めてみると身体改造や続出する性描写にはあまり嫌悪感や違和感を感じない。なぜだろうと思って読んでいたのだけど、思い当たった。
『NANA』のせいだ。『NANA』はパンクバンドの話だからピアスをそこらじゅうにつけてる男女が続出するわけだけど、絵がスタイリッシュなこともあってあまり違和感がない。まあ壊疽のものよりストーリーにぐいぐい引っ張られてしまって視覚的に慣らされたというところは大きい。視覚的に慣れてしまうと、ピアスのつけ方の話などが出てきてもあまり強い違和感がなくなるのだろうと思う。我々の年代に比しても若い年代はきっと、そんなふうな意味で『蛇にピアス』のような話にも違和感が少ないんだろうと思う。
しかしだからといって本質的になじんだかというと全然そういうことはない。やはりピアスから始まる身体改造は、からだを飾るというよりはからだを傷つけるという方に意識されるし、やはりある種の自傷的表現行為だと思う。石原慎太郎が芥川賞の選考でそのあたりのことをいっていた気がするが、彼のようなある種の肉体至上主義者には耐えられないところがあるのだろうと思う。
私は肉体的なものにそんなに価値を置いているわけではないけど、やはり身体はなるべく自然を感じられる力を持ち続けたいと思うから、リストカットにも似た自傷的表現行為は好きではない。ただ生きていくだけでも大変なこの人間としての生に、ただひとつ生き延びる手段として与えられた肉体をなぜ傷つけなければならないのか、という方向に思考が進む。多分本当は、生き延びるために何かを見ないようにしているうちに閉じてしまった自然の感覚を、痛みによって無理やり世界に開かせようとする、切ない行為なんだろうとは思う。ただそれに共感するための通路は私からは通っていないんだよなあと思う。文学の形ならまだしも、目の前にそういう人がいても「やめたほうがいいんじゃない」以上のことは言えないんじゃないかと思う。
なんていうかだいたい、『NANA』を読んでいるときも、何かものすごく切迫したものが自分の中にあり、それは生存の危機感のようなものに近かった。特急の中で『蛇にピアス』を読んでいても、何か明らかに自分の中で閉じようとしているものがあり、それが閉じなければ読み続けられないというものがあった。それは何だろうと思いながら読んでいたのだけど、多分昨日書いたような、自分の中にあるやみくもな生存本能だったのだろうと思う。つまり例えていうなら、ずっと息を止めたまま一気に読み通したというに近い。
実際には、この小説はそういう題材を別にすれば実にシンプルで素直な小説だ。米軍基地周辺でのドラッグまみれの青春を描いた『限りなく透明に近いブルー』や、黒人逃亡兵との愛欲の生活を描いた『ベッドタイムアイズ』などに比べても、(それらはやはりエポックメイキングな小説ではあった)素直な作品だと思う。作者が若いということは明らかにそれと関係があると思うけれども。なんというか題材に対する違和感も、村上龍や山田詠美が描いているのは「特別な世界」という感じが強かったけれども、金原ひとみはわりあい身近なところにある感じがする。こっちの年齢もあるんだろうけど。
120ページ強の作品、150枚くらいか。最初から3分の2くらいまでは主人公の内面に踏み込まず、割合淡々と事実と感情のその場限りの動きのようなものを追っていくのだが、刺青が完成した後はとたんに主人公の自意識の洪水となり、びっくりした。効果として狙ったものなのか展開上そうならざるをえなかっただけなのかよく分からないが、ここがすごく突出した感じになる。そこまでは予定通りに話が展開していくのだが、ここから急展開になる。序破急の序がずうっと続いて破がほとんどなく、いきなり急になった感じ。
ネットで調べていると、雑誌掲載時と単行本収録時ではラストが改変されていることがわかった。それを福田和也が批判していると言う。もともとのラストがどうだったのかは読んでないから分からないけど、確かにこのラストはちょっと奥歯に物が挟まったような感じがしなくはない。機会があったら『すばる』2003年11月号にも目を通しておきたいと思う。
で、これ、自分の人生にどういう影響を与える本だったのかと考えてみると、この程度の性描写はありなんだなと納得したということが大きいか。というか、やはりこの性描写はどうもフィクショナルと言うか、作り物めいた感じが結構するんだけど、というかこの作品全体がすごくフィクショナルな、ウェルメイドな感じというか、よく考えられ練られた作品と言う感じがする。何か日常の破れ目というか、抜き差しならない何かがこぼれ出たり溢れ出たりした、という感じではない。そういうものを求めるのが邪道なのかもしれないが、やはりそういう非日常性というものを追い求める癖は抜けない。違和感というか異化効果というか、日常性の皮膚を破り裂くようなものが欲しい感じがする。
作者が小学校4年から不登校だったというのはWikipediaの情報だが、日常性の皮膚を破ると言うよりも、日常性そのものが失われた人の作品という感が強くて、それはそれでまた私自身からの理解の通路が狭い。あちら側の世界からある意味日常性への復帰を描いた小説であるように私には見えるのだけど、それにしてはラストがいまいち納得できないと言うか。いや別に無理に復帰しなくても(小説としては)いいんだけど、それでどうなりたかったのか、その「たい」というところをはっきりして欲しいなという感に打たれた。そこに彼女の作家性があるというならばそれ以上は言っても仕方ないことなんだが。(2007.7.7.)