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近藤ようこ『春来る鬼』

春来る鬼

青林工芸舎

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白山通りを神保町に向かって歩く。思ったよりたくさん食べもの屋があるのだなと思った。研数学館だった建物が大正大学の校舎になっていて驚いた。もう6時を回っていたので古書センターの2階のボンディでカレーでも食べようと思って行ってみたら行列だったのでやめた。他に行くとこないんかい、と心のうちで悪態をつきつつ、交差点に戻ると南のほうに見慣れない巨大なビルが立っていた。そういえば再開発をやっていたのだということを思い出してそこに行ってみると、なんだか最近流行りのどこも同じような再開発済みの通りが出来ていた。良さそうな喫茶店があったのであとで入ろうと思い、まず腹ごしらえと思ってすずらん通りに戻るとスヰートポーズが席が開いていたので餃子ライスを食べる。それから何か喫茶店で読むもの、と思って三省堂で立ち読みし、ブックマートに行って近藤ようこ『春来る鬼』(青林工藝舎)を買った。それから喫茶店に行ってみたらもう閉店していた。仕方がないので地下鉄に乗ってうちに帰る。

近藤ようこを車中読んでいたのだが、時々胸が一杯になって読みつづけられなくなる。何でこの人の作品はこんなに自分の胸に届くのか、考えてみてもよくわからない。そんなに熱心な読者でもないのだが、帰ってきてふと本棚を見てみたらもう7冊目だということがわかった。『仮想恋愛』は別として『説教小栗判官』『花散里』『美しの首』『猫の草子』とこの人の中世物は好きでずっと読んでいたのだが、現代ものはどうもとっつきにくくてあまり読んでいなかった。『見晴らしが丘にて』を買って現代物もいいなあと思ったのだけど、ブックセンターに並んでいたパラサイトシングルを扱ったらしき作品などはちょっと読む気がせず、80年代の作品である『春来る鬼』を買ったのである。

なんというか、自立という名の孤独、あるいは孤独という名の自立というものを扱った作品が多くてなんだかどうしても心に響くのだろう。近藤ようこの主人公は作中でまず必ず自立を選択する。そしてその孤独を引き受けて生きる悲しみも同時に選択したことを自覚している。それを近藤は坂口安吾の言葉で『絶対の孤独』といい、「生存それ自体が孕む絶対の孤独こそが文学のふるさと、人間のふるさとである。そのゆりかごに帰るのは大人の仕事ではない、しかし、そこがふるさとであることは忘れてはならない」という。そして彼女はその言葉どおりに生きているのだろう。その自覚のあまりの明瞭さがある種の悲しみをより際立たせているのだけど。

彼女の作品は一つ間違うと柴門ふみになってしまう危うさがあるようにかんじる。向田邦子と比べる人が多いようだが私は向田をあまり読んでいないのでよくわからないけれども、あまり似ているようには思えない。柴門ふみも『同級生』だけはやたらはまったのだが『東京ラブストーリー』でもういいやとなった。

孤独を文学のふるさととして文学で生きることはやはり孤独から離れることを自らに禁じざるを得ないことでもあるのだと思う。その自覚の深さゆえにたぶん作家としての近藤を私は信頼しているのだと思うけれども、読者がそれを期待することの罪障もまたこちらが自覚せざるをえない。作品を作るということが要求する精神の強靭さの必要性をいつも自覚させられる。そのあたりのところに私が彼女の作品を読みつづける理由があるのかもしれない。(2003.7.13)

近藤ようこの作品についていろいろ考えると、表現のことについてとか人物像の配置の仕方とか男と女の関係についてとかいろいろ考える。女と男の違い、ということは女性と付き合ってるときは割合強くかんじるものだが、あまりそういうのがないときは何だかどうでもよくなる。女性と付き合ってて違うな、と思うことは多いけど、その違うな、と思う場所は女性によって相当違う。結局はそこにひとりの女性がいるだけなのだが、その女性をうまく愛しかねるのが男というものだろう。「扱いかねる」というが、扱うなどまして難しいに違いない。ああ、この分野はもうずっと何も書いてないからことばが不自由だ。この分では素敵な女性が目の前に現れてもろくに口説けもしないだろう。世の中面倒なことが多い、などと御託を並べている暇があったら(後略)

関心空間で近藤ようこを調べて、晶文社のサイトで『後には脱兎の如し』というエッセイを連載していることを知る。ああ、文章はなかなか面倒なことを書く人だが、国学院を出た漫画家という感じがしなくはない。この人は『うるせえやつら』や『めぞん一刻』の高橋留美子と高校の同級生で二人で漫研の副部長をやっていたというが、漫画家に新潟県出身の人が多いのはなぜだろう。東京の銭湯は新潟出身が多いというのは昔から言われていたが、漫画家が多いというのはいわれてみてはじめて気がついた。そういえば近藤氏が好きだという坂口安吾も新潟の出身だった。

このエッセイ、読んでいて面白いのだが、言葉だとちょっと切れすぎる感じがするな。あの無骨な線が切れすぎる何かを中和して描出しているような気がする。外に向かって切りつけていく言葉は切っ先が鋭くても時に爽快だが、内側に向かって切りつける言葉はあまり切れすぎると勢い余って私の中のどこかを切りつけられるような感じがする。自ら進んで肺腑を抉られたいときはまた別だが。(7.14)

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