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志賀直哉『灰色の月・万暦赤絵』
灰色の月・万暦赤絵新潮社このアイテムの詳細を見る 志賀直哉の小説を読みたくなり、読みかけになっていた『灰色の月・万暦赤絵』(新潮文庫、1968)を出してきて「早春の旅」・「灰色の月」・「兎」・「実母の手紙」といったところを読んだ。「早春の旅」を読みながら、小説と随筆や批評、身辺雑記的なものとの違いというのは何だろうと思う。
夕方になって再度本屋に出かける。志賀直哉をもっと読みたくなったからだ。読んでいるうちに、志賀直哉というのは現代でも方法論が通用する唯一の近代作家なのではないかと言う気がしてきた。近代と現代を「貫く棒の如きもの」が志賀直哉にはある。彼は苦悩しない唯一の近代作家ではないか。苦悩しないでものを書けるタフさが、今必要とされているように思う。もちろん苦悩が全く書かれていないというわけではない、「菰野」とかはどうしようもない現実と戦っているさまが書かれている、まあ言うまでもない事だ。『暗夜行路』とかを読んでないからそういう言い方になるんだろうという気もしなくはない。しかし「実母の手紙」を読んでいるとどうしても可笑しくなってくるユーモアのようなものが彼の文章にはあるし、「灰色の月」の鮮やかさには目を奪われる。
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永代通りを渡り、ドトールの前を通ってマンションのエントランスから公共駐輪場の横を抜ける道を出て、NTTの角を曲がると勤め帰りの背広姿がいくつも駅に向かって急いでいた。西友の前の信号は赤だったが車が来ないので渡りながら、志賀直哉の小説『灰色の月』と小林秀雄の批評『人形』と、瀬戸内寂聴の寂庵での身辺を記した随筆との違いは、造形と鑑賞という作家の書き方の違いなのだと思った。鑑賞は一歩引いていて、造形は自ら作り上げる。「見た」ことを書くのが鑑賞で、書くことで「作る」のが造形、あるいは創作であり、詩と小説の特権性はそこにある。読者からすれば、批評は作家の視点で見たことを追体験するが、創作はその文章そのものをまさに鑑賞することになる。まあそんなことは分かりきったことかもしれないが、その違いは大きいなと思った。今まであまりよくわからなかった言葉に「エクリチュール」という言葉があるが、そういうことを言っているのだろうか、と思った。
どうもわたしは美術的な比喩が物事を理解するには分かりやすいらしい。造形という言葉が一番ぴったり来る。(5.9.)
昨日は文を少し書き次ぎ、志賀直哉を読みつづけた。「いたずら」「夫婦」「白い線」「八手の花」と読み、最後の「盲亀浮木」にかかっている。「盲亀の浮木、優曇華の、花の咲いたる、心地して」である。以前さる方に勧められて読んだのだが、その時は余り志賀直哉に惹かれはしなかったのだけど、今となっては日本文学には志賀直哉しかいなかったんじゃないかという気がするくらい強く惹かれるものがある。本当に、その時その時の人間の求めているもの、必要なものしか人間には目に入らないのだと思う。
ただ読んでいると時々そのあまりに緊密な文章世界に読んでいる自分が硬直していくような感じがある。(5.11.)
志賀直哉『灰色の月・万暦赤絵』読了。読み終わって一晩たち朝の寝床の中でいろいろなイメージが切れ切れに立ち上がってくる中で、「志賀直哉はいいなあ」という思いが幸福感とともに立ち上がってくるのを感じた。世界の広がり、という点で、最近読んだいろいろな小説の中で、最もそれが感じられる作家だという気がした。それに対抗できる、というかこれも遥かな高峰、というのはプーシキンだけだ。二つの山が朝の霊気を帯びた雲の上に二つだけ顔を出し、雲海の中で荘厳な朝日を浴びている、という感じがする。
世界が実在するという感覚、これは言葉で説明されることを拒否しているようなところがあるが、とにかく実際読まなければ分らない。読んでも分るとは限らないが。絵画であれば描き手は時間がかかっても鑑賞者はそんなに時間をかけてみる必要はないが、小説と言うものは読み手も時間を必要とする。しかし詩なり小説なり、その他の手段では再現不可能なものを詩なり小説なりで表現するということが本来の意味での芸術ということだろう。これはどう読む、どう解釈する、という批評を超えたところに芸術としての創作の実在が存在するわけで、読み手がいかにしてそこに到達できるかどうかはこれも説明不可能で、「読む」こと自体が現実には一生ものの仕事でもある。
しかし文章と言うものは「読まれる」ことによってしか完成しない芸術であって、「読み手」を常に必要としている。十分に読まれないままある種の種子のようにずっと眠りつづけなければならない運命に晒されている文もまた多いのだろうと思う。批評というものの使命は、そういうものを掘り起こすところが本当の意味での崇高さをもっているのだろうと思うし、そういう意味ではエリオットのジェームズ王朝期の諸詩人の掘り起こし(ジョン・ダンら)や小林秀雄の本居宣長の読み直しなどが批評の崇高さを実現した仕事なのだろうと思う。
もちろんまだ読まれていない現代作家の作品を正当に評価し、読まれるように取り上げるのも批評の重要な仕事ではある。そういう意味では文学賞と言うのは社会的企業的に執り行われている大掛かりな批評であると言うこともできるだろう。それが十分に機能しているかどうかはまた別の問題だが。すでに読まれている作家についても読み手の読みきれない部分があるのは当然で、そこを取り上げていくのもまた批評の重要な仕事であることもいうまでもない。(5.12.)