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佐藤弘夫『偽書の精神史』

偽書の精神史―神仏・異界と交感する中世

講談社

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飲み会の前に新橋の文教堂で買った佐藤弘夫『偽書の精神史 神仏・異界と交感する中世』(講談社選書メチエ)がとても面白そうだという印象だけをもっている。日本の国号の話もそうだが、中世という時代は「日本」というイメージから離れたものを感じるけれども、実はその中で現代の日本のある「秘密の部分」が作られたのではないかという感じがすごくする。その秘密の花園に迷い込んだ方々の話も、だから面白いのかもしれないと思った。古代は「明示的な日本」、中世は「秘儀的な日本」が作られた時代といってもいいかも。顕教的・密教的でもいいかな。近代は「合理的な日本」(もっといい言い方がないかな)を作ろうとしたのだろうけど、古代的な明示や中世的な秘儀に左右された部分に日本的なあるデフォルメをあたえられたと考えてよいのかもしれない。徳川斉昭とかの事跡を読んでいるととてもそういうものがある気がする。あ、日本の場合は近世を無視するわけには行かない。近世は何的な日本だろう。「権威的な日本」ではつまらない、もっといい表現はないか。(2005.3.2.)

佐藤弘夫『偽書の精神史』、予想通り面白い。中世はめちゃくちゃイマジネーションの豊かな時代だ。諸星大二郎を思い出したり、そういえば荒唐無稽なSFやらアニメやらは現代も巷に氾濫しているが、そういう脳髄の産物のようなものが中世にも多く、それがまたリアルに存在している感じがすごいなと思う。現代の脳髄の産物はSFXを多用した映画を含め私などには全くリアリティが感じられないのだが、中世のものは不思議なリアル感があって、そこがいい。まあ、それはそれらのものが時代を経てきた重みがあるからそう感じるのかもしれない。洗練というのもそういうものかも。

日蓮が、というのは実家の宗旨が日蓮宗だからなのだが、法華経を至高の経典とみなしたのは、歴史上の存在である釈迦がそれを著したと日蓮が解釈したからだ、とずっと思っていたし、まあそういう間違いをおかすのも史料批判がきちんとしていない時代だから仕方がないのかな、とか思っていたのだけど全然そんな話ではなくて、悠久の昔に成仏を遂げて未来永劫説法を続けていく久遠実成の存在としての釈迦こそが日蓮の考える釈迦であり、そこに現れた地湧の仏たちこそ日蓮たちである、という思想なのだ、という説明には衝撃を受けた。多分どこかでそういう内容のことも読んだ事がある気がするが、そのときは全く理解できなかった。まず第一にこういうストーリーが記されている仏典恐るべし、であるが、それを読みこなして一宗一派を立てた日蓮や法然なども全く恐るべしである。学僧の能力と教祖の能力は根本的に違うというべきだろう。

近代史を勉強する上でも、こういう日本中世の特徴をある程度は押さえなければいけないなと思うし、日本の歴史の深さというものを改めて実感する。(3.3.)

『偽書の精神史』、まだ読了していないが、鎌倉時代の訴訟システムについて。訴訟当事者が証拠だけでなく適用すべき条文や判例まで用意しなければいけないというのは、ちょっと驚いた。だから出所の怪しげな文書がどんどん作られたという状況はなるほどと思う。西洋史でもコンスタンチヌスの寄進状という有名な偽文書があるが、中世の訴訟というものは想像を越える。御成敗式目は「道理」という観念を中心にしていると読んだことがあるが、条文や判例まで当事者が用意するなら判定者は確かに「道理」にのみ従えばいいということになるのかもしれない、と思った。このあたり素人の勝手な感想ではあるが。(3.4.)

『偽書の精神史』読書中。この本に関してだけではないが、史料を挙げながら当時の実情を描出している部分はわくわくするほど面白いのだが、中世人がなぜ「偽書」をつくったのか、についての仮説を述べている部分に来ると今ひとつ納得できない部分が出てくる。それはなぜかと考えてみると、そうした中世の文書を最初に「偽書」と定義しているからだろう、という気がする。

近代人が作った「偽書」は「創作」であり「作品」であるのに中世人が作った「創作」が「偽書」になるというのはどうも納得できない。中世はオリジナリティの時代ではないから彼らに「創作」という意識がなかったの事実だが、「偽書」という言葉の持つ価値否定的な響きに引っかかるということだろうか。「創作」でも「偽書」でもない形容というのは難しいだろうし、だから普通「中世文書」というような価値中立的な表現で深入りを避けるのだろうけど、なんだかもっと「中世人にやさしい(笑)」表現はないかという気がする。

著者はおそらく「偽書」という表現をできるだけ価値中立的なタームとして扱おうとしているのだろうとは思うが、近代人の視点で表現するとどうしてもそうではなくなるというところが難しいなとは思う。確かに裁判を有利にするために「伝来」の文書を新たに「創造」するというようなことは現代人から見てフェアとは言いにくいが。

しかし考えてみると、例えば文学史というようなものももともと近代的なオリジナリティ至上主義の立場から構想されたものなのだろう。史学もそうだが、どうしても個人主義的傾向と科学主義的傾向は避けられないし、まあそれがなければ近代史学とはいえないというものでもある。だからそういう枠組みの中でできることはある程度は限られているということなのかな、とも思う。

だから、問題の切り分け方のあざやかさには感心するのだが、まあこういう切り分け方がすべてではないよな、ということもやはり思うわけで、しかしこういう膨大な中世文書の海にこぎ出だすには必携の、貴重な海図には違いないだろう、とも思う。

しかしそれにしても、諸星大二郎の作品にでてくる膨大な中世文書について、この本の中でかなりたくさん触れられている事には驚いた。諸星の文書渉猟のすごさにも驚かされるし、それを使って描き出そうとしている世界がかなり違う方向を向いていることも印象的だ。どういう枠組みで考えればいいかは難しいが、諸星の作品群との比較作品論をしてみても面白いかもしれない。

あ、当然だが近藤ようこの中世ものの作品群ともかなり重なるところがある。いずれにしても中世というのはイマジネーションを膨らませられる時代なのだなと思う。(2005.3.5.)

『偽書の精神史』読了。最初は目くるめく世界が展開してドキドキ、という感じだったが、何だか最後の方は常識的におさまってしまった感じ。まあそれは、江戸時代には「合理精神」に批判されて多くの中世文書が偽書と断定されていく、という展開と無縁ではないので仕方がないのだが。ただ、むすびに「今私たちが求められているのは、他人から何かを与えられることを待つことではない。いかにささやかなものであっても、借り物ではない自分なりの思索と感動を重ねることで、自らの心の水脈をたずね求めていくことではなかろうか。」という言葉で〆められているのはどうもこそばゆいものがある。つまり、当たり前すぎるほど当たり前のことを、この当たり前でないテーマの本になぜ書かなければいけないか、ということだろうか。ワクワクドキドキの伝奇ものを読んでいたら最後はいきなりNHKの「こころの時間」になっていた、という感じである。どうしても陳腐に感じてしまう。

しかし、こういう文章を読むと本当に文章を書くことの難しさというものを感じる。面白いテーマであればあるほど、自分の思いいれも強くなるし、そうなるとまたついよけいなことを書いてしまいたくなるのだろうという気がする。いや、実際に面白かったから、画竜点睛を欠くとか蛇足とかいうことをつい思ってしまうだけなのだろうけど。(3.6.)

  

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