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レールモントフ『現代の英雄』
現代の英雄岩波書店このアイテムの詳細を見る 昼食後銀座に出かけることにする。日本橋で降りて、丸善に歩く。なんとなく本を探し、レールモントフ『現代の英雄』(岩波文庫)を買う。レールモントフはプーシキンより14歳若いが、10歳若く27歳で死んでいるので(二人とも決闘死だ)生涯で重ならないのは4年しかない。プーシキンの影響がかなり濃いなと思う一方、散文的な広がりがあってメリメを思い出す。コーカサスのチェルケス人やオセット人が出てくるところは『エルズルム紀行』を思い出す。(3.28.)
昨日帰郷。特急の中では少し書き物をし、残りの時間はうつらうつらしたりレールモントフ『現代の英雄』を読んだり。プーシキン的な設定が多いが、中身は全然違う。感覚の鋭い、若いとんがった詩人という感じである。倦怠や無感動と自分自身に対する怒りのようなもの、悪を働かずには生きられない異民族・庶民への同情というより共感のようなものがあり、このあたりが好き嫌いはともかく「近代的」な感じがする。プーシキンの共感はもっと人間存在そのものに対する共感なのだが、レールモントフの共感は相手の「弱さ」に対する共感なのだ。つまり自分が傷つきやすい弱さをもっていると認めた上での共感なので、ずいぶんナイーブな印象になっている。しかしそれが近代文学のある精神を表しているのは確かだろう。ある意味でプーシキンがポジならレールモントフはネガだ。プーシキンが源氏ならレールモントフは宇治十帖の匂宮と薫を足して二で割ったような感じだ。ヴァルネラビリティへの共感という話になると、文学は無限の迷路に入っていってしまうが、まだレールモントフはそのラビリンスの入口という感じなので読みやすいのだと思う。まだまだ伝奇的ものを扱うのが物語だという観念が強く、その出し方も「レールモントフ好み」みたいなところがあって、その趣味は結構面白い、と思う。
しかし、結局小説や物語において伝奇的なものへの志向というのは、お話の面白さを確保する必要性がどうしてもあるために、結局は切り離せないものなのだなと思う。読者がよく知らない何かが語られることによってしか、読者の興味をつなぐのはなかなか難しいだろう。で、人の心というものへの興味というのも結局はそうした伝奇的な興味なのではないかという気がする。人がそれに思い入れをしたり共感したりするのは勝手だが、思い入れは誰にでもできるわけではない。しかしその伝奇的な面白さを感じることは割合容易なことなので、必ずしも思い入れをすることができない人との間でも、読書体験を共有することができるということになる。
ただ最近思うのは、文学の本当の面白さというのはそういう共感云々のところにあるのではなくて、面白いと感じるまさにその感動にあるのだと思う。本当は安っぽい共感など文学に有害無益なのではないか。文学が世界を変え得るというような錯覚が持たれるに至ったのは、そういう共感というものの持つ「魔」ではなかったかと思う。(3.29.)
昨日はだいぶ時間があったので、かなり本が読めた。レールモントフ・中村融訳『現代の英雄』(岩波文庫)読了。この小説、普通の意味で面白い。プーシキンのように真実の美を表現しているという感じはないけれども、言い回しや人生に対する洞察などで唸らされるところが多い。27歳で死んだ詩人とは思えない。プーシキンは一までも若い永遠の若者という感じで、そこが痛々しくもあるところがあるのだが、37歳での死というのがいかにも非業の死という感じになる。レールモントフはもっと若いのだが、いきなり老人というか、人生のすべてを見切ってしまったようなところがあって、私は12歳ですでに老人だった、とかいう小説があった気がしたが、若く絢爛たる美貌の青年の心中が憂鬱癖があり鬱屈を抱え老成を余儀なくされるという主人公の感じがなるほどと思う。まあ少しでも鬱屈を抱えたことのある人間ならそういうところで共感できるところはもちろんあるのだけど、その表現の絢爛さは真似できないなと思う。解説にあったメレジコーフスキイの「プーシキンをロシア詩の昼の光とすれば、レールモントフは夜の光だ」ということばは、やはり私と同じように感じる人はいるのだなと納得させられた。
それから「ロシアン・ルーレット」に類似した場面が出てきて、この危険な遊戯の起源はこの本なのではないかと考えさせられたが、実際はどうなのだろう。(3.30.)