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ナイポール『ある放浪者の半生』

ある放浪者の半生

岩波書店

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ナイポールを読み始める。最初はインドの話で何がなんだかわからず、ちょっとつかみにくくて、何が面白いのかもわからなかったが、「第1章」と言う名の第2章に入ると急に面白くなった。ユーモアがあるし、それも批評的だ。第1章の「サマセット・モームの訪問」はそれの巨大な伏線と言うか、世界に放り出された主人公ウィリーの父親がガンジーに倣った「犠牲的精神」を発揮しようとするけれども伝統的な生き方から脱することが出来ないという状態(p.40「いつもその場の勢いで行動しながら先祖伝来の流儀に落ち着いた」)とみごとにコントラストをつけている。イヤこの話、説明しようとすればするほど詰まらなくなる。

ちょっと読みながら書いたメモを見ながら。最初の現実離れした感じが、村上春樹『スプートニクの恋人』をちょっと思い出させた。読むものにとって非日常的というか不条理な雰囲気が共通していると言うことだろうか。しかし読むものにとっては不条理であってもそういう世界がこの世のどこかには存在していると言うある種のリアリティが感じられるといってもいいかもしれない。……かなり不正確な表現だ、われながら。

急に面白くなるのは主人公ウィリーがミッションスクール(インドのミッションスクールは後進民のためのものでエリート教育機関とは対極だ)で課題の作文で物語を書き、それを父親が読むところだ。この物語がどれもこれも「ケッサク」で、このあたりに来ると今まで我慢して読んできた部分も含めて「何でこんな奇妙なことを思いつくんだろう」という気がしてくる。このあたりは北杜夫『さびしい王様』『さびしい乞食』『さびしい姫君』のシリーズを思い出した。ユーモアの質がどこか似ている。

現在84ページ、主人公ウィリーがロンドンに留学したところを読んでいるが、今のところはここから先は楽しく読めそうな雰囲気がある。今日中に読みきれるか。(6.16.)

  

ナイポール『ある放浪者の半生』、電車の中でだいぶ進んだが読み残しがあり、朝起きてから読み進めて読了した。ひとことで言うことの出来ない複雑な小説だ。

印象論から。最初の章は読んでいてどこに面白さを見出したらいいのかわからない奇妙な非現実感が続く。次の章に入ってナンセンス的な面白さが炸裂し、そういう小説かと思って読み進めると人物像がだんだんカリカチュアライズされすぎな気がしてきてどうなのかと思っていると、最後の章(といっても全体の半分くらいある)でアナという女性が出て来て、そこから急に魅力的な話になっていく。しかし主人公ウィリーがアナとアフリカ(まず間違いなく旧ポルトガル領モザンビーク)に行くとそこから描写が紀行文的あるいはジャーナリスティックになり、ウィリーの語りなのに作者自身が語っているとしか思えない感じになる。結局こういう社会派的な話なのか、と思っていると最後にグラーシャという女性に出会い、話は文学的になっていく。たくさんの世界を渡り歩く主人公を描いているのだけれど、その描写の方向性がどんどん変わっていく。ちょっとこういう小説は今まで読んだことがない。

その世界のところどころにとても共感するところがあったり、その世界に受け入れられていると思ったりそれが幻想だったと思ったりの繰り返しの部分が自分自身の人生に鑑みてしまうところがあってなんともいえない。

テーマは植民地の白人やイギリスに移住してきた植民地人、混血の家系など「半分半分」の人々を描き出すということにあるのだろう。私たち自身がみなある程度はそういう存在なのだと私などは思うので、やはりこのテーマは普遍性があると思う。

しかし、どこに書いてあったのか見つけられなくなってしまったので正確に引用できないのだけれど、国家とか歴史とかに対する疎外感のようなものを感じる場面で、ああ、こういう人たちには「歴史」がないのだということに突然思い当たった。特急の中でトイレに行く通路を歩いていたときだった。歴史がない国、といって思い出すのはアメリカ合衆国だが、植民地というのは必然的に歴史がぶち切れる場所なのだ。たとえそれまで国家の歴史を持っていても植民地化の前と後では歴史は否応なく非連続的になるし、統一国家を持たなかった民族では植民地化以降が不自然に「現在」として出現する。そういう国に生まれることを「不幸」だと感じるのは、私が「歴史」がある「日本」という国にあるからだろうし、そしてそれを非常に「幸福」なことだと感じているからだ、ということに突然思い当たったのだ。歴史がない人々、に対して非常に強い憐憫を覚えた。それは政治的に正しくないといえばもちろんそうだろうがそのことを書かないのはむしろアンフェアだと思うので書いておく。

しかしもちろん、わが国の歴史も明治維新の前後でかなり大きな断絶があり、また敗戦と占領によってまた大きな断絶が生まれたことにも思い当たり、そのことに痛みにも似た強い感覚を持ってしまう。「歴史」の意味をこれほど強く感じたことはなかった。歴史は人々の幸福に関わる事柄なのだ。

そして、私が書いているような意味で歴史を持っている民族というのは、実はそんなに多くないというのが厳然たる事実なのである。多くの国では今なお懸命に歴史を再構築しようとしている。ただ、共産主義国家の中国のようにアジア的停滞の辛亥革命以前をイデオロギー的に肯定できないために歴史を正しく評価できない、などの例があるように、歴史に対する不全感を持っている場合もある。正直言って、中国人の多くより日本の平均的な高校生の方が中国古代の詩文――つまり漢文――に詳しいのが現状だと思う。そういう意味で世界は明らかにアンバランスだ。

しかしだからといって歴史を持っている国がそれを放棄することによって他国と並ぼうと考えるのはどう考えても常軌を逸している。しかしそれをやりかねないのが日本の現状であって、歴史は基本的に日本人に生まれた幸福を教えるべき教科なのだということは持っと叫ばれなければならない。

しかし、ヨーロッパに入った日本人がいまでもカルチャーショックを感じるように、ヨーロッパの町には普通に歴史が溢れている。しかし日本でもよく見たらそこかしこに歴史があるのであり(やはりその辺関東は関西には圧倒的に負けてしまうのが残念だが)それをきちんと見なければいけないと思う。

これはジェフリー・アーチャーが書いていたらしいが、あらゆる教育をイギリスで受けることになったポーランド人の若者が歴史も教えて欲しいというと「歴史はその国の人間にしか教えられない」とイギリス人教師がこたえたという話を思い出す。ポーランド人に生まれた幸福(苦難も含めて)はポーランド人にしか教えられないのだ。それはユダヤ人であってもアルメニア人であっても同じことだが、素朴に自分たちの集団の語り部を持たない民族集団はそういう幸福と無縁になってしまう。それならば日系ブラジル人の「勝ち組」であっても、語り部があった方が遙かに幸福だと思う。アイデンティティとは歴史のことなのだ、と言うのはかなり前に考えていたことだが、実感が伴っていなかった。

しかし逆に、ナイポールの描くような「放浪者」がある種の魅力を持つこともまた確かである。そして先に述べたように、この流動する時代、特に西欧文明を受け入れざるを得なかった非西欧社会は多かれ少なかれその中途半端な面を持つ。そこへの開き直りや適応や困惑や…がある種の新しい文化や文学を生んでいるのが現代だということなのだろう。(6.17.)

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