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ル・クレジオ『アフリカのひと』

アフリカのひと―父の肖像

集英社

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八重洲ブックセンター1階の文学書をいろいろ物色。サイードの『文化と帝国主義』を探したのだが見つけられなかった。なんだかまだぼおっとしていたのかもしれない。しかし外国文学の棚でル・クレジオ、ナイポール、クッツェーといった人たちの著作を見つけ、何冊かぱらぱら見てみて一番自分の趣味に合いそうなル・クレジオ/菅野昭正訳『アフリカのひと』(集英社、2006)を購入。集英社を最近見直すことが多い。

何か買って帰ろうと思ったが、もう東京駅の大丸も閉店時間になり、買って帰るより食べて帰ろうと八重洲地下街の中央通り側の終点の和光でロースかつ定食を注文し、麦酒をちびちびやりながらル・クレジオを読んだ。

少年時代のナイジェリアでの自然の記憶は、非常に共感するものがある。今は私も都市暮らしだが、子供のころは自然の中で暮らした時期があり、その自然の激しさ、暴力的なまでの猛々しさは子ども心に記憶に生々しい。白蟻の塚を兄と二人で破壊して回る無意味な子どもの暴力性というのも、自分の鬱屈していた子ども時代の今ではよくわけのわからない数々の無意味で時に暴力的ないたずらを思い出す。

ル・クレジオをポストコロニアル作家と呼ぶべきか否か。彼の家系がブルターニュのケルト系で、フランス革命のときに国民軍に参加し、ブルターニュの風俗を否定されて(市民革命とは国民の創設=地方文化の撲滅の過程でもあった)モーリシャスに移住し、そこでクレオール語を使って生活しているうちにモーリシャスがイギリス領になり、そうした経緯の中で彼の父の代にイギリスに渡り、親戚であった母の一族はフランスに戻る。第二次大戦中は父はアフリカで医者として生活する一方、母と著者たちはニースでドイツ兵の摘発を恐れて息の詰まるような生活を送った。大戦終結後、父の働くナイジェリアに渡った8歳の年の1年余りの期間が著者のアフリカ体験の原点であるわけだ。

彼は家系と彼自身に目のくらむようなさまざまな要素を持っているわけで、しかしこうした経緯を持つ人たちがヨーロッパには少なくないのだと思う。ある種のディアスポラを経験し、また「流れ者」としての植民地官僚の要素とか、植民地争奪戦のうちにフランス語を喋るイギリス人になってしまったり、こうしたさまざまな経緯を持つ中で、自らのアイデンティティは自ら決める、という流儀が確立して行ったのかなと思う。ポルトガルの歴史を読んでいるとブラジル、アンゴラ、モザンビーク、マカオといった海外植民地がポルトガルの歴史に死活的な影響を及ぼしているのが巨視的に見てもわかるのだが、個人のレベルに降りていくとフランスでも相当大きな影響があったのだなと思う。日本でも満洲体験・台湾・朝鮮・南洋などの外地体験がいろいろな面で影響を持っていると思うが、このあたりはまだ十分に日本史になりきれていないのが残念だ。(6.12.)

行き帰りの電車の中でル・クレジオ『アフリカのひと』の続きを読み、帰ってきて読了。副題が「父の肖像」とあるように、ル・クレジオの父で医師としてガイアナやカメルーン、ナイジェリアに派遣された父ラウルと、8歳で初めてナイジェリアの港で会ってからの著者との心の行き違いや通行についてがまずは主題である。

ガイアナは南米の北端だが、そこでデメララ川というのがでて来る。これは酒飲みには身近な地名で、ラムにレモンハート・デメララというのがある。デメララ川というのは砂糖の集散に使われているのだなとラム酒との関係を知る。

ル・クレジオを読んでいると、強い内側からの息遣いとともに「ああ、そうだよなあ」といいたくなるくだりがいくつもある。たとえばp.137以下。

「私が絶えずもどりたいと思いつづけているのはアフリカであり、私の子供のときの記憶である。私のもろもろの感情ともろもろの決意である。世界は変わる、確かにそうだが、かの地で丈高い草の平原のまんなか、サバンナの匂い、森林の鋭い音を運んでくる暑い風のなかに立って、唇に天空と雲の湿り気を感じている子供、あの子どもは今の私から大変遠く離れてしまっているので、いかなる物語、いかなる旅をもってしても、私がふたたび結びつくことは出来ないだろう。」

「唇に天空と雲の湿り気を…」というくだりが衆を絶している。この散文的なポエジーは書いてみたり声に出してみたりすると本当にぞくぞくする。

「何かが私にあたえられ、何かが取りもどされたのである。それは私の幼年時代には決定的に欠けているものである。すなわち父親がいたということ…/しかし始めてアフリカに着いたとき、私が受け取ったものはすべて覚えている。まことに強烈な自由、それで私の心が熱くなり、酔いしれたほど、私が苦痛なまでにその喜びを享受したほど強烈な自由。  私はエグゾティズムのことなどは言いたくない。子供たちはそんな悪習とは絶対に無関係であるからだ。というのも子供たちは人間たちや事物を通して何かを見るのではなく、まさに子供たち自身だけを見るからである。…」

子供にはエキゾチズム、すなわちサイードの言う「オリエンタリズム」とは無縁だ、と断言するル・クレジオの言葉は印象的だ。そしてそれは正しいように私には思われる。子供は――子供による部分はもちろんあるかもしれないが――自然を文化としてではなく、もっとストレートに受け取る。それを子供の時代に感じるか感じないかということは決定的に重要なことである気がする。「都会的」な作家とそうでない作家がいるとしたら、そういう「自然」が体内にあるか否かという問題である気がする。都会的な作家の書く自然はどこか「オリエンタリズム」がある。が、まあこれは蛇足だろう。

いずれにしろ子供のころ、あるいは大人になってからも、どのような「刻印」がその人間に押されるかというのが決定的に重要なことであって、ある人間は植民地主義者になり、ある人間は植民地主義的なエコロジストになり、またある人間は非都会的作家になり、ある人間は自分が何者かわからないまま彷徨い続ける。植民地化と脱植民地化という過程は、そういう意味では一人の人間にとってはあまりに巨大なサイクルであって、ほとんど善悪を超越しているというのが正直なところだろう。その善悪を超越しているという表現ですべてを済ませてしまっていいかといえばもちろんそうではない部分があるということは私も思うけれども、まず個人にとっての体験の意味の方が、少なくとも文学にとっては、先にあるべきであると思う。

植民地化と脱植民地化というサイクルは、基本的には西欧文明の持つ「過剰な性格」がもたらしたものだろう。だからそれはむしろ文明の原罪というべきで、文明自体の再検討がない限り、違った形でこうした「過剰」の生む害は繰り返し生産されるように思う。重要なのはそれが「過剰である」ということをどのように認識すればよいかということであって、そのためにはおそらく文学というものが、大きな働きをするのだと思うし、そこに多分、ポストコロニアルという理論の存在価値があるのだいう気が私はする。(6.13.)

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