私のお勧め 閑かな気持ちになりたいとき
そのままの自分を曇りない眼で見つめること。
閑かな気持ちになりたいとき(2006.11.8.)
毎日忙しく、気がつかないうちに苛々して、気持ちがささくれ立ったりしているときがあります。 そんなとき、私は「閑かな気持ちになりたい」と思います。癒しや気分転換もいいのですが、自分の中から余分なものを取り去って、自分自身としずかに向き合う。そういう時間があってこそ、人間は新たなエネルギーを得られるのではないか、と思います。 そういう時、古人は茶を点てました。一つ一つの動作に集中し、水のにおいやお茶のにおいに敏感になり、お湯のたぎりの音や茶室外の竹林を吹き渡る風のさわさわという音を聞く。そうした中で自分の中の自分そのものの形を再確認し、よけいなものを殺ぎ落とし、精神も肉体もリフレッシュさせる、そういう作用が茶にはあったのだと思います。 私は茶に親しんだ経験はほとんどありません。茶室のありさまやそこでの精神の動きなども想像するだけです。茶を学ぶ機会があれば、その中のどれがほんとうで、どれが想像に過ぎないことなのか、分ってくるだろうにと思います。 しかし、しずかな気持ちになる方法は、茶を点てることだけだろうか。 ふと空いた時間、本棚にある本をじっと見ていて、白川静 渡辺昇一『知の楽しみ 知の力』(致知出版社、2001)を手に取った。もう5年前の本です。先日なくなった白川静先生と、保守派の論客であり英文学の泰斗でもある渡辺氏の、知をめぐる対談。以前も白川先生と呉智英氏の対談を読んだことがありますが、それは少し格が違いすぎるというか、やはり呉智英も言うことは面白いが、白川先生との対談ともなると「借りてきた猫」的になってしまうなあと思った覚えがあります。この本は、渡辺氏もまた戦前に教育を受けているので漢文教育という点での共通点が大きく、話もしやすいように思いました。 その中で、白川先生の日常について言われているところがあります。毎日同じ時間に起きて、同じように研究する。一日30枚をノルマにして午前中に20枚書いてしまう。そして休憩をするとき、お茶を点てるのだそうだ。きわめて古風な、しかし堅実な研究スタイルであり、生活スタイルだと思った。 私はこれを読んでとても安らぎを感じたし、その「茶を点てる」という文字を見て、ああ、自分は「閑かな気持ち」になりたかったんだなあ、と思った。癒しも気分転換も、他から与えられるものです。他に期待して自分を整えるというのは、やはり何か弱いところがある。しかしお茶ならば、もちろんお茶というものの力、水というものの力、火というものの力を借りることは確かだが、すべて自らの意志で整えられるところがある。しずけさというのは、そういう「そのままの自分」をもう一度曇りなく見つめて、自分自身の中から自然に湧いてくる――その自分自身とはもはや限定された自分という個人ではないかもしれないが――力を感じることではないかと思う。 ほんとうは、人間というものは、そういう「閑かな生き方」をしなければいけないのだと思う。しかし、悲しいかな力不足で、そういう生き方は叶わない。だからそういう生き方を実践できている、白川先生のような生活を知ることによって、自分の中の「しずかさの扉」を開かなければならないのだろうと思う。 少し語りすぎたかもしれない。白川先生のご冥福をお祈りしたいと思います。(2006.11.7.)
|
|||