2012年01月14日

水に浮くもの

 遠くで小さく、女の子の声が聞こえる。あれはミナだろうか。
「ミナ、そっちへ行っちゃあぶないよ」
「大丈夫だよ、お母さん!
 私は森の中を走っている。踏み慣れない道を、底の平らな靴で走っている。迷路のような森の中に悪夢のように根を張り枝を伸ばした大木がいくつも立ちふさがる。私は大きな根につまづいて転ぶ。
「ミナ、どこにいるの?」
「こっちだよ、お母さん!」
 私はおろおろして、靴を脱ぎ捨て、裸足で落ち葉を踏みしめ、張り出した根をまたぎ、ぽっかり空いた根と幹の間の空洞を潜り抜け、手探りで道を探す。スカートが足に絡みつき、いつの間にかひざが大きく破れている。ストッキングに穴が開き、ひざの内側にはみみずの這ったような傷ができて、血がにじんでいる。
「ミナ、どこにいるの?」
「こっちだよ…」
 急に声が消える。そしてその一瞬あとに、長い恐ろしい悲鳴が聞こえた。
「お母さん!」

 耳元で大きな声がした。私は飛び起きる。
「お母さん、大丈夫?またうなされてたよ」
 あたりを見回す。見なれた寝室。隣で寝ていたみなが心配そうに私の顔をのぞきこんでいる。
「大丈夫よ。また夢を見ちゃった。何度目かしら。」
 ミナは苦笑する。
「もう、お母さんたら、そんなに私が心配なの?」
 ミナが心配?そうよ、もちろん。でも、そうかしら?
「お母さん?」
 ミナが私の顔をのぞきこむ。
「私はそんな危ないことしない。大丈夫よ。」
 頭がくらくらする。ミナの声が、現実の側にあることは、わかる。時計がかちこちと時を刻む音がする。あれはどちら側の音だろうか。
「いま、何時?」
 ミナは枕元の目覚めし時計を手に取る。
「まだ四時半よ。お母さん、汗びっしょりかいてる。パジャマ着替えたら?」
「ごめんね、心配させて。」
 私は朦朧とした心持ちで立ち上がる。
「危ない!」
 私は布団で寝ているのかベッドで寝ているのかもわからなくて、ベッドの上に立ちあがってしまったのでクッションを踏み込み過ぎ、よろけてしまったのだ。ミナが急いで立ち上がって私を支える。でも小学一年生のミナが私を支えきれるはずがない。私たちは二人で倒れこんでしまった。でも本能的に、ベッドの側に倒れたのでクッションの上でバウンドしただけで何事もなかった。頭がくらくらする。ミナが私に抱きついた。
「お母さん…」
 その抱きしめる力の強さに、私は我に返った。
「ごめんね、心配させて。」
 ミナは泣き出しそうな声で言う。
「大丈夫、どこにも行かないわ。」
「夢の中に行ったまま、帰って来ないなんていやだよ。」
 私の胸が大きく脈を打った。大丈夫だろうか。私は本当に、夢の中から帰って来られるのだろうか。
「大丈夫よ、大丈夫…お母さんはミナを置いてどこかに行ったり、しない。」
 半分、自分に言い聞かせるようにミナに応える。
「本当?」
「本当よ」
 私の腕の中に、私の大事なものがある。私のいのちと同じくらい大事なもの。でもその同じくらいの大事さが不安だ。私の命は、ときどき羽が生えたように軽くなる。この子の命がそうなってしまったらどうしよう。そんなことはない。私はミナのおでこにキスをした。ミナはみるみる笑顔になった。
「いつものお母さんだ。いつものお母さんに戻った」
 そうだろうか。ううん、そうだ。私は、いつもの私の戻ったんだ。キスの魔法。あの人とのキスもそうだった。…私は何を考えているんだろう。私には、私の壊れやすい宝石がある。
 ミナはおでこのキスの感触を楽しむように笑って、私の身体から身体を離した。ミナのパジャマもぐっしょりと濡れている。
「ごめんね、お母さんの汗でミナも濡れちゃった。暖かいのに着替えようね。」
「うん」
 私は髪をかき上げて、両手で顔を覆った。

河童の話

 友達をひとりなくした。いや、本当に友だちだったのかどうかも分からない。
 でも本当は友だちだったのだ、たぶん。ぼくはそうやって、自分をごまかそうとするから。自分をごまかそうとして、友だちだったのに友だちじゃなかったと自分に言い聞かそうとするから。
 でも本当に友だちだったんだろうか。ぼくはあの子にお金を貸してあげて、あの子はぼくにありがとうと言ってくれた。ずっと返してくれなくて、「あの、お金」と言ったら急に、「何お前、返せっていうの?そんなやつ友達じゃない」と言って、口を聞いてくれなくなった。
 そうやってぼくは、友だちをなくしてばかりいる。
 学校の帰り道、一人でとぼとぼと帰る。石ころだらけの舗装されてない道。ダンプが横を通り過ぎる。大きな音。ぼくはとぼとぼと家への道をたどる。帰っても誰もいない。ぼくはランドセルを玄関に投げ入れて、そのまま裏の池に行く。
 池は森の中にある。いつもじめじめ湿っていて、なめくじやみみずがたくさんいる。ぬかるみの中からぼくは意志を一つ掘り起こし、池に向かって投げる。シャッシャッ。水きり三回。小さな池だから、すぐ対岸に届いてしまう。ぼくはもう一つ石を掘り起こす。手は泥だらけだ。今度の石は丸くて、水きり出来なそうだ。ぼくは思い切り池の真ん中に石を投げ入れる。

「いて!」
 何かが反応した。ぼくは驚いた。
「誰かいるの?」
「誰かじゃねえよ全く」
 ぼわああっと水が盛り上がったかと思うと、池の真ん中から巨大な河童が姿を現したのだ。
「河童?」
「おおよ。カッパよ。お前か?石を投げたの」
「うん、ごめん。誰かいるなんて、思わなかったから。」
「まったく近頃の人間は信仰心がねえなあ。この池には何百年も前から俺様が棲みついていて、昔はちゃんと水神様の祠も建ってたのによ。ここ数十年、お供えもないし、いつの間にか悪ガキどもに祠も鳥居も持ってかれちまった。それでも薄気味悪い池だから誰もよりつかなかったのによ。お前こんなところで何してんだ。」
「何って、それは…」
「ははあ、お前、イヤなことがあったな。」
「何でわかるの?」
「おれさまには何でもお見通しさ。あの石は、俺じゃない誰かにぶつけたかったんだろう。」
 ぼくは戸惑った。
「誰かって…」
「どうせ誰かにいやなことされたんだろ?さっさと白状しな。」
「別に」
「別に、だと?お前おれに口答えする気か?」
「く、口答えなんかしてないよ。」
「それを口答えっていうんだよ。まったく近頃のガキは人間の言葉もろくに喋れねえ。河童に意を通じるなんてますます出来っこねえな。ほら、白状しな。」
「何でそんなこと、見ず知らずの河童に言わなきゃなんないんだよ。」
 河童は大笑いした。
「げろげろ。げろげろ。見ず知らずたあ御見それした。そりゃその通りだ。初対面だよなあお前とは。でも俺はお前のことよく知ってるからなあ。初めてなんて気がしなかったのさ。」
「何で?なんでぼくのこと知ってるの?」
「河童は水の神だからさあ。水のあるところならどこにでも現れるのさ。昨日お前、悪ガキにお金を返してっくれって言っただろう。」
「何で知ってるの?」
「そりゃお前、掃除時間にバケツの前で言ったら聞こえるのさ。バケツの中からお前の学校のこと、のぞいていたからな。」
「覗き見してるの?」
「まあな。やめとけやめとけあんなやつ。ろくな人間にならないよ。」
 ぼくはちょっとかっとした。
「やめてよ、悪口言うの。あの子はぼくの友だち、友だち、…」
「友だち、だったっていうのか?」
 ぼくは真っ赤になって頷いた。河童は顎を撫でた。
「お前、友だちってなんだか分かってるのか?」
「と、友だちって、一緒に遊んだりする人のことだよ。」
「お前、あいつと一緒に遊んだことあるのか?」
「う、うん」
「いつもついてくんなって言われてるんだろ?」
「うん…」
「だからお前、あいつに金を貸してくれって言われて嬉しかった。」
「うん…」
「でもあいつは、お前じゃなくて金が必要だっただけだろ。その金で他の悪ガキに買い食いさせてやって、それで仲間を集めてるんだ。お前、また金を巻き上げられるぞ。」
「でも、ぼくは友だちいないから、何にも口を聞いてくれないより、お金を出しても話をしてくれる方がいいんだよ。」
「やめとけやめとけ。金の切れ目が縁の切れ目って言ってな。あいつだって金がなくなりゃ一人ぼっちになっちまう。お前は金で友だちを買ってるつもりかもしれないが、そういうのは本当の友だちじゃないんだぞ。」
「じゃあ本当の友だちって何なんだよ。」
「本当の友だちは、いたいから一緒にいるって関係のやつさ。」
「いたいから…」
「そういうやつ、お前にはいるかい?」
「……」

2011年12月09日

白い箱

 空に白い箱が浮かんでいました。そこに黄色い風船がたくさん、風に流されてやってきました。風船たちはみんな、白い箱にあいさつしました。
「君はどうして浮いているの?」
 白い箱はびっくりしました。
「知らないよ!ぼくは生まれた時から浮いているんだ。なぜ浮いてるかなんて考えたことない。」
 黄色い風船たちは笑いました。
「理由も分からないまま浮いてるのかい?君はずいぶんのんびり屋さんだねえ」
 風船たちは鈴のような声で笑いました。白い箱は傷ついて言いました。
「ぼくを決めつけないでよ。ぼくはのんびり屋さんなんかじゃない。ただここに浮いているのが好きなだけなんだ。天気はいいし、ほら、飛行機雲が出てる。あそこにはきっと、飛行機の墓場があるんだ。墜落してしまった飛行機のたましいが、すうっと白い尾を引いて、天国に向かって行くんだ。」
 風船たちはひそひそ話をはじめました。
「変わった子だねえ」
「おかしいのかな」
 風船たちはぞろっと集まると、白い箱に言いました。
「ごめんね、君はきっと一人で幸せなんだね。ぼくたちはたくさんの人たちがいる所じゃないとだめなんだ。黄色い風船は、人々に愛されてナンボだからね。君みたいに一人で浮いていると、ぼくたちは自分が何なのか分からなくなってしまう。だからぼくたちは、人間がたくさんいるところに行くね。日向ぼっこの邪魔をしてごめん。」
 本当に邪魔だったよ。と白い箱は少し怒っていたのですが、そういうことを隠して言いました。
「ううん、ちっとも。ぼくは一人でここに浮いているのが好きなんだ。じゃあね。」
 黄色い風船たちは、見むきもせずに行ってしまいました。
 白い箱は一人で浮いていましたが、なんだか悲しくなりました。

2011年05月24日

のぞき見する天使

 王女は息を飲んだ。目の前に突然現れた男が、パソコンを打っている。
「何をしているの?」
 王女が尋ねても男は返事をせず、一心不乱にパソコンを打ち続けている。

「返事をしなさい!」
 王女は声を荒げた。もともと王女はそんなはしたない女ではない。しかし、今目の前で何が起こっているか分からず、頭の中が混乱してしまったのだ。男はゆっくりと顔を上げて言った。
「申し訳ありませんプリンセス。つい私自身の仕事に集中してしまい、失礼をいたしました。」
「お前はだれ?」
 男は苦笑いした。
「さすがプリンセス。年上の男に向かってお前とは。」
 王女は少し恥じらった。私は礼儀を失したのだろうか。
「言葉を元に戻しましょう。あなたは高貴な身分なのですか?」
 男は笑った。
「私どもの世界には、高貴な身分の方はほんのわずかしかいません。あなたほどの身分の方は」
「あなたの世界?」
「はい、私はプリンセスを私の世界に呼び出したのです。」
 王女はあたりを見回して息を飲んだ。さっきまで王宮の小部屋で兄王子の仕打ちに腹を立て、一人で泣いていたのにここはまるで見たことのない世界。狭い部屋の中に所狭しと本が積んであり、怪しげな機械が音を立てている。
「ここはどこなの?」
「ここは私の部屋ですよ、プリンセス。」
「私をどうしようというの?」
「どうにもしません。せっかく来ていただいたので、少しお話でもしませんか」
「お前のような者とする話はない!すぐ王宮に私を戻しなさい!」
「まあいいじゃないですか。私もあなたのような美しい女性をしばらくは鑑賞していたい。ここはあなたの世界にはないものがたくさんありますよ。少しゆっくりして行ったらどうです。」
 そう言われて王女は持ち前の好奇心が起こって来た。
「私の見たことがないものとはなんじゃ?」
「例えばこれはどうです。」

2010年02月22日

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桂一は、自分の欲望について考えることがあった。自分が一体そのときに何を求めているのか。桂一は、自分が思考中心の人間であることはよく理解していたつもりだったが、欲望のような身体的なことにまで自分の思考が支配していることにときどき苦笑せざるを得ない気持ちになった。

桂一は、母親に叱られて育った。それは、母が余裕がなかったからだと今では理解できる。しかしそのころの記憶はからだの中にしみこんでいて、今でも母親に話しかけられると身構えることがある。自分は子供のころ、何かが破壊されている。桂一はときどきそう思う。ぶたれたり、何かされたりしたことがあるわけではない。自分が繊細すぎたからだ、と桂一は思う。母が悪いんじゃない。

桂一は、ときどき電車を乗り継いで都心の大きな書店に行き、一日中立ち読みをして帰ってくることがある。そのときに欲しい本を何十冊もメモし、帰りに松林堂によってそれを注文するのだ。松林堂もそれを心得ていて、決して読みやすいわけではない桂一の殴り書きを丁寧に解読し、注文を出す。取次ぎから本が届くのはいつも一週間はかかるのだが、そのうち何冊かは桂一も気がつかないうちに店頭に並んでいた。松林堂はそんな本を本棚からひょいひょいと取ると、桂一専用の大きな風呂敷に包み、桂一に手渡した。お金はいつも月末払いで、支払いが滞ったことはなかった。

「お、このイラスト集。これはいいね。」
松林堂が眼鏡をずらして桂一に言う。
「いや、これまであるとは思わなかった。松林堂さん、もうぼくの好みを全部把握してるよね。」
「いや、実は桂ちゃんが買ってくれなかったら俺が自分のものにしようと思っててさ。やっぱり買われちゃったね。」
それは、ノスタルジックな雰囲気のある少女の線画のイラスト集で、マンガのようなその線で、バッタにまたがって空を飛んでいる少女や、フェリーニの映画のように頭が魚になっている少年をつれて歩いている少女の絵が描かれていた。
「なんだか不思議なエロチシズムがあるよね、この人の絵は。」
桂一はうなずいた。
「何でこの絵に引かれるのかなあ、と室町堂で思ってね。」
室町堂とは桂一のよく行く都心の大型書店だ。
「そうだね。ノスタルジーを感じる部分もあるし、何かひとつの理想像みたいな感じもある。」
やっぱりこの人はわかっているな、と桂一は思う。二人はひとしきり雑談して、風呂敷包みを下げて桂一が店を出たときにはもう春の日も暮れていた。

桂一は自宅に帰ってきた。父はもう寝ていて、母はまだ帰ってきていない。兄弟たちは独立していて、桂一は一人だけ両親の家に住んでいる。桂一は自分の部屋に上がると、今買ってきたイラスト集をめくりながら、ひとしきり考えに耽った。

『自分は自我の壁がどこかおかしいところがある。それでいつも女のことは上手く行かなくなる。千賀子だけは、特にそういうことが気にならないのはなぜだろうかと思う。そのおかしさはたぶん、自分のエロスの問題と関係しているんじゃないかと思う。』

取り留めのない思考は続く。

『自分はときどき、自分の自我の壁がなくなってしまうのを感じる。世界と自分が一体になっているような。それをどういうわけか、いつもそうでなきゃいけないと思っている。ある人間ともうひとりの人間とは明らかに別の人間なのに、どういうわけだかいつの間にか壁がなくなってしまっている。自我がどんどん相手に侵食していくし、相手の感情がおんなじように自分の中に流れ込んできてしまったりする。大体相手はそういう状態に耐えられなくなって別れを迎える。そのことに自分はずっと気がつかないで来た。それはなぜだろう。』

桂一はポケットを探り、ねじれた煙草を一本取り出して火をつけた。

『それは小さいころの不全感によるものだろうか。原初的な母子一体感を、自分が十分に感じられなかったために、今でもそういうものを求める気持ちがあるのだろうか。』

イラスト集をめくって見る。バッタと少女の近しい関係。魚の頭に接続された少年の手足。ほかの画家だったら見るに耐えられないようなモチーフが、この作家のイラストではすんなりと受け入れられ、むしろノスタルジアのようなものさえ感じる。

『いや、母親に拒絶されたからって誰もがそういうものを持つわけではない。もともとの自分の素質によるものなんだろう。自分だって人に違和感を感じることはしょっちゅうだ。違う人間だということは頭ではものすごくよく感じているのだが、人と自分の間に線を引くことに対して、すごく後ろめたい感じがある。それはなぜなんだろうか。』

考えているうちにわからなくなってきて、桂一は考えるのをやめた。もう暗くなっていたがもういとど靴を履いて外に出ると、ちょうど母親が帰ってきた。

「桂一、どこへ行くの。」
「ああ、ちょっと出かけてくる。」
「何時ごろ帰るの?」
「わからない。先に寝ていていいよ。」
「そう。」

それだけいうと母は玄関の中に消えた。桂一は、少し離れたところにある駐車場にいって、車に乗った。エンジンをかけると、快い排気ガスの匂いがかすかに漂った。ライトをつけて夜の道を走り、対向車のヘッドライトを時折眩しく感じて、10分ほど走って夜の海についた。

桂一は駐車場に車を止めると夜の海岸に出た。真っ暗な海からは、低い波のうなり声だけが聞こえてくる。もちろん、誰もいない。道路の街灯がかすかに海岸に届くだけだ。桂一は、流木の上に腰掛けて、夜の海を見た。遠くにかすかに船の明かりが見えた。あれは漁船だろうか。

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桂一が目を覚ましたとき、千賀子はもう台所に立って何やら朝ごはんの菜を刻んでいた。桂一は裸の上半身を起こし、枕元の煙草を拾って一本抜き出し、マッチを擦って火をつけて一息ゆっくりと息を吸い込んでから、細く長く煙を吐いた。桂一は煙草を黒い灰皿の上に置くと、昨夜は枕元に乱雑に脱いだ下着が丁寧に畳んであるのを拾い上げて履き、脇の下の破れたTシャツを着て、青い大柄なストライプのシャツを着ようとすると、シャツは前ボタンが全部留められてあった。桂一は思わず苦笑いし、上のボタンを二つ三つはずすとセーターを着るように頭からシャツをからだに通し、腕と胸元のボタンを留めた。ズボンはまるでアイロンをかけたように――いや、おそらくは本当にアイロンをかけたのだ、折り目がきちんと通っていて、まるでクリーニング屋から帰ってきたばかりのようだと思った。靴下は、青いウールの新品のものが置いてあった。桂一は座ったままそれを履くと、立ち上がってチャックを上げてベルトを締め、部屋のすぐ隣の台所に行った。

千賀子はすぐに気配を察し、
「あ、桂ちゃん、おはよう。よく寝てたね。」
と鍋の蓋を上げながら言った。
「千賀ちゃんはずいぶん早く起きたの」
桂一が落ちてきた寝癖の髪を気にしながら言うと、千賀子は味噌を掬ってみそこしに入れながら
「うーん、わたし朝は早く目が覚めちゃうからね。買い物に行ったりアイロンかけたりしてたんだけど桂ちゃん全然目を覚まさないから。」
千賀子はおかしそうに笑うと、小さな皿に味噌汁を少しとって味見をして、小さく頷いた。
 千賀子は普段から、着物を着て過ごしている。家にいるときはいつもそうだ。出かけるときは洋服のこともあるが、着物の方が楽なのだという。桂一はいつも感心して千賀子の動きを見ているのだが、千賀子はいつも自然に、まるで最初から着物を着てすごしてきたかのように振舞うのだった。
 桂一と千賀子は、物心ついたときからの付き合いだ。最初に会ったときのことなど覚えていないが、二歳のときに千賀子の家が桂一の家の隣に引っ越してきて以来、保育園からずっと同じで、高校のときに桂一は男子校へ、千賀子が女子高へ行っていたけれども、大学もまた同じ国立に通っていて、もう何十年一緒にいるのか分からないほどだった。

 子供のころの千賀子は、今とは違って洋服ばかり着ていた。千賀子の上品なおばあさんは、桂一の記憶の中ではいつも確かに和服を着ていた。今千賀子が着ている着物も、おばあさんからもらったものがたくさんあると聞いたことがある。千賀子が着物を着始めたのはいつ頃だったか、そのおばあさんが大学生のときに倒れ、千賀子が病院に通い始めたころだったかもしれない。おばあちゃんはとりわけ、千賀子が着物を着るのを喜んだ。病院へ行くといっても、家族が出来ることはそうあるわけではない。でも千賀子はかいがいしく祖母の世話をして、おばあちゃんはいつもそれを目を細めて喜んでいた。

 おばあちゃんは退院したもののめっきり老け込んで、千賀子はかいがいしく世話をした。桂一の母もそうだったが、千賀子の母も働いていたので、千賀子は大学に通っているころから祖母の世話のために家にいる時間が長くなった。千賀子は着物で祖母の世話をし、着物での働き方を祖母から教わって、何の不自由もなく家事をこなせるようになった。

 祖母が亡くなったころ、千賀子の父と母の不仲は決定的になり、祖母の葬式を出した後、母は家を出た。妹のさわ子は母と一緒に京都へ行き、千賀子は父と一緒にこの家に残った。父もやがて家に帰ってこない日が多くなり、あるときを境に全く帰ってこなくなってしまった。人の噂では札幌で見かけたというが、定かではない。そんな家族のことを千賀子はどう思っているのか分からなかったが、千賀子は毎朝祖母の仏壇に手を合わせ、朝の家事を済ませると洋服に着替えて会社に通っていた。

 桂一は大学を卒業したあと、司法試験の勉強を二年ほどしたがものにならず、アルバイトでコンピューター関係の会社にもぐりこみ、仕事を覚えると近くに別のマンションを借りてその会社から仕事を回してもらっては納期に間に合わせ、仕事がないときには下駄を突っかけて近くの本屋で立ち読みをする、というような生活を続けていた。

 千賀子と桂一がそういう関係になったのは高校生のときだった。それ以来、ずっと途切れ途切れに関係が続いているのだが、お互いになぜか結婚しようとは言い出さなかった。千賀子はひとりの生活が性にあっているようだったし、桂一も今更千賀子が自分の妻という人になるというのもよく分からないものがあったのだ。

 朝ご飯を二人で食べた後、桂一はちゃぶ台に手をついて立ち上がり、
「ごちそうさま」というと、
 千賀子は
「桂ちゃん、今日忙しい?」
と尋ねた。
「いや、昨日で今度の仕事は仕上げたから、今日は松林堂でも行こうかと思って。」
松林堂とは、歩いて10分ほどのところにある書店である。ご多分に漏れず、経営の苦しい小さな書店だったが、立ち読みをする割りに桂一は必要な本はすべてそこで注文していたので、毎月その店の売り上げに相当な貢献をしていて、店主も完全に黙認していた。ひとつには本の趣味が店主と似ていたからだろう、マンガや週刊誌のほかには店主の好みでだれが買うのかと思うような大きな美術書やイラスト集、建築関係の雑誌や哲学書などが並んでいて、桂一も興に乗ると数万円の画集をその場で買ったりしていた。
「骨董屋は一人いい客がいれば商売は成り立つというけど、ウチの商売が成り立つのは桂ちゃんのおかげだよ。」
と、気のいい店主はいつも言っていた。
時には店の奥の小さな茶の間に引っ張り上げられておばあさんと番茶を飲んだり、店主の小さな息子の将棋の相手をしてやったりしていた。

「今日はちょっとゆっくりしていかない?」
千賀子がお茶を入れながら言う。
「ああ、まあ約束してるわけじゃないからそうしてもいいよ。」
桂一はそういいながら、あの息子にこの間は角落ちにしてやって負けたから、今度は本腰を入れてやらないといけないなと考えてもいたのだった。
「今日はいい天気だから。」
 確かに、千賀子の家の茶の間にはゆっくりとした春の日差しがさしこんでいる。小さな庭にはいくつかの小ぶりな花木が植えられていて、桂一はとりわけ庭の隅に咲いている花海棠の木が好きだった。
「そうだな。たまにはのんびりするのもいいね。」
桂一は靴下を脱いで大の字になって伸びをした。
「桂ちゃんたら。全く自分の家のつもりなんだから。」
千賀子は靴下を拾って小さくたたみ、頭の後で腕を組んでいる桂一の隣に座った。

雀の鳴き声が聞こえる。小さな地方都市の閑静な住宅地で、住民の平均年齢も高く、子どもが同居しているうちもほとんどない。大きな通りからも遠く、本当にときどきかすかに踏み切りの音が聞こえることもあるが、車の音はほんのわずかしか聞こえなかった。

「でも千賀ちゃん、今日は仕事はいいの?」
「うん。今日はお休み。けっこう好きにお休み取らせてくれるからね。今日は桂ちゃんと久しぶりにゆっくり話でもしたいなと思って。」
「そうか。それもいいね。」
千賀子は立ち上がって台所に行き、しばらく冷ました薬缶から急須にお湯を入れると、ちゃぶ台の上にほうじ茶の入った湯のみを二つ並べた。
桂一は起き上がり、胡坐をかいてお茶を飲んだ。
「うまい」
「ありがとう、今日はけっこう上手く焙じられたわ。」
千賀子が自分でも味を確かめながら言う。
千賀子の生活は満ち足りている。桂一はいつもそう思う。

2010年02月18日

20100218-1

白いつぼがほしいと思い、粘土からこね始めた。

2010年02月16日

20100216-1

プリンがふるえている。ふるふるふるえている。ひとくち口に含む。ふるふるふるえている。雨の日曜日。出かける当てもない。車が水をはねる音がする。暗い部屋の中で、裸電球の下でふるふるふるえるプリンを食べている。

20100215-1

私は車のアクセルを踏んだ。国道が街を離れると、スピードが上がる。何もない湖畔の道をスピードを上げて走る。やがて峠道に差し掛かる。曲がりくねった道でブレーキとアクセルを交互に踏み、ギアを入れ替えながら最高地点を越える。ラジオの入り具合が悪くなり、周波数を変える。太平洋斜面から日本海斜面に移ったのだ。

黄色いバラの花束が、ひとつ欲しい。

2010年02月14日

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「私は魔法が使えるのよ」、と彼女が言う。
「何の魔法?」
「バレンタインデイ・マジックよ。」
「何だそれ。」
「チョコレートに愛を込めて贈るの。」
「おいおい本気か?」
「失礼しちゃうわね。せっかく作ってあげたのに。」
「ありがとう。」
「気のない返事ね。」
「なんていえばいいの?」
「そのくらい考えなさいよ。私がせっかく早起きして作ったんだから。」
「へー、早起き。ミサが早起きなんてそりゃすごい。ありがたやありがたや。」
「ふざけないでよ。」
「どれどれどんなマジックが?」
「愛情がたっぷり入ってるのよ。」
「こりゃ苦い。」
「そんなことないわ。」
「ちょっと食べてみなよ」
「……あれ?」
「苦いだろ?」
「おかしいなあ…あ。砂糖入れるの忘れた。」
「なんだそれ。」
「だって、手作りチョコって普通、板チョコ買ってきて溶かして型に入れるだけなのよ。そんなの手作りじゃないでしょ。だからちゃんと材料から作ったんだけど…」
「砂糖を入れ忘れた。」
「うーん。失敗は成功の元ね。」
「しかしこの砂糖の入ってないチョコはどうすれば…」
「作り直すわね。回収しまーす。」
「バレンタインデイ・マジックはどこに行ったの?」
「うるさいわね。」
「……」


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