「個人の義務に対する厳しさ」を否定する戦後民主主義とその帰結としての地方衰退と少子化/教皇フランシスコのリベラルさとカトリック信者の激減/「型」を持つマンガと「型」を作るマンガ

Posted at 25/04/23

4月23日(水)雨時々曇り

昨日は午前中ブログを書くのに少し時間がかかり、書き終えた後銀行と買い物に行って帰ってきて昼食、その後で作業場に本を運んで整理しようと思ったが、整理し切れないまま終わった。今日余裕があったら続きがやれればいいが、どうなるか。

今朝は5時ごろ起きていろいろやり、サンデーとマガジンを買ってきて読んでいた。最近、サンデーの連載の「シテの花」を少しずつ読んでいるのだが、これはお能を題材にした作品で、今までに無かったかなと思う。今回22話なのでバックナンバーを遡れば大体読めるのではないかと思うのだけど、そこまでやる時間と余裕がないのでまだ全体を読めてはいない。

こういう伝統芸能とか歴史とか、実在のものに題材を取った作品というのは、読んでいて基本的に「安心感」がある。というのは、実在のものを題材にしているから、創作的な飛躍に見えない壁があるというか、良い意味での「型」の中に収まる、という安心感があるということだ。これは歴史物などでもそうだが、現実の物語はもうわかっていることなので、それが「型」の基本にあってそのストーリーがどれだけそれに忠実に描かれるか、逆にどれだけそこから離れられるか、みたいな「筋」が最初から通っている、という意味での安心感があるということである。作品のリアリティの根本にリアルそのものがある、と言えばいいだろうか。

これは特に青年誌の作品では多く、ある意味その分野を知るためにそのマンガを読む、みたいなことがある程度通用するわけである。社会問題などを取り上げた作品になるとかなり作者のバイアスが入ってくるので慎重に読まなければいけないが、その分野の基本的な知識の断片みたいなものはある程度吸収できるところはある。もちろんフィクションであるということを大前提にしないと間違った方向に考えが進んでしまうわけだが。

逆に少年誌のファンタジーバトルものとかになると全然そういう意味での「型」がないわけで、物語作法として主人公やライバルキャラ、みたいなパターンはあってもある程度以上はこれまで描かれてきた同種の作品に縛られるとそれは「模倣」になってしまうから、それに陥らないために奇想天外な方向に話を進めて面白く無くなってしまう、という危険もあるわけである。ジャンプ作品は基本的にそういうものが多いが、常に新しい「型」を生み出す才能を必要としているわけで、そこが前衛的だと思う。その意味ではある意味小説でいえば芥川賞的なトライが必要だということで、伝統を描くみたいな「型」のある作品は直木賞的なトライと言えばいいだろうか。

だから「型」のある作品の新しさというのは今まで取り上げられてこなかった題材を取り上げるということにあるわけで、この作品が「お能」を取り上げているということはそれだけで期待する材料になるわけであるし、その描き方の練度というか、「その題材をどのように描くのか、どこまで深められるのか」ということが問われることになるだろう。

まだ十分に読み込めていないので今の段階では「期待」ということなのだが、時間のある時にまとめて読目ればと思っている。

***

https://x.com/100nen_/status/1914325902508409293

ピアニストの久野久という人の話、Wikipediaも読んだのだが、この人はある意味典型的な昔の日本人だなと思う。使命を果たせなくて絶望してしまう。戦後で言えば円谷幸吉と同じだ。少し毛色は違うが野口英世とかも似た匂いがある。痛ましい真面目さ。

これが昔の日本人だ、と感じさせるのは、この心性が第二次世界大戦の時の捕虜になるのを拒否しての突撃とか、そういう戦争での行動にもつながるし、特攻などを許容するメンタリティにもつながるのだろうなという気はする。それはある意味あまり良くない意味での「武士道」の影響だろうか、という気はする。追い詰められた時にそれを打開する角度を変えた粘り腰のようなものがあれば、と思わされる。

もちろんそれは後知恵であって本人たちの倫理としてそれ以外の選択肢が無かったのだろうとは思う。個人の義務というものに厳しかった時代。戦後民主主義というのはそうした「厳しすぎる個人の義務」からの解放から始まったのではないか、と思った。

昔の日本、とか封建的な考え方、とか頑固親父、というような、日本において古臭い印象になっているものというのは、概ねこの「個人の義務に対する厳しさ」というところにある気がする。

例えば、昔は「長男が家を継ぐのは当たり前」であって、それは権利でもあり義務でもあった。戦後民主主義やリベラリズム、フェミニズムがある意味成功したのは、その家父長やその後継の特権的権利を攻撃したことよりも、長男という立場の人間をその義務から解放したということにあるのかもしれないという気はする。

「家」をつぐ、「家」を守るということから解放されて、多くの人々は皆田舎を離れ、都市に集まり、地方は衰退し、「家」を作り守り維持することから解放されて、人々は子供を作らなくなった。少なくとも日本においてはそれは裏表の関係にあるだろう。それが戦後民主主義だったからである。

多くの人が戦後民主主義をいまだに支持しているとしたら、それは「厳しすぎる個人の義務の履行」への反発やそこからの逃避を現実的に選択したということになる。しかしそれで社会の維持が可能かというと、なかなか難しい面もあるだろう。

戦前の厳しすぎる倫理は使命を果たせなかったら命を断つ、という方向にいってしまったが、武士道は使命の履行が名誉と直結していた、ということはあるだろう。使命を果たせなかったという汚名は死をもって償うしかない、ということである。それは名誉を守るための最後の手段だったわけである。

しかし、使命を果たすというのも考え方であり、同じく名誉の感情を持っていたイギリスの貴族たちも「高貴なるものの義務」という考え方はあったわけだが、もっとそこは柔軟に考えていたように思う。

使命を履行することはもちろん義務だが、それはうまくいかないこともある。そうなった時にはなぜうまくいかなかったのかという検証が必要なわけで、ここまではうまく行ったがここからはダメだった、みたいな教訓を残すことが必要だと考え、名誉ある撤退ということもまたあり得たわけである。日本の考え方はあまりに猪突猛進型に過ぎ、「清き明き心」という同期を大切にしすぎで、撤退する合理性のようなものが批判されがちであったことが禍根を残したというふうには思う。個人の義務は大切にすべきだが、それこそ日本の過去の考え方の失敗も教訓にしつつ、失敗を引き受けられる強さも名誉だ、という感覚を養うべきだろうと思う。

最終的に結果を出せば良い、ということで言えば、失敗の経験もまた一つの結果として次の成功につなげることは不可能ではないはずで、逆に全体的な企図の無謀さを示す場合もあるから、個人の結果自体に責任を感じ過ぎない方が合理的であるようには思う。

日本では今でもある程度そういう個人の義務に厳しい考え方は田舎を中心に残っているし、都会の人々も自分の義務にはなるべく寛容でありたいと思いつつ、他人の義務には厳しい人も多い。

特に感じるのは、政治家に対して一般人よりも遥かに高い倫理を求める傾向である。私自身は、政治家の存在は国民レベルを表していると思うし、また政治は結果を出せば良いと思うので、多少の倫理的な適当さは気にならない方だから、数億単位の賄賂をもらったなどの汚職はともかく、政治資金の5万や10万を報告しなかったなどのことで問題にされたり、人に会うのが仕事の政治家が特定の宗教の人と会っていたということで攻撃されたり、「子宮恋愛」みたいな低劣な倫理観のドラマがもてはやされる世の中で政治家の不倫にだけは馬鹿げたレベルで厳しいというのもあまり納得のいかないものがある。

「ノブレス・オブリージュ」というのは公的な義務を果たすことが重要なのであって、それこそ「使命」を果たせばいいわけなのだが、そこに私人としての行動を必要以上に問うのは私はあまり賛成できない。もちろん皇室などの国民統合の象徴の人々にはプライベートにおいてもある程度の倫理を求めるのは仕方ないと思うが、政治家は聖人君子である必要はあまりないだろうと思う。

こういうのも、国民自身が「厳しすぎる個人の義務」を放棄しながらその後ろめたさからか政治家に対してのみ「厳しすぎる個人の義務」を求めているような感じがして、あまりいい感じはしないなと私などは思う。

***

教皇フランシスコの死去に対し、さまざまな論評が出ているが、今日注目したものの一つがこのツイート。

https://x.com/kemohure/status/1914598529978524074

詳しくはこの連ツイを読んでいただければと思うが、つまりはニューヨークタイムズの元記事の論評で、フランシスコはリベラル派として保守派の守ってきた「教皇の不可侵性・無謬性」をなきものにした、という評価を下しているということについての感想である。(元記事は無料公開されていないので読んでいない)

つまり、保守派が彼を批判しているのは、「教皇の神性」を脱色させたことにあるということである。私がこの人をあまり評価できない感覚がどこからきているのかちょっと理解できたなと思った。

彼は自らの遺体をサン=ピエトロ大聖堂に葬らず、サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂に葬るように遺言したのも、初代の教皇とされる使徒ペテロの後継者として、つまり「教皇権神授説」の後継者としてではなく、より赦し=寛容=リベラルな聖母マリアの名の教会に葬られたいという意思の現れと考えられるなと思った。

しかし、ローマ教皇はカトリックの総指導者として、中世、或いは古代以来の伝統を担う存在であり、だからこそ教皇無謬説などの保守的な教義が墨守されてきたわけである。私などはそこへの信頼性が失われたことが、カトリックの信者の激減につながっていると思うし、フランシスコの治世の評価がこれから行われるコンクラーベにも反映されるのだろうなと思う。

つまりは、トランプ政権の示す保守的な方向性に対し、ローマがどういう回答を出すか、ということになるのだと思う。


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