「欧米」という概念的枠組みはもう崩壊したのか/世代間対立と財政積極主義と緊縮主義の鞘当て/日本は「伝統も革新も」でいくべき

Posted at 25/04/18

4月18日(金)曇り

昨日は家の中はまだ寒かったが外に出るとむわっとするくらいの暖かさ。ブログ/noteがなかなか書けなくて午前中の予定が他のことができなかったのだが、昼前に出かけて買い物をしたり、蔦屋でマンガを買ったり。昨日は最初に思っていたより2冊多く買ってしまった。

最初はヤンジャン関係の「カテナチオ」7巻、「ダイヤモンドの功罪」8巻、「九龍ジェネリックロマンス」11巻、「一級建築士矩子の設計思想」4巻の4冊を買うはずだったのだが、行ってみて「片田舎のおっさん、剣聖になる」の全面的に展開されていて、これはTwitterでも話題だったので1巻を買ってみた。また、「本なら売るほど」の2巻が出ているのに気づいたので、これも買って、結局6冊になった。帰るとTwitterで気になっていてマケプレで注文していた「JKと捨て子の赤ちゃん」1巻が届いていたので、昨日新たに入手した作品は7冊ということになる。

そのうちヤンジャンの3冊は連載でも読んでいるわけだけど、他のものは連載では読んでない、いわば「単行本派」である「矩子」と「売るほど」と、旧作の新規開拓の「おっさん」と「JK」ということになる。

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また、「片田舎のおっさん、剣聖になる」が面白かったのでウェブを探したらある程度無料で読めることがわかり、ヤンチャンウェブでミッションなどを達成しながら21話までは読んだ。その過程で他の作品も読んだのだが、「青の島とねこ一匹」「瞳ちゃんは人見知り」が面白かった。これらも何冊か単行本が出ている作品のようだが、こういう機会がなければ目にしなかった作品だなあとも思うし、また日本のマンガ文化の広さを感じさせられたなあと思う。

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世代論について少し思ったこと。

「世代間対立」というものは私は「作られた対立」だと思っていて、これは「階層対立」のようなものを覆い隠すためのものだと基本的には思っているのだけど、いわゆる「氷河期世代」がほぼ1970年代うまれだとすればそれ以前のバブル世代とそれより上の世代がリストラされた人たちを除けば「生き残った世代」ということになる。

60年代生まれの人たちの子供がほぼ90年代以降に生まれているとするとアベノミクスで就職が劇的に良くなった2013年以降に就職している人が多いわけで、「失われた30年」というのが大きな目で見ると不十分なリストラで切りきれなかった世代を抱えたまま日本経済が低迷し続け、バブル世代の退職が始まっている2020年代になってようやくその重荷が軽くなってきたということもあるのだけど、バブル世代自体が「生き残った」お陰でそのいわば「バブルジュニア」の世代が守られた、という側面もあることになり、その世代の正規社員が氷河期世代のスキルの身に付いていない非正規社員を疎んじる、という巡り合わせにはなっているかもしれないと思う。

「会社に守られた世代」と「親に守られた世代」の間に「氷河期の守られなかった世代」がある、ということになりそうで、その辺の理不尽をどうにかするのはそう簡単なことではないなあと思う。

自分が親の面倒を見ていると、高齢者福祉が充実しているのはありがたいことで、若い世代が高齢者福祉の削減を叫んでいるのは、ちょっとどうかと思うのだけど、日本社会を壊さずに維持しながら復活を図っていくことが必要だなとは思う。

減税や給付金の問題と国債の問題について思ったこと。

トランプの高関税政策が90日間という形で延期された理由が国際価格の下落(返済金利の上昇)にあったということから、緊縮財政派、つまり減税反対増税賛成派が勢いづいている感じがある。また、関税対策としての給付金や国民民主党などが主張する減税なども盛り込まれる可能性があった補正予算が組まれないことになったことから国債価格が上昇(金利が低下)したということはあったようである。

日本国債の多くは国内で引き受けているし、今のところドルが混乱すると円が買われる「有事の円」という状況もあり、緊縮財政派の人は基本的にハイパーインフレを心配している人が多いが、「まだ製造業が比較的生きている」日本では円安が進んでも極端なもの不足には陥らないと考えられるし、それほどの心配はないのではないかと思う。それよりも景気を刺激すること、設備投資が積極的に行われること、雇用が促進されることの方が大事だから、現役世代の負担を軽減する減税や的確な財政政策に基本的にはシフトしていくべきだと思う。

これらもバランスの問題なのは確かだから、状況を見ての舵取りが求められるだろう。

トランプ政権のやっていることはなかなか即座の評価は難しいけれども、製造業や農業など「ものを生産する」ことを重視する考え方自体は正しいと思う。国民経済の舵取りをより選択肢が多い状態にしておくためには、何か一つだけに頼るような状況は避けるべきだと思う。

米価格の上昇に見られるように流通システムの不具合みたいなことはまだある(というか新たに生まれつつあるのかもしれない)と思うけれども、考えるべきはむしろそういう問題なのだろうと思う。コメなど売り惜しみしていても最終的には古米古々米になるだけだし、いずれは出てくると思うのだけど専門でない流通業者が何か勘違いしている可能性もなくはなく、コメ取引なども資格制度があった方がいい気もしなくはない。

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「欧米」という言葉はもう成立しない、という與那覇潤さんの議論。

https://note.com/yonahajun/n/na92da1f97c4c

こちらはもともと下の「ローマの休日」をめぐっての「自由の」アメリカと「伝統の」ヨーロッパをめぐる議論からの派生ともいうべき議論かなと思う。

https://note.com/yonahajun/n/n26071bdd00bf

「欧米」とか「西側」という言葉を使うことについては、私は自分なりの慎重さを持って使ってきたつもりだけれども、「西側」というのはもともと「東側」、すなわちソ連を中心とし中国が若頭的に加わった共産圏があっての話で、だからそこに末席っぽく「日本」も加わっているというイメージがあった。「東側」という言葉はソ連崩壊以後使われなくなり、ソ連や中国などを一括りにするときには「権威主義国」などと言われるようになったが、「西側」という言葉はまだ使われていて、それはアメリカ・ヨーロッパ・日本、それにオーストラリアなどの自由主義・先進資本主義国といえる国々を総称するのに具合がいいから使われてきたわけで、そういう意味ではこれらの国が急に体制転換する可能性はあまりないので今後も使えることは使えると思う。

與那覇さんの議論は「欧米という概念はアメリカがヨーロッパを庇護する関係によって成立してきた」ものとし、従って「マーシャルプランによってその関係が成立して以降、つまり戦後の概念」であって、「ウクライナを西側にすることに「失敗しつつある」」現在、トランプ政権の成立によってアメリカとヨーロッパの立場が分かれたことにより、それらの概念は成立しなくなっている、ということだと思う。

これはアメリカの世界主導性、特に西側世界主導性を強く評価した考え方だ、というか「世界を主導する超大国」という考え方、トランプやプーチンの考え方により近い考え方だな、というのがあり、「欧米概念がアメリカがヨーロッパを庇護することにより成り立っている」というのはあまり考えていなかった。日本はよく議論の中でアメリカの軍事的属国扱いをされてきてはいるがまあそんなことはないぞという気持ちは私などは持っているが、そう見える側面もあるということ自体はまあ認めてもいい、というくらいの感じではある。ヨーロッパもそうだ、というのは少なくともトランプにはそう見えていて、「比較的アメリカと同じ方向に考え動こうとしてくれている日本」(90年代に貿易戦争でコテンパンにやられたことと2000年以降小泉・安倍政権の間に「世界戦略的にアメリカの望む方向に成長した」ことが大きいだろう)と違い、ヨーロッパは常にアメリカに異議を唱え、それも常に「上からの」議論であることが癪に触っているアメリカ人はトランプならずとも多かっただろう。

これはヨーロッパの側ももちろん意識的にやっていたわけで、「先進的なギリシャは猛々しいローマを文化的には征服した」みたいな意識でやっていたと言えるだろう。イギリスはまだアメリカと協調的であることが多かったがドイツやフランスは独自に動いていたわけで、ヨーロッパはロシアを飼い慣らしたつもりでロシアに資源的に依存し、いざとなったらアメリカに頼ってくる、みたいに苦々しい思いをトランプ派は持っていることは間違いない。

日本としては「西側」や「欧米」の枠組みが生きていればその中に居やすいし、またその中で戦略的な提言をする安倍外交の先進性もまた評価されていたわけで、枠組みを維持しつつ戦後の総決算を進める、というのはまあ安倍さんの大戦略だったとは思う。

本当はこの時期に憲法改正ができていれば現在の事態にもよりフリーハンドを持って臨むことが可能だったと思うのだが、「財務省主導」「親アメリカ」「憲法を元にした戦後民主主義」という枠については安倍さんすら「抵抗することはできたが解体することはできなかった」ので、結局はまだ大きな宿題が残ってしまっているのだろうと思う。

私は日本はヨーロッパのように伝統もまた復活・維持・発展すべきだと思うし、また一方で新しい創作的な文化も日本独自の自由さで展開していくべきだとも思っているので、「伝統と革新」という二つのテーマを両方生かすようなシステムを構築していくべきだと思っていて、それが例えば政治的には保守主義、文化的には表現の自由の重視、ということが肝心かなと思っている。

それを支えるのはやはり経済的には製造業と農業、つまり生産だと思うし、また研究の自由も必要だろう。そしてwokeのような社会破壊的なラディカリズムは抑制していくべきだと思う。

今後、「欧米」という枠組みが機能不全に陥っていく可能性はもちろんあるけれども、今のところはそこを先回りして心配しない方がいいのではないかと思う。

学者にしても企業家にしても自らの先見性を誇ることはあるし、それはそれですごいとは思うけれども、保守というのは前衛であるよりもむしろ後衛であることに真骨頂がある部分はあり、前衛が混乱しているときに国を守ることこそ保守の役割かなと思うところもある。丸山眞男に「後衛の位置から」という本があるが、丸山とは違う意味で後衛の位置から日本を見守る姿勢もまた必要なものではないかという気はする。

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