日本独自の「少女の誕生」と少女マンガ:女学校教育からの流れ/ソメイヨシノの時代は終わったか/日が長くなった/ソフトボールの新リーグ

Posted at 25/04/15

4月15日(火)雨

今朝は未明から雨。時によっては少し強く降ったり。目が覚めたのは4時過ぎだが手洗いに行ってもう一度横になり、5時前に起き出した。昨日は東京にいたし、よく晴れていたので気温は高かったのだが、昨夜実家の方に帰ってきて、少しストーブをつけた。信州はまだ、特に朝夕は寒い。今朝の今の所の最低気温は7.2度だ。昨夜天気予報を見ていたら山沿いの地方では雪の予想も出ていた。

昨日は午前中にいろいろやった後、友人と会う約束があったので日本橋に出て、あたりを散策したけれども以前自分が行っていた喫茶店などはみんななくなっていて、昔ながらのタバコを吸えるような喫茶店は残っていたけれどもそこに入る気はしなかったから、結局いつものように丸善の3階のカフェで待ち合わせをした。いろいろ話をしてまあいろいろ頑張っている話などを聞いたせいか、自分の状況についても少しは整理ができた感じがするし、元気が出た感じがする。

自宅に帰って実家に戻る準備をし、5時ごろ家を出た。首都高は9号から都心環状線、4号も外苑あたりまでは空いていたがそこから渋滞になり、高井戸まで続いてもう大丈夫かと思ったら三鷹料金所でまた渋滞していた。それでもそのあとは特に問題なく、石川PAについたのが6時半ごろだったからそんなにひどい渋滞というわけではなかったなと思う。もうだいぶ日が長くなっていて、ライトをつけなかったりつけても周囲がまだ明るい状態で長い距離を走れたので結構楽な感じだった。お腹の具合があまり良くなかったので昨日はラーメンはやめて石川ではトイレ休憩のみ。

そのあとは基本順調で境川PAのファミマで夕食に焼売弁当を買い、八ヶ岳PAでトイレ休憩をして実家まで走る。予想よりは結構早くついたので良かった。夜は弁当を食べて少しテレビなどを見て早めに寝た。

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今朝地元の新聞を見ていたら糸魚川・静岡構造線の南側断層の斜面にある千本桜を歌う公園で次世代に向けての桜の植え替えをしているという話が1面トップになっていた。この公園は遠くから見ても春はピンク色に斜面が染まっていて、ほのぼのとする風景が広がる。植え替えの理由は、ソメイヨシノの老木化・立ち枯れだという。

ソメイヨシノの寿命というのは日本中で言われているが、この公園でも危ないソメイヨシノの伐採や太い枝の剪定が進められているのだという。そして伐採されたソメイヨシノに代わり、ジンダイアケボノという品種の苗木が70本植えられたのだという。

私は知らなかったが、ジンダイアケボノというのはソメイヨシノの代替品種として注目されていて、開花時期はほぼ同じで花いろがやや濃い品種なのだという。ソメイヨシノは全て一本の木のクローンだというのは知っていたが、この品種がどうなのかは調べたがよくわからない。

ソメイヨシノは天狗巣病に弱いという弱点もあり、2009年には販売が中止されているのだという。2019年の時点で代替品種として推奨されているジンダイアケボノはすでに17万本の苗木が配布されているのだそうだ。

ソメイヨシノは江戸の染井村で吉野桜の系統から生まれた品種だが、ジンダイアケボノは東京調布の神代植物公園で見つかった品種で、アメリカで雑交配したことで生まれた品種であるAkebonoという品種の中で従来の品種とは違うものとして1991年に命名された新しい品種のようである。染井吉野は漢字で書けば染井吉野だが、ジンダイアケボノは神代曙ということになるのだろうか。古事記や日本書紀に由来する品種と勘違いされそうな名前ではあるが、いい名前だとは思う。

ソメイヨシノよりもやや低い木だそうで、その辺も都会の植樹に向いているとの話もある。国立劇場の前に咲いているのがジンダイアケボノだそうだが、そのうち見てみたいものだと思う。

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地元企業のソフトボールチームが日本女子リーグで昨季3位、優勝したこともあるということでへえっと思って調べてみると、ソフトボールのトップリーグは2021年から「JDリーグ」という名になり、東西8チーム合計16チームが参加しているということを知った。

日本女子リーグはその下位リーグという位置付けだそうだがプラチナセクションとサファイヤセクションに分かれ、リーグ戦と順位決定戦を行い、2022年には地元の大和電機が優勝した、ということのようだ。ソフトボールではプロ化は進めていないようで、従来の企業チーム・クラブチームの延長ということなのかなと思った。

こういうニュースでも見ないと知らないことは多いなと思った。

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こちらのツイートを読んでいてなるほどと思う部分があった。

https://x.com/kingbiscuitSIU/status/1911576909609374176

日本文化、特に現代日本文化において「少女」という存在の特権性は世界において群を抜いているように思うけれども、それは「少女」という階層が「女学校」の誕生によって生まれた、という解釈は当たっている気がする。竹久夢二の流行や星菫趣味の成立という「少女らしさ」、これは「宝塚少女歌劇」の成立もまた大きな要素だとは思うが、全国的に見れば女学校というものの成立が大きな要素になっているようには思う。

もちろん「少年」や「青年」もまた旧制中学や高校、大学などを通じて一つの社会階層として生まれたのだろうと思うし、それは近年までずっと力を持ち続けたと思うが、「少年」や「青年」がの存在価値が失速していった中で「少女」のみが特権的に生き残っているのが現状なのだろうと思う。

現代でも出版部数から言えば「少女マンガ」よりも圧倒的に「少年マンガ」の方が多いのだが、「少年マンガ」は女性も読むけれども「少女マンガ」は文脈が著しく限定(恋愛などに)され、なかなか発展性がないというのはどこかで読んだことがある。だからその文脈以外の作品を書きたい書き手は女性向けより少年誌や青年誌に書くようになる、というのが現状なのだろう。

これが「少女」という存在の元々の限定性からくる問題なのか、何か他に理由があるのかはよくわからないけれども、少女というものが特権的である一方で「少女雑誌」「少女向け書籍」みたいなものは一部を除いて苦戦しているのは興味深い問題だなとは思う。

king-biscuitさんの指摘にあるように現代日本フェミニストらもこの少女という文脈から生まれたある種のフリークスであるというのは欧米のフェミニズムに比べると日本のそれが著しい特徴を持っていることと同じ理由なのだろうと思う。フェミニズムが猛威を振るっている割にはフェミニズム書籍は売れない、というのも少女マンガと少年マンガの関係の相似形のような感じもする。

フランスの歴史学者フィリップ・アリエスが「こども」という存在が近代的なものである、という指摘をしたことはよく知られているが、「少女」というものもまた日本において近代的な存在として、近代学校教育、女学校教育とそれを支持するブルジョア層の中で生まれたということはまた言えるのではないか、と思った。「少女の誕生」とでもいうべき現象だろう。

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