「薬屋のひとりごと」「ブルーピリオド」の短い感想/「ふつうの軽音部」鳩野がたまき先輩に認められる(6)/統一教会解散命令をめぐる大きな問題たち

Posted at 25/03/26

3月26日(水)晴れ

昨日は午前中松本の整体に行き、普段なら松本でもう少し時間を潰すのだが、忙しくてすぐ実家の方に帰ってきて、銀行関係の仕事などしてから本を買いに行こうと思ったが、なんだか疲れたのでまず家に帰ってお昼を食べてからにした。少し休んでいたら近所で工事の音が聞こえてきて、なんだか落ち着かないので本屋に車を走らせて、ビッグガンガンと「薬屋のひとりごと」15巻と「ユーベルブラットII」2巻を買った。

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どちらもビッグガンガンでちゃんと読んでいるつもりだったのに、「薬屋」で子翠の正体が桜蘭妃だったことに気がついてなくて、忙しいとそういうところまで読み落としてしまうのだなと思う。まあ私はどうも羅漢と言うキャラが好きなので、そちらの方に注意がとられていた。特に羅漢が猫猫の養父である宦官の医師に頭が上がらないところなどかなり面白いが、この辺の関係性もよくわかっていないので、読み直さないといけないかなと思った。

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昨日の朝は「アフタヌーン」を買いに行って、「ブルーピリオド」がかなり良かった。「美術部グループ展」のパートが始まった時、これは八虎の森先輩に対する感情の行方に決着がつく話なのかなと思って読んでいたのだけど、思ったよりもいわゆるエモい展開。森先輩が八虎のことをどう思っているのか、また八虎が尊敬や崇拝の彼方に恋愛感情の存在を認められるのか、その辺どのあたりが落ち着きどころなのかなかなか見えにくいので、次回を楽しみにするしかないなと思った。

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「ふつうの軽音部」鳩野ちひろのオリジンとライジング、と言うことでいうと、昨日書いたレイハとの再会による転機を経て、鳩野がボーカルとして認められていく段階に入っていく。ここからの場面をいわば「承認される段階」としてみる。(6)

2巻20話「面影を重ねる」では、弾き語りをしようとしていた鳩野に偶然通りかかったたまき先輩が声をかけ、ライブの失敗について先輩からも「失敗するのも勉強と思って言わなかった」と謝られる。そして部活に来ないことを心配していたけれども「ずっと弾き語り修行をしている」と言うことに驚いて、その成果を聞かせてくれと言うことになり、スピッツの「スピカ」を歌うのだが、ここでこの先定番の一つになる「鳩野の歌が聞くものの過去の記憶を呼び起こさせる」と言うイベントが起こる。

これは一番最初は鳩野自身が視聴覚室で一人で歌っていた時に中学時代の辛い記憶や軽音部に入ってからのたまき先輩との出会いを思い出すのが初出といえばそうなのだが、聞く側にそれが起こるのはこの回が最初で、たまきは中学時代の憧れの家庭教師の先生(女性)の面影を鳩野ちひろに重ねるわけである。そうした記憶がたまきの心の中を和ませて、ちひろの上達を心から褒めてくれることになる。

今まで厘や桃にボーカルの実力を認められて一緒にバンドを組むことになっても自分自身が衒いもあって真剣になりきれていなかったのが、弾き語り修行を続け、レイハの傍若無人なボーカルをきいて、それをきっかけに開花し始めたことが示されている。鳩野自身が「弾き語りの核心」がもう少しで掴めそうだ、と言ってるのはどう評価していいのか迷うところなのだが、ギャグに見せているけれども結構本当にそうだったんだろう、と言う感じは今になってみればある。

これをきっかけに鳩野を取り巻く状況はどんどん好転していくわけで、最初に「観衆として」その歌を認めてくれたのがたまき先輩だったと言うのはおそらくかなり意味があるのだろうと思う。まだその意味を読みきれてはいないのだが。

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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250325/k10014759591000.html

統一教会の解散命令が東京地方裁判所で承認されたが、これはかなり問題を含んだ決定だったと思われる。ここで争われているのは結局は高額献金の問題なのだが、つまりは献金した信者の自由意志を否定する決定ということにもなるわけで、信仰の自由とはどういうものか、ということについてどこまで議論されているのかという問題になる。

統一教会が問題のある宗教団体であることは早くから知られていたが、結局は信仰の自由との問題で踏み込めない部分があった。オウム真理教のように明らかな刑事事件を多数起こしているわけではなかったから、民事のみの問題で解散を認めたことになり、これが先例になると他の教団に対しても弾圧の手が向く可能性はあるだろう。

カルトの問題というのはいろいろあるけれども統一教会の場合は「高額献金」ということで、それを取り締まる反カルト法のようなものはもっと早くから吟味したものを提出できる可能性はあったようには思うし、もしそういうものができていたら高額献金自体を違法として刑事化できた可能性もある。

ただこれは例えば文化活動に高額な寄付を行うとか、そういう行為とどのように区別するかというような難しい問題もある。また宗教二世問題の本質の一つには本来相続できるはずだった財産が教団に奪われたという形でもあるわけで、逆に親の側が子に相続させたくないから寺院などに高額な寄付をするというケースとどう違うのかなど、そう簡単に決着がつけられる問題でもない。

曖昧な形での解散命令は信教の自由を重んじるアメリカなどから批判を呼ぶ可能性もあるが、その辺りのところも十分に考えているとはいえないように思う。カルトとして取り締まるならその根拠法はきちんと設けないと、罪刑法定主義の根本が崩れるし、「お気持ち司法の暴走」はさらに進んでしまうだろう。

根本的な問題として、安倍首相が宗教二世に暗殺されるという事件がきっかけでこの問題が取り上げられたことは、テロリストの主張が政治的に利用されたということでもあるわけである。岸田前首相にとっても石破現首相にとっても最大の反対勢力であった安倍派に対する攻撃としてこの統一教会問題は使われ、「テロリストには何も与えるな」というテロ対策の基本が疎かにされたことは、政治家や夜職女性を狙ったテロが何件も起こっていることと無関係ではないだろう。テロリストの主張は取り上げられ、拡散される。そしてついに暗殺者が最も憎んでいた統一教会に解散命令が出たということは、テロリストの主張が成就したということでもあるわけである。

逆にいえば、卓越した指導者を失った安部派が右往左往し、これが自分の保身のみに走って信仰の自由の問題に見せかけた阿部は攻撃であることを十分認識しないまま追い込まれ、政治資金問題で追い討ちをかけられて気息奄々になっているというのは、本当に体たらくだと思う。安倍氏を失ったことは安倍派だけでなく日本にとっても世界にとっても大きな損失なのだが、それを政治的に利用したこと、またされることを許したことが現在の日本の混迷につながってしまっていると思う。

「被害者救済」がどんな枠組みになっていくのかはわからないが、きちんと枠組みを定めて対処すべきだと思うのだけれども、そういう動きもあまり見えない。最初のボタンの掛け違いが大きな災いにつながらないようにしてもらいたいのだが、今のアカデミア・メディア・司法は三位一体でwoke化している傾向があり、このコングロマリットがきちんとこの問題に対処できるのか、お気持ちだけで済ませてしまうのではないかという懸念がある。統一教会サイドにも学者もいるのだから、より客観性のある形でこの問題に当たってもらいたいと思う。それが石破内閣にできれば少しは見直してもいいと思うのだが。


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