戸締り用心火の用心と一日一善/多摩地方の東京移管から132年

Posted at 25/03/14

3月14日(金)晴れ

今朝の最低気温は1.1度。まあこの時期としてはこのくらいだろうか。マイナスにならないだけいいかという感じである。明るくなるのもだいぶ早くなってきた。

今朝は燃えるゴミの日なので家の中のゴミをまとめ、作業場に行ってさらにゴミを回収し、まず週刊漫画タイムズを買おうと東のコンビニに向かったら、国道が封鎖されてて何か事故かなと思って別ルートに行ったらそこも封鎖されていたのでかなり大きい事故なのかと思ったが、さらに別ルートから国道に戻る道を走っていくと、左手後方から大きな煙が見えて、そうか火事か!と思った。詳細はわからないが、あれだけ封鎖しているということは国道に大型消防車を止めて消火しているということだと思うが、広がらなければ良いがと思う。早朝に出かけると道路で小型動物が轢かれて死んでるのを見つけたり、あれっと思ったら火事だったりということが何度かあったが、乾燥しやすく風もりまだ寒いこの時期は火事は要注意だなと思う。戸締り用心火の用心。お金は世のため人のため、ちょきちょき貯金の金曜日。ものを大切にしよう、一日一善!

https://www.youtube.com/watch?v=xViRnw9rELI

このコマーシャルはよく見てみるとオールスターキャストで、船舶振興会(日本財団の前身だ)会長の笹川良一氏はともかく、高見山関に山本直純さん、チンパンジーはオリバー君かなと思ったら違っていた。

そういえば、一日一善という言葉も聞かなくなったな。一日一食中華食、という言葉もあったが。

積善の家に余慶あり、ともいう。徳を積みたいものである。

***

ネットではいろいろな話題が取り上げられているのだけど、東京における多摩地方の地位、みたいな話が少しでていて、私も元々子供の頃は多摩(府中市)に住んでいたので地元感があるのだが、やはり東京都における多摩地方の地位というのは特殊なものがある。

元々東京府というのは東京市と本当にその周りの近郊だけが取り出され、元々の武藏国の北半分は埼玉県に、東京府以外の部分の南部は神奈川県に所属していたのだが、それが1893年、つまり日清戦争の前年に三多摩地方、つまり北多摩・西多摩と南多摩が東京府に移管されたわけである。大規模な都道府県域の変化はこれが最後だろうと思う。

北多摩・西多摩の移管は基本的には東京府の水道確保、つまり玉川上水が西多摩郡の羽村で取水し、北多摩を通って市内に導水することから、水源からの経路を東京府で確保し、管理することが目的だった。南多摩郡はそういう理由はないわけだが、当時の南多摩は新撰組の故地でもあり、反政府という意味での自由党の勢力が強い地域だった。

第1回衆議院総選挙が1890年、選挙大干渉で知られている第二回総選挙が1892年だから、ここまでは多摩地方は神奈川県の選挙区だったわけである。第2回総選挙では神奈川県は7人の当選者のうち6人が自由党で、1区横浜市が立憲改進党の島田三郎という議席配分、つまり全員当選者は野党だった。多摩地区は神奈川3区で定員二名、二人とも自由党で当選している。

この辺は掘り下げればもっと出てくると思うが、要は多摩地区が東京になったのは案外新しい、ということである。その後の鉄道網の発達でも東京に出る東西の鉄道は発達したが南北に走るのは横浜から八王子を経て生糸の生産地である群馬を結ぶ横浜線と八高線、国分寺から川越を結ぶ現在の西武国分寺線と新宿線くらいしかなかった。今でもそれに武蔵野線と多摩モノレールが加わるくらいだが、道路交通も似たようなもので、環状道路が整備されるのは環七が1964年つまりオリンピックの年で、環八の全線開通は石原都政下の2006年である。

多摩地区については書きたいことはいろいろあるが、今日はこの辺で。


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