「読み書きするほど賢くなくなる」問題と「学者、この喜劇的なるもの」/中南米の大衆社会と独裁/中学受験の功罪
Posted at 25/02/01 PermaLink» Tweet
2月1日(土)晴れ
今日から二月。東京では中学受験の本番が始まるということで、頑張ってる6年生も多いのだろう。今は実家にいるのでそういう雰囲気はネットでも見ていないと気がつかないが、ここ数日そういう話題がいろいろあったのもそれだけ中学受験を現実的な問題として捉えている人、関わっている人、関わってきた人が多いということなのだろうなと思う。
私は中学受験はしたことはないが、塾講師のアルバイトで数年間中学受験の生徒を教えたことはあるので、その雰囲気はある程度は知っているが、それももう昭和末期のことなので、今はまた当時とは違うところは大きいだろう。甥や姪たちの受験も見聞きはしているが、それもかなり前のことなので、最近の状況などは「二月の勝者」などのマンガで知ることの方が多い。いろいろ言われてはいるが、みなさん頑張ってもらいたいと思う。
受験は本人の意思か親のエゴか、みたいな論争がネットにあったが、自分が教えた印象ではできる子やどんどん伸びた子は楽しんで勉強していたイメージはある。ただこれはある種の生存者バイアスかもしれないので、中学受験の全体像みたいなものとしては分からない。灰色の思い出という人も当然いるだろうと思うし、実際にそういう子供達を知らないわけではないけれども、それが中学受験というシステムがもたらす弊害と言い切っていいのかどうかはよく分からない。
***
私が関心を持った地域というのは子供の頃はもちろん日本で、それが拡大して三国志とかに現れる中国になり、子供向けの物語の舞台だったヨーロッパに飛び、シルクロードブームなどもあって中央アジアに興味を持ったり、大学で東洋史で取ったイスラム世界に興味を持ったりとさまざまな場所に関心を持ってきた。
社会問題的に東南アジアに興味を持ったり、スピリチュアルや仏教の関連でインド世界に興味を持ち、「十五少年漂流記」を思い出してオーストラリアやニュージーランドに、などと関心は移って、結局西洋史学を専攻し、しばらく中世史をやった後修士課程ではフランス革命で論文を書く、という感じになった。
結局大学には残らずさまざまなところに関心を持ち続け、911のあたりからアメリカ史に、またそれに対抗してきたものとしてロシア史にも関心を持って、一時期はプーシキン全集を読破(もちろん日本語で)したりもしたのだけど、それか一つを専門にする、という感じではなかった。近年はアフリカ史に関心を持ち、今でもアフリカの現代事情やその背景になる歴史についていろいろ読もうとしている。
一昨年にはマスの侵攻からイスラエルのガザ攻撃が始まり、その辺りでかなり中東史というかイスラエルの建国とシオニズム運動、イギリス委任統治領パレスチナ以来の歴史などをそれなりに読んで、そこから派生した関心としてハザールあたりの歴史に関心を持つ、という感じで世界史に関する関心は推移してきた。
後半の方では私のブログ・noteを読んでくださっている方はああこれについては読んだことがある、ということはあるかもしれない。
ただその中でも今まで読んできた中で一番掴めてない地域・世界が中南米で、ガルシア・マルケスのマジックリアリズムとかいろいろそういう議論を読んでは見たがあまりぴんと来なかった。日系ブラジル人の勝ち組の問題とか、チェ・ゲバラなどの国を超えた革命家たちの行動とか、それぞれ別の国でありつつラテンアメリカ「世界」というものの存在を感じたりする面もあり、不思議な世界だという印象だった。
(後もう一つは太平洋世界なのだが、これもヤポネシア文化論などイメージはなくはない。諸星大二郎「マッドメン」などの印象が強かったりはするが)
1920年代には先進国の一つとも言われていたアルゼンチンのその後の不調とか、エヴァ・ペロンなどの大衆性、その拠って来る源のようなものがなんだろうという感じをずっと持っていたのだが、今朝いくつかのツイートを見ていて、これはつまり日本やヨーロッパ、アメリカなどよりも早く「大衆社会」が訪れていて、「独裁者」が現れやすくなっていた、ということなのかもしれないと思った。
南米はもともと多様な社会であるために、それを束ねる=ファッショが必要だということなのかなと考えたりした。
アフリカなどではヨーロッパに植民地化されてきたという記憶がまだまだ新しく、アフリカでまとまって対抗していこうという意識(パンアフリカ主義)とかアフリカ連合などが作られているわけだけど、とりあえずは独立して本国とは別の政治社会を形作りながらも、白人・黒人・インディオという起源も持っている歴史も異なる人々が混在してきた社会だからなのか、なんというか地域の主体性みたいなものがあまり感じられない感じがする。なんと言えばいいか、その地域なりの「理想」というものがないと言えばいいのだろうか。
アジアはアジアなりにそれぞれの国の宗教があってその宗教の持つ理想みたいなものが国の価値観としてある感じがするし、近代日本は明治維新によって成立したある種の革命国家だから、その革命の大義みたいなものが国の理想としてある、という面はある。
南米も基本的にはカトリックという宗教があるわけだけど、どうもそれが地域を律している感じもあまり強くなく、その中でうまいことやろうとする人が多いというか、いわゆるサッカーにおける「マリーシア」みたいなものが発達するのもそういうことと関連があるのではないかという気がした。
まあこれは仮説というか手がかりなのだけど、そういう視点を持ってまた南米史を紐解いていきたいなとは思っている。
***
與那覇潤さんの下のnoteを読み、大変面白く、最近の與那覇さんの論調がどういう考えに依拠するものなのか理解できたのは良かったと思った。
https://note.com/yonahajun/n/n39c87ef51fd4
「読み書きをすればするほど賢くなくなる人たち」の問題を「ネガティブ・リテラシー」と呼んでいるのだけど、これには二つ問題があると思った。
いずれにしても原因の一つは近年のインターネットやSNSの発展にあるのだけど、これらはいわば「議論を大衆化させる装置」だ、ということなのだろうと思う。
これらのおかげで多くの人が手軽にさまざまな知識を得られるようになったわけだけど、逆にそれによって大量の「にわか」というか、特に思想的なものに「かぶれた人」や専門知識に対する「半可通」を産み、そういう「大衆」が暴走しているのがある意味現在の状況だ、ということを言えるのではないか、ということが一つある。大衆社会2.0というか、オルテガ的に言えば大衆の反逆2.0と言えばいいか。という状況があるということで、SNSという現代的なアイテムが絡んでいるだけで、オルテガなどによる問題提起の状況と本質的にはそんなに変わってないのではないか、と思ったことが一つある。
もう一つの問題は、「読むことによって賢くなくなる」というのは、本来「民衆」と言われた人たちも自分たちの問題や新しい事態にそれなりに自分たちで考え、自分たちの知恵で解決してきた部分が、なまじ説得力のある「専門家」の知識を気軽に読むことができることによって考えなくなり、大衆化してしまった、という問題が指摘されている。
ただこれは日本では昔から指摘されてきたこと、つまり「漢意」と「大和心」の対立の問題ともいえ、中国から輸入された制度を学ぶのが学問であり、それを使って実際的に当てはめてうまくやるのが「大和心」だ、という考えは日本にはずっとあったわけである。それが現場第一主義としてその弊害も指摘されてはきたけれども、日本は常に新しい知識には貪欲でありつつそれを融通無碍に換骨奪胎して社会の実態に当てはめてきた長い歴史があるわけである。
だから本質的な問題は「知識が簡単に得られるようになったために考えるのをやめて中途半端に知識に頼る傾向がより強くなってしまった」ということにあるのだろうと思う。
そこに「専門家問題」が絡んで来るわけだが、「専門家」はいわば「知識の商人」であるから、知識や知見を提供して主導権を取ろうとするのは当然のことなわけである。だから実際には実践者、政治においては政治家がその意見を聞いて取捨選択する、また会社ではコンサルなどの意見を聞いて経営者がそれを取捨選択する、というのが王道なわけだけど、現在ではそのゴリ押しが強くなっているというか、むしろ政治家や経営者の側が責任逃れをするために専門家にさまざまな判断を押し付ける傾向が強くなっている、という問題でもある、という気はする。
これもまた古くて新しい問題であって、與那覇さんは自身も知識人の立場から「専門家」の横暴を強く糾弾しているのだなと思うのだけど、旧日本陸軍にあっても責任を持つ指揮官・司令官を蔑ろにして参謀が勝手なことをやる、というのが石原莞爾の成功以来定着してしまってかなり多くの悲惨がもたらされた、ということとも繋がる。ただし、専門家が横暴なのか、指揮官が無責任ないし無能なのか、という問題についてはまたこれも論点にはなりうるだろう。日本人は強権的なリーダーシップを嫌うところがやや強すぎるきらいがあり、「下の者のいうことを聞くの上司の理想」みたいに見られてきた歴史があるわけで、「下のものが優れていて責任感もあり、上のものが下のものに任せてバランスを取る」という明治維新の成功の後は「そういうものを全体的に抑制する鍋の蓋的な役割をする指揮的な立場」に立つ人材が明らかに不足してきたとは思う。
有能な指揮官というのはいないことはなくて、その典型が戦前だったら原敬、最近だったら安倍晋三なのだと思うのだけど、彼らが二人とも暗殺されたように、日本においてリーダーシップを取るということはかなり危険なことであるということがある。だからその下で働く専門家がその辺の機微をわかっていないと言いたいことだけを言って場を混乱させる辻政信みたいな専門家が続出することになる。新型コロナ問題やウクライナ問題で専門家たちを與那覇さんが批判しているのも、私からするとそういうことなんじゃないか、という気はするわけである。
人々の考える力の低下というのは一つインターネットやSNSのもたらした大きな問題ではあるのだけど、もう一つの大きな問題は「専門家自体の大衆化」という問題があるだろう。
専門家という人たちは当然ながら自分の分野の専門家であって、他の分野においては基本的には素人だから、一般人と同じなのだが、現代の民主主義状況においては当然ながら何かを実行するのに話し合いや駆け引きが必要になるわけだけど、そういう政治的行為について素人である、という問題は結構大きいなと思う。
西部邁さんが「学者、この喜劇的なるもの」の中で書いたように、大衆とは学者そのものでもある。このことも源氏物語の中ですでに学者というのは滑稽なもの、喜劇的なるものとして描かれているけれども、自分の主張したいことは主張するけれどもそれを実行する力がなく、そのために権力者におもねったり無駄に反抗したりして奇妙なことになることが多い。
それは現代においては大衆が権力者でもあるから学者の意見はSNSによって発信されるわけである。そしてその論理や主張の内容、話の進め方があまりにも拙劣なので嘲笑されたり糾弾されたりすることになるわけである。
以上見てきたように、学者や専門家がSNSを使うということはいろいろと問題が多いのだが、それでも正直私自身としてはそういう発信があるから知ることができることも多くて重宝しているので批判ばかりをするのもどうかなとは思うところはある。まあよく切れる刀というのは使いこなせる人が慎重に使えば役に立つが、よくわかってない人が振り回せば危ないというものでもあり、子供に一定の使用制限をかけるのはある程度は意味のあることでもあるのだけど、言論の自由は民主主義社会の基本的なツールでもあるので大人に対して使用制限はかけられないわけである。
だから大事なことは、というか少なくともできることはそういうものを自覚的に使う、危険のあるものだと意識して使うということなのだと思うし、また「思いて学ばざればすなわち暗く、学んで思わざればすなわち危うし」という2500年前の教訓が今なお生きているのだ、ということを噛み締めておくことなのだろうなと思う。「学び、そして考えて、動け。」という人間の基本は、そうは変わっていないのだと思う。そして「考える」ことの基本にある「常識」もまた。
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