節分/「ふつうの軽音部」はなぜ面白いのか:55話「言葉を交わす」を読んだ/「場所の持つ風土の力を感じ取る身体」と「日常性のよろい」

Posted at 25/02/02

2月2日(日)雪

今日は2月2日、節分。子供の頃は立春が4日だったが、今年は3日。2日が節分と言うと少し早い気がするが、要は太陽と地球の位置関係の問題なので、日付的には多少の揺らぎがある、と言うことだろう。公転周期が自転周期(プラス公転の移動分)で割り切れるわけではないからその辺りは仕方ないのだが。

今年の冬はほとんど雪が降っていないのだが、今朝は久しぶりにまともな雪。とはいえ数十センチ積もるとかそう言う感じではないし、気温も高めなので街の車道はほとんど溶けている。ただそのせいで外が薄暗いから、朝食の時間を見誤って食べるのが少し遅くなり、ブログを書くのも遅くなって、先に母の入居している施設に恵方巻きを届けることになった。

昨夜は9時ごろにはベッドに入っていて、起きたのは5時過ぎだったから8時間くらい寝ているのだけど、どうも上半身に力が入っているのが残っていて、寝覚めとしては最上というわけでもない。行き道だが、少し走ってこようかなと思って冷蔵庫の中を覗くと卵がなく、また牛乳も切れているし、米も無くなってきていたのでセブンでコーヒーを買った後、24時間の西友まで行って食糧品を買った。惣菜類など日中でないと売っていないものもあるのだが、こういう備蓄系はいつ買っても同じなので混んでる日中よりも早朝に買いに行くことが結構ある。銀行だと時間外は手数料がかかって業が沸くのだが、スーパーは特に高くなるわけではないので不規則生活者の味方だなと思う。24時間営業の店はだんだん少なくなっているけれども、西友はずっとそれを維持していてくれてありがたい。資本が変わっても方針が変わらないのもいいなと思う。

https://shonenjumpplus.com/episode/17106567263035943944#

今日は「ふつうの軽音部」の更新日で、朝起きてから55話「言葉を交わす」を読んだが、また面白かった。今回は前半が鳩野のバンドのドラムの桃と鷹見のバンドのドラムの遠野の会話。(以下ネタバレ)自分はもっと上を目指したい、という話をする遠野に対し、「今一緒に軽音部でやっている仲間を蔑ろにするのは違うんじゃないか?」と問いかける桃。遠野がprotcolに加わったエピソードで鷹見の歌に感心した場面が描かれていることで、遠野のこのバンドに対する思いを描いた後で桃が「調子に乗ってると思うわ」とバシッと言い、「鷹見はやる気やん。次のライブで勝負とかガラにもないこと言うとるやんか。あいつはこのレベルの低い軽音部でやる気ちゃうんか」と問いかけることで「まあそうやな・・・」と言わせ、「そしたらお互い頑張ろな!絶対負けんから!」と言う展開は、圧倒的な桃の見せ場であり、常に頑固な遠野を動かせる唯一の存在である桃との関係をこう言うふうに描くのはすごいなと思った。

そう、この作品が面白いのは、つなぎの場面の日常感あふれる展開と、誰かのキャラクターの見せ場の場面のコントラストが鮮やか、つまりメリハリが効いているところが大きいのだと思う。そして見せ場ではそのキャラクターの考えや魅力(良くも悪くも)を全開にする。こうした扱いが本当にうまい。

その巧さはもちろんネームを書く原作者のクワハリさんのテクニックでもあるが、その場面を魅力的に描く作画の出内さんのテクニックでもある。まるで歌舞伎の見せ場のように絶妙の呼吸、絶妙の間でストレートにそのキャラの魅力を見せる、と言うのは言うほど簡単なことではない。ワンピースですらそこに微妙なずれがあることが多い。尾田さんはそこを力技で見せると言う方針だと思うのだが、この作品はそこは古典的な間のテクニックでクリアしていて、そこが普遍的な面白さを生んでいるのだなと改めて思った。

コメント欄を読んでいたら「今いる場所で頑張れんやつが環境変えただけでうまくいくんか」と言う桃の問いかけに対して「その考えは良くない」と言う指摘があり、それは私もそう思う部分はあるのだが、桃が「部活の仲間を簡単に切り捨てるのは違うしそう言うのを大切だと思っていてそんな自分をおかしいとは思わない」と断言することで「これが内田桃だ!」と言う強い印象を読者に与えることができたわけである。その意見が正しいかどうか(まあどんな意見でもアプリオリに正しいと言うことはないわけだが)はともかく、「こう言うキャラクター」としての「強さ」を与えることに成功している。この辺りは上手いなと言うか才能だなと思う。

実際、このセリフはゴーマニズム宣言の運動論か何かに出てきたセリフで左翼活動バリバリの友人が活動から離れようとする小林よしのりさんに言った「今頑張らないヤツが後で頑張ると言っても俺は信じない」と言うセリフと通じるものがあるわけで、小林さんはその言葉に「ガーンと来た」と思いながら、「今の自分はまずマンガを描くことだ!」と懸命に頑張り続けた、と言う話になる。数十年経って再会した彼に対し、小林さんは話が全く通じない彼に「あの頃と全く変わっていない(成長していない)」とがっかりするわけだが、桃の言葉にはそう言う危うさがないわけではないと思う。

もちろん桃のセリフは渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」に通じるものでもあり、自分が頑張ると共に他の人も切り捨てるのでなく一緒に頑張る、と言う「気持ち」を言ったものだから、なんとなく中途半端でモヤモヤしていた遠野の気持ちを吹っ切らせるには十分な迫力があった、ということで納得できるのは確かである。

ただマンガのセリフというのは格言みたいにアプリオリに取り上げられることがよくあるからあまりそればかりが正しいと受け取られると危険かな、というだけのことで、この場面の魅力を否定するものでは全くない。

今回は前半がその展開で、後半が厘の策略で牧田や遠野が動き軽音部の不穏さが嘘のように収まる展開になっていて、波立たせようとした鶴が一敗という感じになるのだが、全体に「会話の大事さみたいなのが部活円満の秘訣」みたいになっていて「言葉を交わす」という副題が説得力のあるものになっていた。

3巻40ページまではジャンプルーキーで連載されていた部分で、この時期も面白いのだが、どちらかというとごちゃごちゃ詰め込んだ感じがあり、メリハリというより一つ一つのアイテムの面白さがうまく演出されて際立ってくるおもちゃ箱的な面白さが強かったのだけど、ジャンプラ版のみになった41ページ以降は一人一人の心情の展開と演出をじっくり描いてよりシンプルな展開になっていて、やはりこれは出内さんという作画者を得たことでアイデアだけでなく絵そのものに説得力を持たせて展開することが可能になったことが大きいのだろうと思う。それまではルーキー版を生かした展開と演出になっていたが、そこから離れてまさに「テイクオフ」した感がある。そしてその第一弾が藤井彩目を鳩野の歌の魅力で仲間に入れる弾き語りの場面になったことは、よりこのエピソードの感動を深くしているよなと思う。

もちろんそれぞれのキャラクターの魅力、鳩野ちひろの一途さとか、幸山厘の策略家ぶりとか、内田桃の明るさ・男前ぶり(それが一番表れたのが今回だった)とか、藤井彩目の口の悪さとツンデレぶりとか、またそれぞれのキャラの過去の重さとか、そういうものがいちいち魅力的なのはいうまでもないのだが、そういう個々の面白さだけでない全体的なしっかりした間合いみたいなものがこの作品の全体を支えているのだと思う。

今まで様々な作品を読んできたけれども、連載開始以来1年経ってもまだマンガに関してはこの作品を読めば満足、ということになってしまう作品は本当に稀なので、(進撃の巨人とかシドニアの騎士とか、昔なら西遊妖猿伝とかはそうだったが)なぜそこまで面白いのかについては本当に考えさせられるし、結局は古典的なところに戻ってくる気がしたわけである。

***

そういうものとも繋がってくるのだが、今朝読んだ舞踏家の最上和子さんの連続ツイートにも今朝はいろいろ思わされるところがあった。

最上さんはアニメ映画監督の押井守さんのお姉さんで、実際に踊りを見たことはないのだが、ツイートはいつも目を開かされるものを感じさせていただいている。押井さんの作品も子供の頃みた「ヤッターマン」シリーズ以外は「スカイクロラ」しか見ていないのだが。

https://x.com/walhallahlaw/status/1885796571742363763

https://x.com/walhallahlaw/status/1885797328180629613

「舞踏の体で外を歩いてみる」というのは意味が分かりにくいと思うけれども、原初的な「踊り」の体、つまり普通の人間が知らず知らずのうちに身につけている「日常的なよろい」を脱いで本当に周り全てを感じ取れる感性を取り戻した状態の体、と考えればいいと思うのだけど、まあそういう体になるためには「日常的なよろい」を脱がなければならないわけで、これはまあ普通に訓練というか稽古がいる。踊りや演劇の訓練というと振りを覚えたり体操的に体を動かすことになるけれども、それによって日常的な身体から離れる部分がなくはないのだけど感受性的には必ずしもそうではない。

「身体性を解放する」というのは自分が演劇をやっていた時に結構取り憑かれていた概念で、それは自分の息苦しさ、生きづらさみたいなものが身体を縮こめているという意識がとても強くあり、それから解放されることを常に念願していたからだ。これは大学時代にやっていた劇団の主宰者のメソッドで自分なりに解放することができた。野口整体や野口体操、その他様々な方法論にであってその辺のところは今でもそれなりに実践している。

つまりはこの「身体性の解放できた状態」から、さらに解放の先の訓練というか自分の身体を隅々まで意識し動かすことができるようになったのが「舞踏の身体」だと思うのだけど、これは常に弛まぬ研鑽がいるから日常性に埋没している自分の生活ではなかなかそれは実現できていない(何しろ正座すらしにくくなっている)のだけど、そういう状態で外、つまり「自然」や「文化」が結実した結晶としての「風土」を歩いたら、ものすごく多くの印象、それは情報と言ってもいいがそれを感じ取るのは皮膚であったり内面であったり、普通の五感を超えた部分で受け取るような種類の情報なのだと思う。

街歩きをしていて本当に楽しい時というのはそういうものを自然に感じているわけだけど、最近はなかなか不愉快なものをシャットダウンしようという、つまり「日常性の鎧」の防衛的な部分が強く働いてしまってなかなかそうもなれないことが多い。

芝居、演劇というものもその原点では「人間が現れて他の人の前を横切る」だけで成立する、という考え方があるけれども、それは全くその通りなのだけど、アニメを思い浮かべればわかるがその二人の人間だけでも成立している背後に豊かな背景が入ってきたらそれだけで感動的なものになるわけで、それこそが風土の力、ある種のアニマであるということはできるだろうと思う。

この「場の持つ力」というものに無自覚な人が政治を担当したりすると無軌道な破壊が進行したりするわけで、それはいわば人間が生きる場としての風土というものの霊的な力が感じ取れないからだ、ということになる。霊というとスピリチュアルで嫌だというなら、自然や文化の複合的存在としての風土に対する敬意を欠いた状態である、と言ってもいい。ある種の非人格存在を霊と言っているだけだから、その存在を感じ取れなかったら元々敬意など抱けるわけはないとは思う。

最近こういう舞踏−演劇系のことをあまり考えていなかったから、これらのツイートには強く刺激され流ものがあった。

***

古典に帰る、ということの意味は、こういう現代人の痩せ細った感性では感じられなくなった霊気というか、近代言語では表せない何かみたいなものを否応なく感じさせられるところにも意味があるわけで、全てを現代的に解釈してわかった気になるのでは古典を読む意味が半減すると思う。

物語でも古典的なパターンを踏むことによって立ち現れてくる何か、というものはあるので、逆にいうとパターン理解から入っている人工知能(AI)の方が実はスピリチュアルな何かに到達する可能性はなくはないわけで、そういう意味でもAIの発達というのは面白いかもしれないと思う部分はある。

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