トランプ政権の成立は世界的な家父長制の復活現象の一つではないか/リベラルほど科学を信じないという日本の珍現象を乗り越えるために
Posted at 25/01/22 PermaLink» Tweet
1月22日(水)晴れ
今朝の最低気温はマイナス4.8度なのだが、どうも朝からずっと考え事をしているせいかあまり寒さを感じていない。生き物としてはやばいかもしれないが、考え事をすることは自分にとっては必要なことなので、と言うか自分にとって必要な種類の考え事をしているので、そう言うことが気にならないと言うことだろうか。
トランプ現象で起こっていることはつまりは世界的な「家父長制の復活」みたいな側面があるのではないかと言う気がする。トランプは気まぐれで自分の気に入った人を引き立て、気に入らない人間を徹底的に攻撃する。彼は自分の処世術をユダヤ人のゲイの人に学んだ、と言うツイートを読んだことがあるが、つまりは「札束でぶん殴る」と言うのはマイノリティの処世術であり、自分をいい人と見せるためにいいことだけ言って無責任なリベラルを嫌い、現実に自分を守ってくれる国家を愛する、と言うのはなるほどと思った。トランプという人は彼自身がマイノリティの素質を強く持っている人で、だからこそ自分の力を絶対的に信じ、強さを演じる。だからこそ、自分がリベラルでキラキラした世界から見捨てられていると感じる多くの人々の熱狂的な支持を受ける、ということなのだろうと思う。
https://x.com/erishibata/status/1881695180904104110
だから家父長制と言っても伝統的な貴族社会的なオーソドックスな家父長制ではなく、マイノリティ的な戦闘的な家父長制である。
まあ家父長制という用語をどう定義するかの問題はあるのだが、とりあえずこの文章ではこういう感じの感覚的な使い方をしておこうと思う。
家父長制というもの、中でもその復活についてずっと考えているのだが、今更それは無理だというリプライももらったことがあるし、ただこの言葉をめぐる感覚のずれみたいなものがある中で議論をするのも生産的ではないなとも思うので、あまり有効な反論はしていない、というかまだできていないというべきだ。
ただ、そうであってもこの文章を書こうと思ったのは、90年代の少女たちの性的逸脱には「社会への反抗」という側面があった、という指摘に対し、当時はまだ家父長制が強く残っていたからその行為が有効性を持ったが、現在ではもうそれはないから性的逸脱に「社会への反抗」というような「プラスの」意義付けはできない、というようなリベラル側の人の指摘があり、ちょっとへえっと思ったということがある。
そうなると現代社会でのフェミニストの人たちが何でもかんでも「家父長制!」と金切声を上げて攻撃するのもあまり意味のあることではないと思うのだが、最近またそういうことを言う人が出てきているのはどう言うことなんだろうと思ったりした。
それを踏まえて言うならば、現在、夜職や風俗で働くことに抵抗のない若い女性が増えているわけだけど、それ自体も家父長制の崩壊にともなく現象だと考えられるわけで、もしそれが良いことだと考えないのだとしたら、家父長制の復活は必要だろうと言うことになる。
しかしそうはあまり考えられていないわけで、それは結局はフェミニストがPTAおばさん的な児童保護主義に走っていて、だからこそ萌え絵叩きみたいな一見家父長制的なことをやっていると言う愚劣な現象が起こっているのだろうと思う。
もう一つ気になるデータを今朝見たのは、日本では科学者に対する信頼度が低く、特にリベラルな人々が科学を信頼していない傾向があり、それはアメリカなどの先進国とは全く逆な現象だ、と言う指摘があった。
https://x.com/m_datasci_/status/1881533716767617369
日本ではむしろ保守の側が科学を信頼し、「リベラル」が科学を嫌う傾向があると言うのはよく指摘されていて、だから「文系リベラル学問など無価値だ」と言う極論を言う人も多いと言う現象がある。
このことについて考えてみると、リベラルが高齢化して科学の進歩に耳を貸さなくなってきていると言う部分はあると思うけれども、より現象に即して言えば福島原発の処理水の問題やコロナを含むワクチンなどの問題を含め、科学の示すところに政治的に反発するリベラルの人が多い、と言う感じが強いのだと思う。そう言う意味で科学全体を御用学問だと見なす雰囲気が出てきていて、リベラルが科学を信用しないという珍現象が起こっているのだろうと思う。
福島原発の問題にしても「フクシマは汚染された土地だ!処理水はどんなに科学的に処理しても汚染水だ!」と言う科学的思考をどこかへやった妙な信仰に取り憑かれている人がたくさんいて、こういう人たちは本来リベラルではなくオカルト系に分類すべき、と言うかこうなってしまうとむしろ「オカルトリベラル」とでも言うべきなんだろうと思う。
「大学」、特にその文系学問の領域がそのオカルトリベラルに侵食された結果、文系の側から科学を市民の側に取り戻すと言う趣旨の「科学コミュニケーション」の分野が全く役に立たないものになっている、と言うことになってしまっているのだと思う。
結局文系と理系の会話が成り立たなくなっているのは主に文系がポリコレつまりwokeイデオロギーに毒されすぎていて科学的思考が成り立たなくなっている(なんだかんだ理屈をつけて批判者との対話を拒み、自らの偏狭なイデオロギーに立て篭もる)部分が大きい。これはやはり教育においても彼らの勢力が強いために「科学的思考」と言うものが十分に身につかないで社会に出る人が多くなっていると言うこともあるだろう。
それは科学が日本の将来を明るくすると信じられていた時代から、「科学とは科学的社会主義のこと」と言う科学の乗っ取りをイデオロギーの側にゆるしてきてしまったために高齢者層にもまともに科学的思考ができない人が多いと言うことも歴史的にはあったのだろうと思う。
文系と理系はなぜ理解し合えないか、と言う問題は多分結構根深いのでもっと考えなければいけないところは多いのだけど、とりあえず今朝見てそれも一つにはあるなと思ったのが文系と理系の話法の違い、と言うことがあるだろうと思う。
理系ならば可能性のあることは一応言うし、たとえゼロに近くても断言はしない。これは「コロナに対してでに対策をしなかったら数百万人死ぬ」と言う疫学者の言葉だったり、「直ちに影響が出る可能性はゼロではないがごく僅かである」と言う言葉に対し、文系が「無責任だ」と感じて攻撃する、という、原発事故やコロナ対策について何度も繰り返されてきた対立である。
つまり、文系の側は「全ての言葉は政治的なもの」と言う前提に立ち、「可能性はゼロではない」と言う科学にとっては当然の文言を「逃げていて卑怯だ」と感じるわけである。逆に理系の側は起こり得ることに対する対策を提案するのは当然であり、人の流れを断つことがコロナの蔓延を防ぐ可能性が高いならばそれは提案する、と言うのは当然なこととして言うわけだけれども、経済的困難を理由にそれを否定する側も、もし諸外国のように数百万人単位で犠牲者が出ていたらどうだったかと言うことについては語らない。
つまりは最終的には「政治的な決断」が必要なわけで、そういう意味での全体を見渡した政治的な決断というものそのものが本来「家父長的なもの」なのだと私は思う。だからそれをやった安倍さんが「強権的だ」と攻撃され、「アベノマスク」などと揶揄され、終いには暗殺されたのも文系リベラルの文脈からは肯定できる、ということになってしまっているのだろう。
安倍さんや岸田さんはなんのかんの言っても自分の責任で決断したことは多い。しかし安倍暗殺後の統一教会攻撃や安倍派攻撃などは自分が責任を取らないように政敵を潰すというよくない意味での政治的な手管を使っていて、自分で責任を引き受けないから家父長的決断の部分をリベラルに嫌われ、責任逃れの部分を保守に嫌われて政権を投げ出さざるを得なくなったのだろう。
つまり、理系の文言を政治に取り入れるためには、「可能性はゼロではないけどこう判断する」とか「可能性はゼロではないからこう決断する」という、はっきりと根拠はないままに決断する必要があり、またその結果高いリスクも背負い当然政治的責任も担わなければならない、つまりは「家父長がしなければならない決断」を背負わなければならないということなのだと思う。
もし日本の家父長制が本当に崩壊したのだとしたら、日本は国家としての体は成して行かないようになるだろうし、そういう兆しもなくはない。こういう家父長制破壊の動きももちろんアメリカのポリコレが日本に導入された影響ではあるのだが、逆に家父長制の復活、例えば共同親権によるPTA的フェミニズムの歯止めなどについてもトランプ政権成立のようにアメリカから入ってきているというのも実情だろう。
まあ日本がこうなってしまうのも河合隼雄さんらがいうようにもともと日本は母権性が強い社会だった、ということは実際にはあると思う。だからその社会の中で明確なリーダーシップが取れる家父長制を成立させていくためには軍事的な契機が必要だったから、武家政権ができ、明治国家ができたのだろう。
だから日本が日本として生き残っていくためには家父長制の復活が無理だろうとなんだろうと必要なのだと思うが、まあかなり感覚的な言葉を使い過ぎているので、これはこのくらいにしておこうと思う。
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