文学が人間が人間として生きるために果たしてきた役割を自ら破壊する文学界のヒトビト/阪神大震災30年と土建業非難がもたらした復興遅滞

Posted at 25/01/18

1月18日(土)晴れ

今朝の最低気温はマイナス6.8度。青森県では豪雪のところも多いようだが、今日は第6回目になった大学入学共通テストの実施日。受験生の皆さんには、万全の準備をするとともに落ち着いて受験されて、実力を100%発揮されることをお祈りします。

期日は前後するが、この時期になると毎年芥川賞・直木賞の発表と阪神大震災の年忌、それに大学入学共通テスト(以前はセンター試験、それ以前は共通一次試験)の話題が重なることになる。

阪神大震災は防災と復興政策の見直しに大きな影響を与えたが、その頃勢いを増していた土建業批判を覆すところまではいかず、土建業を痛めつける政策展開が続いたので、2011年の東日本大震災や昨年(2024年)の能登地震においても復興の大きな足枷になっているように思われる。もちろん防災面で飛躍的に向上したところは多くあると思うのだが、復興の主力となる産業が破壊される理不尽が声高に進められたことはどうもどうした力学の働き方だったのか、今でも疑問がある。

芥川賞は、安堂ホセ氏の受賞が話題になり、彼が「トランスジェンダーになりたい少女たち」の出版を批判して「読まずに批判するべき」としていたツイートが強く批判されていたけれども、今度はそれを擁護した豊崎由美氏が「安堂氏を批判する人は文学に選ばれていない」とツイートしたものだから大炎上する、ということになった。

豊崎氏はこうやって鉄砲玉のように「文学」を擁護し批判者を稚拙に攻撃することで蜂の巣にされるという芸風の持ち主なのであまりそういう人を批判しすぎても意味がないと思うのだが、こうした「文学側」の上から目線の攻撃に強く反発する人は多いわけで、斜陽産業の中でのポジション争いに邁進している滑稽な人、という感じになってしまっている。

日本の文学の現状というのはかなり酷いものがあるのは事実だと思うが、そこはつまりアカデミア(学界)や司法と同じ問題、つまりフェミニズムやリベラリズム、LGBT運動家、多様性主義者、環境主義者などといったwokeに占拠され、wokeに批判的な人たちは締め出される、という状況があるということで、だからこそ世間一般の人の支持を失いつつあるわけである。

文学を盛んにしたいのなら当然ながら「お前たちはお呼びでない」などということは言うべきではないのだが、もうそう言うことさえ考えられなくなっているのが現状なのだろうと思う。本人たちは藤原定家の「紅旗征戎我がことにあらず」を気取っているのかもしれないが、文学の伝統さえ破壊しようとしているwokeを擁護することがどう言うことにつながるのかさえ考えられていないように見える。本当に焼け野原になってしまわなければ良いがと思う。

文学や、文学を含む人文学というものは、本来は身の回りのことだけにとどまらない、幅広い世界や想像上の世界、あるいは遠い過去にも想いを馳せることで、身一つの人間には体験できない広い世界を経験させ、心の豊かさを育むものであったはずだと思う。そうした「文学」が養う「人間らしさ」みたいなものが、それぞれの分野の倫理のようなものに結びついていって、「より人間らしく生きるための科学」や「より個人の可能性を広げる技術」を生み出していったのだと思う。

そうした「心のゆたかさ」というものが、人間としての生を生きる意味、つまり「生きている意味」を実感させるものであったはずだと思う。

自由や平等、あるいは人権といった理念もそうした中で生まれたものであったわけだけど、そういう理念が暴走することで自由主義経済の格差社会に繋がり、あるいは人権を振り回すことで社会の対立を生み出すことを良しとする反人間社会的な運動家たちを生み出すことにもつながってしまった。

人と人とがむき出しの利害で対立するだけになれば、そこに「心のゆたかさ」というものは介在しづらくなり、そうなると「生きている意味」が損なわれ、人々が社会に関心を持たない状況が加速していく。本来それを阻止するのが人文学や文学の役割だったはずなのに、それを推進し押し付ける側になっているのであれば、文学や人文学の存在意義そのものが問われるのは当然のことだろうと思う。

今は文学に限らず、人間そのものを問い、人間らしさとはこういうものだ、というものを提示する方法は数多くある。それは、演劇は古い時代からあったが、あるいは漫画であり、映画であり、私はあまりやらないからわからないがゲームでもあるだろうし、アニメでもある。それらはサブカルチャーとして一段低い位置に置かれてきたが、今やコンテンツとしての勢いは文学の比ではない。出版社にしても、マンガの売り上げによって文学ジャンルが支えられているというのが実際のところだろう。

文学、あるいは文芸評論家は人文学や文学というものの「人間を全体的に捉える力」が評価されて、特に日本では文芸評論家が政治を語り、世相を語り、経済さえ語るというのが一つの定番となっていた。

小林秀雄や福田恒存、江藤淳や柄谷行人、あるいは昨年若くして亡くなった福田和也などが政治に対して物申してきたのはそういう背景があったからだ。

しかし現代ではそういう役割を担えそうな文学者や評論家たちを見ると、日本で最長の在任期間を持つ総理大臣が暗殺されたときに「成功してよかった」と嬉々として語る芥川賞選考委員長とか、自分の意に沿わない経済政策を主張する経済学者の本を「図書館から一掃するべき」と主張する芥川賞選考委員などボロボロの人材しかおらず、タガが外れた状態になっているのが現状だろう。

そうした人たちが選んだ芥川賞作家たちが「読まずに批判していい」「話を聞く必要がない」と意見の違う書籍の絶版を主張したり書店におけるその扱い自体を妨害したり、笙野頼子さんのような少しだけ意見の違う作家を締め出したりするようになったのは、要は彼らの「文学」そのものが痩せ細ったものになってしまい、人々に「心のゆたかさ」をかけらも提供できない貧しいものになってしまった、彼ら自身の足場の弱さ、その脆弱性の表れとしか言いようがないのが現実なのだろうと思う。

先に述べたように、広義の文学というもの、人文学というものそのものは、人間が人間であること、人間の生きている意味、つまり心のゆたかさというものを支えていくために必要なものだと思うのだが、現状の文学界というものは、その妨害にしかなっていないように思われる。

文学が本当に人々に必要とされるものに立ち返るためには、大きな変革が必要なのだろうと思う。


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