韓国のグダグダ戒厳令の顛末と東アジア不安定化への対処/「勉強することの意味」:人間社会で生きる力と人間社会を守り発展させる力を得るため/「法」や「道徳」のできた順番

Posted at 24/12/04

12月4日(水)晴れ

昨日は午前中母を病院に連れていき、そのあとは銀行を回ったり買い物をしたり。朝早く起き過ぎてしまったので昼食のあと少し寝てしまったのだが、早めに職場に行って広告関係の打ち合わせを二件、スケジュール調整1件、配達の連絡一件、お礼一件など、なんだか連絡事項が多かった。

やることが多くて、今日の予定を書き出したら十三件になったのだが、それでもいくつかのことは明日以降に先送りしている。家の外回りのことなども手をつけたいところはあるのだが、そちらに手が回すのはいつできるか考えながら進めたい。お歳暮、年賀状、タイヤ交換など年末進行にもう少し早く入ればよかったが、まあいろいろ理由あって進行状況が遅れているのでどこかで何とかしようと思う。

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韓国で尹大統領が戒厳令を布告、それに反発する野党が閉鎖された国会に数百人乗り込み、無効を決議して数時間後に尹大統領が戒厳令解除を布告、というグダグダの政変劇が起こった。このグダグダさはソ連末期のクーデタ未遂でゴルバチョフが幽閉された事件を思い出したが、平和な国で強権的な手段で国を動かそうとすることの難しさというものを改めて感じさせられた。

韓国にはこの戒厳令に強く反発し、深夜に国会に乗り込んだり国会前でデモを行ったりする人があれだけ多数集まったというのは、韓国では民主主義というものに誇りを持ち、それを失ってはならないと思っている人がそれだけ多かったということでもあるとは思うが、男性はほとんどの人が兵役を経験しているからそうした直接行動にも躊躇いなくうつれる、という指摘はなるほどと思った。

結局、尹大統領は下手を打った、ということではあるのだろうが、その背景には「国家の仕組み」への過信があり、その仕組み通りに事態は動くだろうと考えたのではないかという気はする。実際には理不尽だと感じたときにそれに反発する人たちが多く、思い通りに自体を動かすことはできなかった、根回しや意思疎通、準備も足りず、与党側でさえ大統領のやり方に反発した、というのはちょっとどうにもならない感じはする。

情勢的に言えば、アメリカでトランプ政権が成立する来年1月に向けて、尹政権の維持は難しくなったと考えざるを得ない。居座ろうとすれば朴槿恵政権に続いて大統領弾劾が行われる可能性もある。Twitterを読んでいると、保守は壊滅し、極左が伸張して極左政権が成立する可能性について言及する人がいたが、その可能性はなくはないとは思う。

台湾では民進党政権が中国との距離を保つ外交を行なっているが、日本ではより左寄りの石破政権になり、韓国で極左政権が成立すると東アジア情勢は結構やばい。中国は経済失速で力を失い、北朝鮮は韓国を「大韓民国」と呼ぶなど分離傾向を強めていることから、日本も韓国も気が緩んでいる気がするのだけど、中国は台湾侵攻を諦めてはいないし、北朝鮮は核ミサイル開発を進めているので不測の事態に備える必要はむしろ増しているのではないかと思う。

そんな中で、日米関係や韓米関係を重視してきた尹大統領が下手を打ったということは大変残念なことで、政権交代が起こって左翼政権になることは大変懸念される事態だと思う。韓国も特に若者層で男女分断が進んでいるなど反wokeの動きもあるからそちらに期待はしたいという気はするが、戒厳令施行というのはやはりアナクロニズムに過ぎたのだろうなとは思う。

尹政権の失速と政権交代はたとえば北朝鮮の突然の南侵などがない限り避けられない状況ではあるとは思うが、そうなった場合は、右でも左でもいいからとにかく反日・反米でない政権が成立してほしいと願うばかりである。尹政権も日本側として不満はあるが今までで一番まともな対日対応をする政権だったから、なるべくならその姿勢を維持してもらえればと思うのだが。

保守政権というものは、20世紀的な権威主義的の幻想をまだ持っていて、国家権力の強固さを疑わないところがあり、おそらくはそういう意味で見通しが甘かったのだろうと思う。今日の事態・状況にもきちんと根ざした保守主義のあり方、保守政権のあり方を確立していくことの重要さを改めて思わされた。

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「勉強することの意味」などについて考えたことをまとめようと思っているのだが、とりあえず今の時点で考えたことをメモ的に書いておこうと思う。

「勉強することに意味を感じられない」と言われたら何と答えるか、と考えてみたが、「勉強する意味」は主に二つある、とこたえるかなと思う。

一つは、社会で生きていくための力を得るため。もう一つは、社会を維持していくための知識・技能を得るため。

前者は自分のためであり、後者は社会のためであるが、社会のために働くことが自分の収入を得るためにもなるから回り回って自分のためにもなる。また社会で独り立ちして生きるということは「人に迷惑をかけずに生きる」ことでもあるからこれも実際には社会のためでもある。

いずれにしても、社会を維持し、あるは発展させ、またその中で生きていくためである、というのが勉強することの「意味」だろう。趣味に生きるにしても、その趣味を提供し合う相手は社会の中にいるのだし、生活基盤は社会の中にある。

もちろん根本的には、地球という自然環境の中で生きていくための知識や、その環境を維持していくための働きも必要で、それらは忘れてはいけない。自然と社会の関係というものは、まだ成熟していない感じが強くて、環境派の考え方も経済重視派の考え方も歪な部分が大きいと思うので、これからという感じだけど。

さらに付け加えるとすれば、自然と社会の中で人間が生き、またそれらを守っていくための活動は必要だけど、それらを通して人間が生きるための理想や道徳、或いは人間というものはいかなるものであり、またいかなるものであってきたかを考え、記録したり、音楽やゲーム、エンタメまで含めた広義の人文的なもの、社会や自然に直接的に関わるわけではないけれども人間的自然と言うべきものに関わってくる創作的なものもまた、人間という存在にとっては大事なものなので、そういう形で社会に関わるということももちろんあるだろう。

勉強というものの意味は、そういう意味では多岐にわたっているし、「学校で学ぶこと・学べること」はほんの一部分でしかない。

子供にとっては特に自然や社会との関わりについてはわかりにくく感じることだし、大人にとっては場合によっては広義の人文的なものの価値をあまり認めない場合があるようには思うので、「ものを教える立場」にある人間にとっては常にその辺りはバランスをとって啓蒙していく必要はあるだろうと思う。

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アイデアの種でしかないことだが、人間にとってのルールまたは規範はどういう順番でできたか、ということを考えたのでメモしておきたい。

一番最初にできたのは、「刺されたら死ぬ」とか「落ちたら死ぬ」とか「強い獣と戦ったら死ぬ可能性が強い」とか「物を食べられなかったら餓死する」「溺れたら死ぬ」みたいな、自然的・物理的なルールというか端的な事実に基づく行動規範だろう。自然と言うのは圧倒的な強制力を持っていたはずである。

2番目にできたのは「社会の掟」だろう。これは社会を維持するためのものだから、より現在より相当強い強制力を持っていただろうと思う。つまり、「法」と「道徳」では「法」の方が先にできただろうと思うのである。

最後にできたのが「道徳」「倫理」であり、またそれらの先にある「理想」だったのだろうと思う。それらは物理的な強制力を持つものではないが、内的な強制力は持つ。それらに違反しても殺されるとは限らないが、排除される可能性はある。全てを「法」や「掟」のような物理的強制力で規制することはできないから、「道徳」のような心に訴えかけるものができたのだろうと思う。

つまり、物理的な強制力を伴う法の方が先にできて、内面的な強制力のある道徳の方が後でできたのではないか、ということである。

宗教というのはそういう物、自然の脅威・社会を守る法・内的な道徳を統合するツールとして人を生きやすくするためにそれらを支配する絶対的な存在・説明原理としての神というものを考え出したということではないか。多神教的な世界は人間の不安や夢を体現する個別の神々を生み出し、それらを統べる神の中から絶対的な唯一神が生み出され、それ以外は天使など神の眷属や悪魔などの神の滅ぼされるべき存在に退化していった、ということかなと思う。

まあ頭の中で考えたことなのでそれらの検証はされてないのだが、アイデアとして書き留めておきたいと思う。

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