【推しの子】のラストについて:「アクアの意思」をどう考えるか/アクアはあかね・かな・ルビーに何を望んだか

Posted at 24/11/17

11月17日(日)晴れ

今日は父の誕生日で、生きていたら90歳になる。75の誕生日の後、一月も経たずに亡くなったから、もう15年になるのだな。2009年だから民主党政権が成立した年。あの頃思っていたのとはかなり違う世界になってはいるなと思う。

今朝は、というか正確には昨日急にという感じなのだが、ものを書くモチベーションが急に低下している。まあおそらくは疲れているのだろうと思うのだが、まだ疲れ自体は自覚していない感じでもある。これは体調がおかしい方が先に来て、その後で疲れを自覚することと似ているのだけど、メンタルにもそういう防衛規制みたいなのはあるのだよなと思った。

今日は東京に戻る予定なのであまり時間がなくて、だから朝4時に目が覚めたからいろいろ考えても十分描けるなと思っていたのだけど方向性が定まっていなくて困っている。

【推しの子】については、昨日の続きを書こうと思っていたのだけど結構腰を据えてもう一度読み直さないといけないなという感じがした。最初のアニメ1期の間くらいのところはほぼ暗記しているような感じではあったのだが、その後のところはのめり込み度が減っているので、読み直してみないと思い出さないところが結構ある感じがする。長期連載作品というものはやはり作品自体の濃淡もあるし、こちらの感じ方の変化もあるから、同じようには読めないというところがある。これが長編小説であれば読むこと自体は数日で終わってしまうから、こちら側がそんなに大きく変化することはないし、内容も概観しやすい。気に入った作品でも細部まで全て覚えているかというとだんだん難しくなってくるのが正直なところだろう。

ということで、【推しの子】のラストへの反応について考えたことだけ少し書いておこうと思う。

***

のラストに文句を言ってる人たちは、「アクアの意思」を軽視してるように思う。なぜそうなるかというと、彼自身がこの作品の最大の性的対象であるからなんじゃないかと思った。それが誰かの手に落ちないということを、それを拒否して死ぬことを許せないという女性たちの叫びが大きいのではないかという気がした。つまり、「性的玩具が意志を持つな」という指摘、そのままである。

だからこの現象は完全にフェミニズムによる「男流文学」批判の戯画になってるなと思う。作者さんがそこまで意識してやっているかはわからないが。

逆に言えば、そこまで魅力的なアクアというキャラを作り出せた赤坂さんと横槍メンゴさんがいかに凄いかということではある。そして作画にメンゴさんを選んだ赤坂さんの目がいかに正しかったか。

ヒロインレースというのは逆に言えば誰が王子様をゲットするかの競争でもあるわけだ。

また、アクアがもっと「嫌なやつ」ならこんなことにはなってないだろう。そうならこんなに人気は出なかったとも言えるけど。そして最後にアクアが死んでしまうのは、つまりは「現実にはこんな奴はいない」というメッセージであったかもしれない。

そういう意味ではこのことに現れた構造的対立は、「ヒーローとは自分を殺して皆を生かすもの」という男性美学と、「王子様が誰かにゲットされないと認められない」という女性性欲の対立なのかもしれないとも思う。

私はアクアの魅力よりかなやあかねの描き方の方が気になるし、かなが遺体にビンタした葬式での振る舞いも、フィクションなのだし全然いいと思うのだが、あのように取り乱さざるを得ないというところに女性を追い込むということ自体が、女性を粗末にしていると考える向きもあるのかもしれないなとは思った。

それならば自分の目線から見たらこの物語の結末はどう見えるかということについて少し書いてみたい。

もし自分がアクアだったら、自分が死んだあとあかね、かな、ルビーの三人にはどうして欲しいか、と考えてみると、この三人は全く自分がして欲しいことをしてくれている結末になっていると思った。

まず、アクアの思いを全て理解している存在としての黒川あかねという存在には、ゾクゾクしてしまう。あかねには自分のことを「理解」して欲しい。そして彼女は、誰よりもアクアのことを理解している。理解のあまり、一緒に地獄へ行ってもいいとさえ思っているが、それはアクアが拒否して、彼女はこの世に残された。あかねはアクアを理解しているからこそ、アクアの考えに共鳴する部分も多く、だから必要以上に悲しまないし、かなやルビーを支える側に回っている。そこまでアクアが望んだかどうかは別にして。

そしてかなには、悲しんで欲しい。これは死んでいく側のわがままだけど、自分の一番好きな人に一番悲しんで欲しいのは、「進撃の巨人」でエレンがミカサに望んだことと同じだろう。そして悲しむだけ悲しんだら、立ち上がって欲しい。そして以前以上に大輪の花を咲かせて欲しい。それは多分、かなならいうまでもないだろうと思っているのだろうと思うが。

ルビーには、前を向いて進んで欲しい。何よりもそのために、アクアは身を投げ出したのだから。もちろん深く悲しむのはわかった上で、それでも「ルビーならできるだろ」と信頼している。そういう意味での信頼は、ルビーに対してが一番深い。前世からの魂の繋がりによる信頼もあるだろうし。

ルビーはアイが実現できなかったドーム公演をやり遂げるという目標があって、その実現までを最終話で叶えられたのは、アイもアクアも浮かばれる、という感じはする。だから多分、これはアクア目線で描かれた望ましい未来像だったと思う。それぞれのキャラに思い入れをするなら、アクアの目線に立ってこの話をもう一度読んでもらうとまた違う見え方がするのではないかという気がする。

基本的にこの作品は表紙に水着グラビアを採用する男性青年誌に連載されている作品なのだから、男目線で読む作品なのだ、という考えもあっても良いのではないかと思う。

伏線の回収がしっかりなされていない、という批判もあるのだけど、それはもう少し詳細に読み直さないと論じられないなと思う。またしばらく時間が経ったらふっと考えることもあると思うので、またその時に書きたいと思う。

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