新しいインフラとして受け入れるための「インターネットの歴史」/陰謀論と「人を巻き込む力」:「愚かで勤勉な私たちは」/読書に対する欲望は一言では語りきれない

Posted at 24/10/22

10月22日(火)晴れ

今朝もいい天気だ。最低気温は6度、昨日ほどではないが冷えてはいる。ただ、昨夜からパジャマを冬用にしたので寝ている時に寒いということはなかった。これから数日は全国的には割と気温が高いようで、明日は最低気温が15度というからかなり季節外れだろう。明日は二十四節気の霜降。15度もあれば霜はおりそうもないが、最近の季節の変化はいきなりガクンとくることがよくあるから、冬の備えはしておかないといけないなとは思う。

昨日は午前中ブログを書いたあとマンガを読んで草刈り。裏の畑から山のところの草、というか木に絡んでいる蔓草を主に取って少しは見栄えを良くしたら、なんとなくいい散歩道みたいになった。まあ先祖からの土地があるから、こういうところをそうやって歩いたりする楽しみはせっかくだから味わうといいなあと思ったり。整備するのは大変なのだけど。

昼ごはんを食べてから作業場で図書の整理をしたりしたのだが、モバイルWi-Fiを持っていくのを忘れたのでウェブを使った管理は中途半端になった。マンガはかなりたくさん持ってはいるが、読みきれていない部分もあり、とはいえ書籍の積読よりはかなり少ないが、なるべくちゃんと読もうとは思っている。ついでに作業場の周りの草刈りも少しだけしたが、今日もう少しやろうと思っている。

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村井純「インターネット文明」第2章44ページまで。インターネットの始まりがパケット交換という概念で行われるデジタル通信技術を作ったARPANETと、共通のOSであるUNIXを作ることが始まった1969年で、いずれもその研究が大学で進められた(UNIX自体を作ったのはAT&Tのベル研究所)ということを、改めて確認した。そして1983年にTCP/IPというプロトコルが作られたことで二つの技術が合体し、インターネットが成立した、とのこと。そして1989年にWorldWideWebが作られ、現在のウェブができたという歴史を振り返っていた。普段はそういうことをすでに忘れてしまっているのだけど、自分もネットを始めた頃は最初はパソコン通信で、1994年ごろにはWindows3.1でウェブは見られなくはなかったが表示に異様に時間がかかったので使い物にはなっていなかった。1999年にWindows98のPCを買い、それからようやく現在のようなネット活動を始めた、という感じである。

私のような文系はどうしてもネット技術の良くない面のようなところにどうしても注目してしまうところがあるのだが、元々は当然ながら理系の技術であり、特に工学系、エンジニアの人たちが頑張って成り立たせてきた技術だということを忘れないようにしないといけないなと改めて思った。当たり前のようにあると忘れてしまうのだけど、すでに通信インフラとしてのネットはライフラインや交通網と同じくらい生活には欠かせないものになっていて、それらが膨大な技術の蓄積でできていることは覚えておくべきことだと思った。

インフラだからこそ工学系の人材=エンジニアが多数求められているわけで、他の生活系のインフラや図書館システムなど情報系のインフラとともに整備していくのは国家の責務になっているのだよなあと改めて思う。歴史の浅いインフラなのでともすると中高年層にはその重要性が見落とされがちではあるのだけど、より客観的公平に見ていくためにはこうして「インターネットの歴史」を読み解いていくこともまた一つ重要なことなんだろうと思った。

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私は自分の政治的立場として、いろいろ考えた末、というか自分の経験の中から自分なりの保守主義というスタンスを選んでいるわけなのだけど、実際にはある種理知的な保守主義者みたいな人は現実には多くなくて、生活的な側面から保守主義を支持する人たちや社会の「進歩」を進めなければいけないと考えて革新系野党を支持する人、あるいは極左や極右に走る人とさまざまな人がいる。

その中でも理解しにくいのはいわゆる「陰謀論」に影響されている人たちで、普通に考えればおかしいと思うようなことを信じていることが多い。その辺りのことをうまく作品化したと思われるのが「愚かで勤勉な私たちは」という作品で、ジャンプルーキーで公開されている。(全5話)

https://rookie.shonenjump.com/series/zGZPbQ8IN-I/zGZPbQ8IN-Q

最初は陰謀論にハマった姉を救うためにいろいろ妹が画策するのだが、それを断ち切られたことで生きる意味を見失った姉のために妹が陰謀論を再構築し、社会全体まで巻き込んでしまうというブラックなストーリーで、とても面白かった。

さまざまな思想が世界にはあるわけで、そのどれが自分にぴったりくるのかは、結局は自分でさまざまな思想を読んで自分なりに再構築していくしかないところはあるのだけど、そういう「自分のための思想」のようなものは、自分には訴求力があり納得できるものであっても、人を動かす力がどれだけあるかというと難しい。大半の人がその時々の政治や社会のあり方にどことない不満を持っているのは、もちろん全てが自分の思い通りに行くはずがないという意味で当然のことなのだが、やはり「そういうもの」「仕方ない」と思ったりするのが精々で、例えば選挙などで少しは自分の考えに近いと思われる政党に投票したりするくらいしか影響力を行使することは普通は難しいわけである。

しかしこの作品では妹が姉のために自分が全く信じてはいない陰謀論を作り出し、人々の暗い欲望にマッチする形でそれを巨大化させていき、協力者も得て収入化もできるようになって結果的に「姉を救う」ことになる、という展開になっている。

そうやって世の中を狂わせた結果がどうなるか、というところまでは描いてないのが一つのミソだと思うのだが、この話の範囲では主人公=妹が現実からしっぺ返しを受けることはない。

この話で面白いと思ったのは、つまりは陰謀論には「人を巻き込む力」があるということである。そして、自分が持っているようないわば穏健な思想には「人を巻き込む力」がない。元々はマルクス主義者だった太田竜が冷戦崩壊後エコロジーなどを経て陰謀論にたどり着くわけだけど、そうしたいわばトンデモの思想家がいまだに検討の対象にされているのは、彼がそれだけの影響力を現在にも残している、つまり彼の思想がそれなりの人々を巻き込み、日本の思想状況をそれなりに変えてしまう力を持った、ということになるわけである。

いずれにしても、今では普通の考え方である経済的な自由主義思想や万人は平等であるといった人権思想にしても、元々は一部の過激なトンデモ思想だったわけで、それが多くの人々を巻き込む力を発揮したからこそそれらの思想が現代世界で一つの主流思想になっているわけである。

だから陰謀論そのものよりも、陰謀論がなぜ力を持ち、人々に影響し、巻き込んでいくことができたのかということにおいては、どのような思想を持つ人にとっても重要な示唆がそこにはあるように思う。ファシズムやコミュニズムもまた現代では否定的に捉えられる思想ではあるが、その伝播力の強さは侮れないわけで、その辺りの研究はタブー視するべきではないだろうと思う。こうした陰謀論、特に有力な陰謀論が出てきたときにそれを論破し終息させるためにも、そういう研究は必要なのだろうと思った。

こういうのはおそらくある種のアーケティングの思想と重なるところもあるのではないかと思うのだが、より人間性に突っ込んだ部分と関連してくるとは思うので、慎重に扱うべきところはあるだろう。

いずれにしても「思想は正しいから拡散する」、というだけではないところは見ていかないといけないと思う。

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ネットを見ていたら読書に対する欲望、みたいなことが書いている人があって、自分はどうだろうと少し考えてみた。読書というものを一番貪るようにしたのは小中学生の頃と大学生の頃ではないかと思うが、その頃は本当いうものがあれば周りの条件などはあまり気にならなかった。ただ放課後の小学校の誰もいない図書室とか、上京後の誰も来ない自室で暗くなるまで本を読み耽る快楽のようなものは確かにあっただろうと思う。基本的には「一人であること」が大事で、電車の中なども「知っている人が誰もいない」状況だからこそ読書に集中できる、ということもある。小林よしのり「ゴーマニズム宣言」を読みながら山手線を2周したこともあった。

だからお洒落なブックカフェでコーヒーを飲みながら優雅な読書タイムを過ごす、みたいなのはやってみるのも面白いとは思うし、逆に今のように読書そのものに昔ほど集中しにくい感じが出てくると、一瞬集中が切れたときに再度取り掛かるまでのブレイクタイムがあらかじめ用意されているというのは、悪くはないとは思う。ただ喫茶店は基本的に無制限でいて良い場所ではないから、そういう意味で集中が続かなくなる、注文を追加すべきかとか、時間制ならあと何分かとか、そういうことが読書の集中の妨げになる感じはある。もともと短い時間を潰すのに喫茶店に入るという目的で、ついでに少しだけ読むという感じが自分のカフェにおける読書だなと思う。

カフェ一体型の書店みたいなものが最近はやっていて、松本に行ったときにも哲学書がそれなりに揃っていてコーヒーも飲めるし、穴蔵みたいにひとりになれる席もある、みたいな感じだったがあれは若いときならそれなりに面白い気はするが今ではそういうところで本を読みたいとはあまり思わない。書店に併設のカフェは基本的に本を読んでいる人が多いし、カフェとしての広々とした感じがあるからそちらは良いのだが、カフェと売り物の書棚が一体化したようなところは私には落ち着きが悪い感じがする。床屋の待合に置いてあるマンガや週刊誌なら皆乱雑に扱っているから割ときやすいが、売り物の横でコーヒーを飲むのはやはり落ち着かない。

私は書店に求めるのも基本的に自分が読みたい・書いたい本の品揃えであって、お洒落な本を読みたいわけではなくて「おっ」と思う本を探したいわけである。

小さい書店でそれをやるのはなかなか難しいとは思うが、ないわけではないので、そういう書店には頑張ってもらいたいのだが、往々にして次に行ってみると閉店していたりするので、なかなか厳しいなと思う。

本というものに対するフェチというのはあると思うのだけど、いつも大量の書籍をどこに置くか迷っている身としてはフェチなどと言ってられないところがあり、扱いやすくて丈夫な本棚に対する関心の方がどちらかというと強いなという気はする。

ただ本というものとの付き合いは物心ついた時から始まっているので、これからも大事にしていきたいとは思っている、という感じだろうか。本について書くのは思ったよりいろいろな思いが出てくるなと思ったので、また時間があるときに掘り下げられればと思う。

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