「ふつうの軽音部」と性的少数者、自分自身のジェンダーと運動家への怒り/「レコンキスタ」:宋王朝とスペインイスラム諸国の類似性/「歴史学はこう考える」:政治史における「手紙」

Posted at 24/10/13

10月13日(日)晴れ

木曜から庭師さんが入っていて、昨日で終了。だいぶスッキリした。少し邪魔だったものとか、枯れかけていたものとかも全部取り去ってもらったので、なんかすうすうして頼りない感じさえする。本当は草刈りなども入ってもらう前に進めておくつもりだったのだが、去年今年と10月の前半になっているので間に合わなかった感じ。でも綺麗になると綺麗なところを広げていくような感じでそうした作業も進めやすいから、極力頑張ってやってみたいと思う。

昨日は午前中にお茶を用意したり買い物に行ったりクリーニングを取りに行ったりでばたばたして、お昼から仕事に出て、夜は早めに帰ってきてご飯を食べながら「2.5次元の誘惑(リリサ)」のアニメの録画を見たり、無料で読めた「彼方のアストラ」の1巻を読んだり「実存アンプラグド」を読んだりしていた。9時過ぎに妹から電話がかかってきていろいろ相談に乗っていたら11時を過ぎてしまい、なんとなく「ふつうの軽音部」の更新を待っていた。

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「レコンキスタ」は第6章184ページまで。面白いと思ったのは11-13世紀のイベリア半島のレコンキスタで、キリスト教諸国とムスリム勢力、ユダヤ人らの間である程度の「戦争のルール」みたいなものが確立していてそれに沿って戦いが行われていたこと。アンダルスのムスリム勢力は基本的に文官社会で、まあ言えば中国の宋のような文官優位の社会だったので、兵力は弱く、北方キリスト教世界の騎士たちを傭兵を雇ったり、キリスト教諸国にお金を払って軍事的に協力してもらったりしていたというのは、この辺も宋に似ていて面白いなと思った。そして宋が遼に圧迫され、金に圧迫され、最終的にモンゴルに滅ぼされたように、イスラム教諸国も最終的に山岳地帯のグラナダのみが残る形になった。中国と違うのは南のベルベル人の王国が2度に渡り興隆し、彼らの軍事力によって一時的な優位を築いた時代があったことで、王朝が瓦解するとタリーファ諸国に分裂してまたキリスト教諸国に軍事的に依存したり領土を割譲したりすることになったわけである。

例えば攻城戦の時に期限を設け、また人質を差し出した上で籠城側に外部への救援要請を許可するという慣習があったことで、救援が来なかった降伏する、というルールになっていたのだという。

しかしこうしたルールはイベリア半島諸国の間でのみ通用したことであり、北方の十字軍の騎士たちが参戦すると虐殺とかそういうことが起こったり、ムスリムに寛大な処置をとることに腹を立てて引き上げたり、腹いせにユダヤ人街を略奪したりしたのだという。ある種の国際法のある社会とそれを知らない野蛮な軍のもたらした禍根、みたいな話で興味深いなと思う。

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「歴史学はこう考える」は132ページまで。政治史論文の例として高橋秀直「征韓論政変の政治過程」(「史林」1933)が取り上げられていて、今まで読んでいた範囲では明治政府内部の人たちの間で交わされた書簡が主に史料として取り上げられてその読み方が示されている。書簡という史料はどういう事実があったかを推測できるものであると同時に、政治家の書簡というものは意思表示でもあるので、ストライキをしている岩倉具視に留守政府側の副島種臣が書簡を送るということ自体が譲歩の意思表示であるから「譲歩した」と断言できる、という読解の仕方も示していて、整理と説明の仕方がなるほどと思った。

自分が論文を書いたときに史料をどのように使ったか、みたいなことの細かいことはもうあまり覚えていないが、それがどういうふうに解釈したらいいのかということについては文章表現・文末表現で常に匙加減をしていたことが思い出され、歴史学の論文てこう書くよなあとは思った。私もフランス革命期の地方都市における政治過程についての論文を書いたことがあるので、共感できることが多い。

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「ふつうの軽音部」第41話「輝く日々を想う」を読みながら、また感想を読みながらいろいろ考えたのだが、最近は性的少数者についていろいろ大っぴらに書かれていることが多くなったというか、これはまあある種の性指向の解放というかそういうものとして捉えられると想うのだけど、私自身は一方的強圧的なフェミニズムなどの運動、LGBTやあらゆるジェンダーの平等を主張するような運動には基本的に反感を持っているのだけど、性的少数者の存在そのものには共感することは多い。

だから私のタイムラインにもゲイ(あるいはオカマ)の人は結構いて、その話に頷くことも多い。で、その人たちは皆LGBT運動には反感を持っていて、そういう人たちを代表しない運動に一体何の意味があるのかと思ったりする。これはフェミニズムが多くの女性に嫌われていることと同じなのだけど、逆に言えばジェンダー集団というもともと多様なものを一つの意見として無理やりまとめようとするところに無理があるのだろうとは思う。彼らのノリに「一億玉砕」とかの戦時中のファなティズムに通じるところがあることになぜ気がつかないのか不思議には思う。

「ふつうの軽音部」の登場人物の中で性的少数者であることを類推されるキャラは内田桃(主人公鳩野ちひろのバンドのドラマー、美人)と3年生で軽音部の副部長、またバンド「性的カスタマーズ」の(ギター)ボーカル新田ちひろ(美人)の二人がいる。桃は恋愛感情がないいわゆるAセクシャル、たまきは女性が好きな同性愛者であることが示唆されている。

今週からしばらくはたまきの過去話になるようで、1年生の時に東京から来たたまきと最初に友達になった夏帆の話が語られていくことになるようである。そのあたりで恋愛がらみの話が出てくるようだ。このマンガの面白さは性的少数者の話にあるわけではないと私は思っているのであまり深掘りするのはどうかなと思うところが私にはあるのだけど、作者さんたちが「今この話をすることがストーリー上必要」とTwitterでも言っておられるので、そういうことなら、と思って読んでいる感じである。

LGBTやフェミニズムなどの運動が表面に出てくる以前は私はけっこう性的少数者ものの作品が好きだったし三島由紀夫やオスカー・ワイルド、美輪明宏などの人たちについてもそれなりに関心を持っていた。少し前に読んでいた「ぼくらのへんたい」という女装する3人の中学生男子のマンガ作品もずっと読んでいて、今でも私のnoteで唯一10000ビューを超えているのもこの作品の感想を書いたものである。

https://note.com/kous37/n/nb4cc082a7b75

また「ふつうの軽音部」の作画担当の出口テツオさんのツイートで紹介されていた横谷加奈子さんの作品で、「遠い日の陽」という読切と「葬式帰り」という全10話の作品があるのだが、これは出口さんも「くらった」と書いておられるが、すごい作品だと思った。これは中学生男子同士の恋愛を描いていて、ジャンルとしてはR18のBLだと作者さんご本人が書いているのだけど、なんというかそういうジャンル分けとかどうでもいい感じのものではないかと思った。(まだ読みかけなので、R18的な場面はまだ見てないが、「風と木の詩」のジルベールというか女性で言えばファムファタル的な男子が出てくるのだけど、それが素朴な描線で描かれているのが何とも言えない)

まあつまり、なぜ私がこうした作品に惹かれるのかというと、実存の琴線に引っ掛かるところがあるからなわけで、いろいろなことを考えさせられるわけである。で、こういうものを読むと自分の中学生時代の記憶とかを探り出すわけだけど、「葬式帰り」のキャラクターのように告白をしたりはしないにしても、男子同士で抱き合ったりした(まあ子供のじゃれあい程度なのだが)ことはあったのを思い出したりはしたわけである。

まあその時代を過ぎたらそういうことは無くなったのだが、今ふうに言えば自分のジェンダーについていろいろ考えたことはあった、ということである。そういうことをしたのも言わば子供らしい冒険心の現れに過ぎなかったような気もするし、女子にそういうことができる近しい関係の人がいなかったから性的関心がそういう方向に向いただけかもしれないとは思う。

ただ、いろいろあっていろいろ考えたり男子にしても女子にしても友達付き合いをする中で女子とも付き合ったりはしていったから、その中で自分の中にあったジェンダーの様々な可能性を意識的に消して、「性的嗜好は女性対象の性自認は男性」というジェンダーを「選び取った」意識は、割と強くあったのだなと考えながら改めて思った。

だからジェンダーが生得のものというのは、まあそういう人ももちろんいると思うし「ぼくらのへんたい」の「まりか」はそういう子だったわけだけど、必ずしも全ての人にとってそうだというわけではなく、大人になるにつれて自然にそうなったり、あるいは意識的に選び取ったりするという側面もあるというのが自分自身の実感ではある。逆に言えば、青年期にもっと違う性的体験をしていたら違うジェンダーになっていた可能性は否定できないようには思う。

で、なぜ自分がフェミニズムやLGBT運動に反感を持つかということなのだけど、つまり自分が意識的に選び取った「男性」というジェンダーについてめちゃくちゃ酷い扱いをされているから腹が立つ、ということなんだと思ったわけである。誰でも自分が考えた末に選び取った結論を悪様に罵倒されたら腹が立つだろう。これはもちろんバイセクシュアルや同性愛者というジェンダーを選び取った人についても同様だと思う。彼らは攻撃されているのは自分たちだけだと思うかもしれないが、男性というジェンダーほど現代において罵倒され攻撃されているジェンダーはないわけで、そのことに無自覚であることが容認できない、というのが本当のところといえばいいだろうか。

これはある意味TERF、トランス排除的フェミニストと言われる人たちが「女性というジェンダーが攻撃されている」と受け取って戦闘的になっていることに近いかもしれない。しかし彼女らの主張もすぐ行き過ぎて5歳の男児が女湯に入ることに難癖をつけたりし始めるのでもう少し常識的に行動してもらいたいとは思うのだが。

というようなことを考えて、自分自身のジェンダーについての見方が少し更新された感じがしたので、書いておきたいと思ったわけである。迷いなくマニッシュな男性、迷いなくフェミナンな女性はそれぞれ羨ましいとは思うのだが、まあそれはそれで大変なことがあることも大人になれば見えてはくるわけで、結論としてはお互いのジェンダーを尊重していきましょうという「常識に回帰」するわけではある。


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