FBエコーチェンバーの功罪/「ふつうの軽音部」と「人を前に向かせるもの」/シルクロードの謎の中世都市の発見/「ていねいな暮らし」の3大派閥

Posted at 24/10/27

10月27日(日)霧

昨日は午前中にいろいろお金の算段をして、午後は仕事。帰ってきて「2.5次元の誘惑」のアニメを録画で見て、夕食を食べたらあまり何もしないうちに眠くなったので(何しろ昨夜は鍵の騒ぎでまともに寝られなかった)、早めに寝た。起きたら4時前だったので少し二度寝を試みたが、10分後くらいに起き出した。

起きてから少しいろいろ考えていたのだけど、SNSもツイッターが中心だと割と批判的な言葉が広範囲に届くが、SNSとは違うがnoteはまたじっくり読んでくれる人に届きやすいと思うし、FBやインスタではよりその人個人の人間的魅力みたいなものを中核にした人の輪作りができるのかな、ということなどを考えていた。

ただ、FBで長文を書くタイプの人がいるのだけど、そういう人はなんというかあまり幸せそうな感じがしない人が多くて(偏見かもしれない)、他の人のコメントとかを読むことで鬱的なスパイラルに陥っていく感じの印象がある。Twitterで何か書いて心ない人からひどいコメントとかをもらうと返って「なんだとこのヤロウ!」と闘志が湧いたりもするので、逆にエコーチェンバー的にならない良さ、みたいなものはあるかもしれないなとは思った。ただ、同志を糾合する!みたいなことはFBとかの方がやりやすいのではないかという気はした。

いろいろなSNSやネットサービスもうまくその性質を掴んで自分のやりたいことに生かして行けたらいいなと思う。

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https://shonenjumpplus.com/episode/17106567256216464824

起きてから、「ふつうの軽音部」43話「輝く日々を走る」を読んだ。主人公鳩野ちひろたち(1年生)と関わりがある3年の「たまき先輩」のストーリーが続いている。展開についてはまた感想を書こうと思うが(というか面白いので是非読んでもらいたいが)、読んで思ったことなど。まあでも内容には触れるのでネタバレありです。

親友だと思っていた仲間がすれ違いで部活も学校もやめてしまい、その子のことを本当にはわかってなかったことに気づいて落ち込む中、憧れの人に会うためにわざわざ東京まで精一杯おしゃれして出かけて、話のついでみたいに「結婚式の準備で忙しい」と言われ、自分が無意識に気が付かないふりをしてきた、当たり障りのないように生きてきた生き方に思い当たって「そんなことだからあんたはずっとひとりぼっちなんだよ」と囁きかける自分の黒い声に、決意を秘めた瞳でSoundCoreのイヤホンを耳に入れ、サンボマスターの「輝き出して走ってく」を聞いて泣きながら走り出していく。

音楽を聴いても何も変わらない。でも前を向くために、走り出すためにロックを聞く。そんなことをコメント欄に書いている人たちがたくさんいて、「生きるための音楽」というのはまさにそういうことなんだよな、と思った。

自分の心は自分でも思い通りにならない、そういう時に前を向いて走り出すために何かを聞く、というのはとてもよくわかる。

自分だと、そういうものがどちらかというと美術なんだよなあと思う。いろいろと考えて煮詰まって新しいことが思いつかなくなった時に、ふらっと入った展覧会やマンガを読んで前向きな明るい気持ちになる、ということが多い。人間の考えはもっと自由でいいんだ、みたいなことを思えるのはそういうところなので、音楽を聴くと心は晴れるけどどちらかというと涙もろくなるみたいな感じの方が強くて、前向きになれるというのはもっといわば理知的なアートみたいなものの方だなという気が自分はする。

なんだろう、音楽の作り出すいわばフィクショナルな世界が人を支える部分と、アートが作り出すそうした世界の、性格がやはり違うのだろうなと思うのだけど、自分はそういうところでアート寄りの人間なんだろうなという気がした。というか、逆に言えばアートを媒介にして音楽を理解しようとしているところが自分にはあるのかもしれないなという気もする。

それに関連するかどうかわからないけど、今朝読んだツイートでこういうものがあった。

https://x.com/takasuka_toki/status/1850178988100174213

これはなるほどと思ったのだけど、生物は動く(運動する)ために脳が必要なのであって、思考はその後付けに過ぎないという研究があるらしい(だから木や海綿には脳がない)。

これはなるほど確かにそうだなと思った、というか人間に思考という機能がついているのはなぜか、みたいなことを生物的な理由で考えていくと、動くために必要だというのは納得感があるなと思った。

そう考えてみると、「考え過ぎて動けない」ということが完全にバグであるということがわかる、というのも面白いなと思う。そういうバグを人間は持っているから、そういうバグを解消する一つの手段として音楽やアートがある、というのはこれもまた納得的だなと思う。

なるべくスッキリした気持ちで毎日過ごしたいものだが、なかなかそうもいかないわけで、困難は常にたくさんあるのだけど、それを楽々乗り越えていく力みたいなものが人間には必要で、それを与えるのがアートだったり音楽だったりする、ということなんだろうと思う。

しかしまあそういうものには依存性もあるわけで、常にそういう気持ちでいるためにずっとマンガや小説の世界に沈潜する、みたいになってしまうと動けなくなり、それがまたバグになったりもするというのも人間のままならなさみたいなものだなとは思う。

つまりまあ、動き出すためには方向性があった方がいいわけだけど、方向性を見出すためにも考えたり動いたりしなければならないわけで、それを人が見つけられる手伝いみたいなものができたらいいなと自分では思うところはある。まずは自分の今の錯綜した状況をなんとかする方向性が必要ではあるわけだが。

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もう一つ面白いと思ったのが、現在のウズベキスタンの領域にトゥグンブラクとタシュブラクという二つの都市が中世に存在したらしいということがドローンによる空撮などでわかったらしいということ。

https://x.com/honnokinomori/status/1850258443061637432

この地域はおそらく突厥や唐によって支配されていた時期が結構あると思うから、漢籍などにも記録があるのではないかと思うのだが、その時代の文献学や歴史学の方の人たちのコメントを待ちたいなと思った。

イラン系やトルコ系の民族が基本的には住んでいたと思うので、その辺のことが明らかになってくると面白いなと思う。

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そのほか面白いと思ったのは、「ていねいな暮らし」には「英国派」「北欧派」「京都派」という三大派閥があるという話で、これは笑ってしまったがなるほどと思った。自給自足生活をする「田舎のお婆ちゃん派」というのはないのかと思ったが、もっと都会的なスタイリッシュなものを指しているのかもしれない。私のイメージでは、うちの近辺でナツメやら梅やら柿やら胡桃やら栗やら柿渋やら桑やらいろいろうわっていて、祖母や曽祖母はそういうものを生かした暮らしをしていたに違いないのだが、自分では全くそういう方向に関心が向かないので、ちゃんと畑をやりながらそういうものを貯蔵食品にして大事に食べていくみたいなのが「ていねいな暮らし」というイメージがある。ただこの3大派閥もわからなくはないので、暇な時にそういうことも考えながら「ていねいな暮らし本」を読んでみるのもいいかなと思った。


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