服装の機能性と表現性/自分の中の「センター」に何を置くか

Posted at 24/09/24

9月24日(火)曇り

昨日はだいぶだらだらしてだいぶ低空飛行だったのだが、夕方に少し草刈りをし、その後車で岡谷に出かけて書店に行って帰ってきたら少しマシになり、夜はもううたた寝からそのまま寝床に入って寝て起きたらまだ2時過ぎだったのだが、だいぶ元気になっていた。その後思いついたことを書き出したりまた寝たりゴミを集めたり漫画を整理したりまた寝たりしたのだが結局4時過ぎに起き出して、ゴミを捨てるついでにコンビニにジャンプを買いに行ったら、ちょうどカーラジオで「ラジオ深夜便」が終わるところだった。ラジオ深夜便、こういう朝早く起きてしまった時に時々聞いているのだが、割といい話が聞けることが多い。だからといってそのために起きようと思うわけではないのだが。

今朝はだいぶ涼しくて、最低気温が16.7度。外に出るとひんやりするので、久しぶりにジャケットを着て出かけた。そうしてみると、ポケットがあって便利だということに気がつく。すぐ携帯やレシートもカバンに戻さないでとりあえずポケットに入れておいて後で整理することができるから、収納場所があるというのは便利だなと思う。

石原裕次郎が体のラインを崩さないために10円玉一枚ポケットに入れてなかった、という話を赤塚不二夫が映画エッセイマンガで描いていたのを思い出したのだが、おそらくは婦人服にポケットがあまりないのも同じ理由だろう。シャネルスーツはポケットを作ったのが婦人服としては革命的だったという話だが、その後は「衣装が自己表現」という方向に進化してしまったためにまたポケットは邪魔者になってしまったらしい。機能性か表現性かどちらか取ればいいのにと思うが、どうもどちらも捨てられないようだなと思う。まあ私自身、スーツあるいはジャケットパンツという男子の「普通の服装」はあまりにもバリエーションがないなと思うし、だから若い頃は色味的に結構バラエティを持たせていたのだが、最近になるとTPOできていけない場所が増えて、まあ衣装による自己表現とか限界があるよーでなとは思う。

まあ働く服は戦闘服だと思って工事現場では作業服を着ればいいだけのことではあると思うのだけど、蓮舫さんのように防災服を着ていても襟を立てたりヘルメットをちゃんと被らないところに自己表現を見出す人もいるし、まあああいうのは覚悟が足りないという感じはするなあと思う。

***

昨日は福田和也さんが亡くなったことで思ったより自分が衝撃を受けていてどういうことなのかあまりよく掴めていなかったのだが、やはり自分の中で福田さんのような生き方を一つのメルクマールにしているところがあって、それが失われたということも一つなのだが、Twitterを読んでるともうそれは過去のものだとかなんちゃって保守だとかそういう批判が多くてすでにそのメルクマールさえ評価されなくなっているということにさらに衝撃を受けたりしていたのだなあと思った。

まあそれで、そういこと全体を自分はどう受け止めるべきか、みたいなことを整理していたのだけど、つまりは自分の中心、センターというものをどう作り出し、そこに何を置くか、という問題なのだなと思ったのだった。

というのはセンターというものをどう構築するか、それは日本のセンターでもあり世界のセンターでもあるのだけど、運動のセンターという意味ではない。中央広場というとヨーロッパの都市に寄りすぎるが、要は「場」というものであり、「常識とか良識」というものでもある、というイメージである。日本の中心、と考えてしまうと天皇陛下、になってしまうが、自分の中で天皇陛下は「中心」というより「上」という感じなので、「広く会議を興し万機公論に決すべし」の「会議」というか、政治の会議の中心は国会だし学問の会議の中心は学会だろうが、世論の中心の場みたいなものでもあり、そこで形成される常識や良識の一致点というものでもあるかなと思う。

ただ現実問題としてはそのようなことは不可能ではあるのだけど、擬似的には例えばTwitterとかが今になっているのはそういうものなのだろうと思う。そういうとまたそれは期待しすぎだと言われることなのだけど、まあなんだかんだと言いつつ「基本的に誰でも何をいってもいい場」として最も成立しているのはTwitterであってだからこそ右も左もなんとなくここに帰ってきてしまうのだろうと思う。

もちろんここで世論が形成されうるのかというのも主観的な問題であって、人がいろいろ意見を述べているのを読んでいるうちに自分なりの考えを形成する、ということは可能だし、もちろんそれはこの場以外で何を学んできたか、経験してきたかがないとただ煽動されたりフラフラしたりするだけになるし、ポリコレその他の縛りをかけることで場の空気を自分に有利に動かそうとする人も少なくないからそこもしっかり見ていかなければならないことはもちろんだが、とりあえずはまだまだ意味のある場として存在はしているのだと思う。これだけ内部のあちこちで良くも悪くも「活発な」議論が行われている媒体は他にないだろう。

もちろんこれはTwitterをやっている人、特にここで意見を述べたり見解を披露したり経験や知見を広めたりしようとしてくれる人がいるしそれを利用して自分をさらに前に進めたいと思っている人たちがいるから成り立つわけだし、日本人の中でもTwitterをやっている人などごく僅かと言えば僅かだからその中での偏った意見である可能性もある。ブロック機能やミュート機能等もあるし、フォローする人を選ぶタイムラインの構築の仕方によって全然見えてくるものが違うということは前提にしなければならないが、そうした限界を踏まえた上で(アテネのアゴラでも市民全部がいつもきていたわけではないし)向き合っていけばそれなりに有用であると改めて思う。

まあそういう世間のセンターの話を考えているうちに、自分の中のセンターの話が先決だよなという気がしてきたわけである。まあ、福田和也さんの死に衝撃を受けていたことともに考えたのは、「保守」という言葉に自縄自縛にならない方がいいなということだった。保守の人たちはわかりやすいように自分は保守だという人が多いが、無自覚な人たちがプロフィールに「普通の日本人。たまに毒を吐きます。おもしろきこともなき世を面白く」と書いたりするように、重要なことは自分が右とか左の概念に関係なくセンターだということなので、自分が自分の心にとってセンターであればいいだけのことなのだと思ったのだった。右とか左とかを考えるということはすでに自分が偏っていると思うことで、世間的にどう見えるかということに「あまり」囚われない方がいい、ということだと思う。無自覚であることはあまり良くないことではあるが、人のいうことに関係なく、自分のセンターがある、ということである。

そしてこのセンターというのは、やはり「広場」なのだと思う。つまり「考える余地がある部分」である。自分の中に持ち込まれるいろいろな問題や、自分の中にあるいろいろなことについて考える部分、ということである。ここに何を置くか。それは火種のようなものでもあり、何かエネルギーがあることによって人間が動くようなものかなと思う。

そして個人の中で、というか少なくとも自分自身にとって、このセンターに置くべきものは、多分「野心」でなければいけないのではないかと思った。

起きてから寝床の中でぼーっとしていると、身体のあちこちが引っ掛かりがあったり疲れがあったり、思ったより元気だったり、いろいろ意識されてくる。自分は元々身体というものに関心はあるのだが、身体への関心だけで自分が生きているわけではない。ただ、身体というものもまた自分を構成するものであり、というか身体こそが自分を生み出している、という面もある。

「野心」と言わずに「目標」でもいいという人もいるだろうが、つまりはそれでは自分にとっては身体性が足りない、自分にとって身体性というのは自分の今後を考える上でも大事なことなんだ、と思ったわけである。

というようなことを考えていたのだが、まあこの辺り、デカルトやライプニッツが神を半ば前提として哲学を構築していったのに対し、カントが人間の立場から神を考察した、みたいな話を読んで思ったことでもあるのだけど、つまりは近代思想、特に合理主義はデカルトから始まった、というテーゼを自分は持っていたけれども全てを人間中心に考えようとする哲学自体はカントによって構築されたということかなと思ったりし、つまりは近代哲学におけるアリストテレスのような場所にいるのかもしれないと思った。だから現在でもカントに対する新しい論考が発せられるわけで、常に先祖返りするべき思想なんだろうなと思ったわけである。この辺り、自分の中で勝手に考えているだけ(いわゆる独自研究)だし、当然ながら相当粗雑な議論なのでそこはお断りした上で。

まあせっかく考えたことなのでここに記録しておきます。


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